余りに愛しかったので、微笑みながら僕らは互いの額を獣の仔のように擦り合わせた。
自分が初めて動き出した時。
『世界』というものを、よく理解出来なかった。
生まれた時には既に知識はこの体にあり、そして同じく刷り込まれているものがあった。 息をするように、当たり前のように体に沁み込んだそれ。
己を作り出したものには、逆らうことは許されない。
作り出したのは、ヴァンとモースという人間――オリジナル。
彼らがレプリカであるイオンに望むことは、預言を詠むこと。預言に副う様に導師イオンとして立ち振る舞い、多くの人間の命を守るような言動をとること、そしてダアト式譜術を使用すること。
それが自分が作り出された意味。そして、生かされている、意味。それが全て。
それだけは頭に強くあって、そうしてそれはイオン自身の体に呪いの様な制限をかけていた。操られるかのように。
だからなのか、それとも人から生まれた存在ではないからか、人形、と。そう呼ばれる。
どこまでも、自分は異質。周囲はオリジナルばかりだというのに、自分はレプリカという人形。
いつも、『世界』と『自分』との間に壁を感じていた。
けして交わらない。
だって、自分はこの世界で独りきりなのだ。
同時に生まれた他のレプリカは殺されてしまった。
たった一人の、人形なのだ。
たった一つの、バケモノなのだ。
* * *
兄弟とも呼べる他のレプリカたちを喪うという出来事は、自分にとって他のどんな人間たちであろうと、たとえ魔物だろうと、命を喪うということに強い痛みを、酷い哀しみを覚えることに繋がった。
そして己自身が預言にない存在だからか、それともそう教えてくれる『親』というものがなかったからか、預言に余り固執することもない。
そのことがバランスを整えるためだけに作られた、改革派の導師として活動することにズレを生じなくて済んだことは、幸いと言えるかも知れない。
そしてヴァンは自分の目的に副ってさえ居れば、イオンが多少勝手なことをしたとしても、放任しているところがあった。
マルクト軍の手引きでダアトを抜け出し、戦争締結の親書をグランコクマから待っている間、立ち寄ったエンゲーブの村で彼に初めて出逢った時、体の全部が神経になったように、痛いくらいの切ない衝撃が全身にあり、急に胸が苦しくなった。
その感情が何なのか、初めて味わったけれど刷り込みが行われていたから、それを『懐かしい』のだと判断した。
どこから溢れるのかは判らない。けれど抑えようがない。
ああ、何てことだろう。
彼がオリジナルだとしても、自分は彼を強く求めてしまう。
優しく触れたいと思う。
彼に、そのこころに。
彼は始めての『外』に、『世界』に浮き足立って、そして不安がって、怯えていた。
それもそうだ、今まで安全なところで厳重に守られていたのだから。
(そして、後になって知ったのだけど、もしかしたら。
自分がこの『世界』において異質な存在だと、『外』に出た瞬間から感じていたのかもしれない。――己のように)
彼はとても優しいひとだった。そして正直で、同じくらい不器用だった。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。綺麗なものは綺麗、汚いものは汚い。
それを容易く口にした。
どういう理由があったとしても、その理由に左右されない純粋な感情。
嘘をつく必要がなく本音と建前などがない、だからこそ時に残酷に響く言葉。
そのことに隠されてしまう、本当は酷く…優しいところ。
荒削りのその在り方は、陽の光に照らされてきらきらと輝いて酷く眩しい。
今まで小さな鳥籠の中で、必要なものほどけして与えられず、他人との交流すらも制限された彼が、慣れないながらも人の中に入って、そこで見せる乱暴な仕草に隠された不器用さは、人ならば当たり前の光景だった。
本来ならばそこで他人との交流の仕方を学ぶ。――子供の頃に。
けれど、彼はそれを許されなかった。――体だけは成長していたから、外見だけで判断する周囲には、ただ拒絶された。
言葉は乱暴でも、そこに見える優しさは本当だったのに。
身を守るために体を大きく見せようとする様は、正に獣の仔の様なのに。
だからチーグルの仔であるミュウはそんなことに誤魔化されず、ただルーク自身の本質だけを見ることが出来ていたのかもしれない。
周囲の人間(オリジナル)達よりもチーグルばかりをよく見ていたから、彼に対する自分の感情が間違っていないことを確信した。
確信した途端、嬉しくて嬉しくて、彼にそのことを告げたくなる。
こんなに嬉しかったのは動き始めてから初めてのことだった。
少し休憩をしましょう、と言うジェイドの言葉に各々が木陰や水辺へと散っていく。遠くへ行くなよ、と注意するガイへうぜえ、と返してルークは水辺の木陰へと向かっていくのを、アニスの言葉を聞き流しながらイオンは自然と追う。
天気が良くて多少暑さを感じる陽射しは、木陰に入ることで驚くほど涼しい。
視線の先で、ルークがごろりと木の根元に転がった。
足音を特に立てたつもりはなかったけれど、彼は視線をこちらへと向けて来る。
「――僕も、ご一緒してもよろしいですか?」
返事はないが、ごろりと寝返りを打って背を向けられる。望まぬとはいえ戦いに身を置く彼にとって、背中が重要な部位だと知っているから、それが良いという意思表示なのだろう。
だから静かに隣へと腰を下ろし、同じように体を仰向けに倒した。
木陰の隙間から見上げた空は綺麗で、特に陽の光に透ける木の葉が彼の瞳のような綺麗な色をしていて、とても自分が落ち着くのが判る。
彼が見ているものと同じものを見ている。
彼は誰にも言えないが、この木陰から見える空が、透ける葉の色が、水のせせらぎが――他の人にしてみればささやかなものが、とても好きなのだ。
「ルーク」
「あ?なんだよ、イオン」
面倒くさそうに、けれど律儀にも肩越しに振り返る際、夕焼け色のうつくしい長い髪が金色に透けるのを微笑みながら見詰める。
まるであの気高いライガのよう。
「僕は、あなたが好きです。あなたがどんなあなたでも」
一瞬彼の動きが止まった。告げた言葉の意味を理解するために暫く時間を要して、そして徐々に目を瞠って。
「なっ、何言ってんだお前!馬鹿じゃねえの!?」
上擦った声を上げ半ば体を起こし掛け頬を些か紅潮させて、そう声を大きくする。乱暴な反応は、言われ慣れていないことをイオンに教えた。
言葉を継ぐことが出来ずに、フイ、と顔が逸らされるその仕草に、ああ照れているのだと思わず微笑む。
この笑みは浮かべようと思ったのではなくて、こころの内側から自然と齎されるもの。だから抑えることもなく、ただ静かに笑んで照れた様子の彼を見詰めた。
「……まぁ、でも、ヴァン師匠の次くらいには、イオンを認めてやってもいいぜ」
ぽつり、と零された言葉は内容に似合わず、小さな声だったけれど。
「ふふ、僕はヴァンの次ですか?」
「当ったり前だろ?ヴァン師匠に勝てるヤツなんざいねぇーッつーの!」
彼がヴァンを酷く、妄信と呼べるほど慕っていることは知っているが、その名と同時に呼んでくれている、そのことが嬉しい。
まるで獣の仔にこころを許して貰えたかのような。
嬉しさでくすくすと笑っていたのが聞こえたのか、こちらへごろりと寝返りを打って彼は。
そっと、額を着けて来た。
その瞬間はとても驚いたけれど、不機嫌そうだった彼が、まるでセレニアの花のように間近で光を放って綺麗に笑ったから。
口で言う以上に、自分のことを好きだと直接語ってくれていて、途端、胸に何かが熱さを伴って溢れて来た。
いつもは低すぎるほどの体温の、自分の体の隅々にその熱は伝わっていって、心地の良さにくらくらする。
その感覚は、今まで一度も感じたことがない。刷り込みの中にもない。
初めて訪れた未知の感情は、世界の彩りさえ変えて見せるようだった。
――なんて、気持ちがいいんだろう!
今、自分は『世界』と確かに交わっている、そんな気がして、余りに嬉しかったので、微笑みながら互いの額を獣の仔のように擦り合わせた。
こんなこと、誰ともしたことがない。
今、木陰の下で二人は本当に純粋無垢な(そして限りなく異質な)存在だった。
* * *
アクゼリュスで彼の放つ光は消えそうになった。
イオンが庇えば庇うほど、周囲の人間達がルークに向ける視線や言葉は酷くなり、イオンは最低限の言葉しか告げられない。言葉を封じられたのなら、ただ傍らに居たかった。
しかしそれすらも、アニスに遮られる。
そしてあっけなくもダアト式譜術によって齎された疲労によって気を失い、目が覚めた時にはタルタロスへと強引に連れられて会うことすらも出来なかった。
彼だけが悪いのではない。あの扉を開けたのは自分。創造者に逆らえない自分なのだ。彼と変わらないというのに、何故彼だけが。
ああでもそれなら、せめて彼の代わりに出来ることをしなくては。
自分には、その力があるのだから。
そう考えを変更して、外殻へと戻って来た。
――そこで待っていたのは、拘束だったけれど。
本当に、何一つ自分の意思で行うことが出来ない。それが酷くもどかしく情けないと思ったのは、もしかしたら彼に出会ってから初めてかもしれない。
創造者に逆らえないのは、当たり前のことだったはずなのに。
この世界に他に居ないと思っていた、同じレプリカという存在。
彼も彼自身ではなく、オリジナルであることを望まれていた。
自分と同じ。そう思った瞬間心に歓喜があふれ出る。
だからなのか、と納得した。
他の人とは違って、特別に感じてしまうのは。
久しぶりに合流した彼は、酷くこころを乱されていて癒す暇もなく、それでも償うために強くあろうとしていて、けれど認められずとても哀しい姿だった。
あの美しい髪を短く切ってしまっているのがとても残念で、それでも彼が必要なことだとして決めたと思うから、口にはしなかった。
それで彼という存在が己の中で変わるわけでもない。
ルチルという結晶を思い出す。
多角に削られて光を美しく反射する紅金石を含む水晶。
身を、こころをあちこち削られて尚光り輝くのは、宝石と彼だけだろうと思う。
「ルーク」
「ん?どうした、イオン」
そっと、気遣う声音で声を掛ける。少し離れたところから様子を窺うアニスの視線が痛かった。アニスには申し訳ないと思ったけれど、それを気にせずにルークの手を取って、両手でそっと包んだ。
力になれなくて、ごめんなさい。
守ることも代わりに行動することも出来なくて、ごめんなさい。
言い訳のような謝罪は口にせず、ただ感謝の言葉を口から紡ぐ。
「迎えに来て下さって、有難うございます」
「そんなの、礼を言うことじゃないだろ」
柔らかく微笑む彼の表情は、切なそうで、不安そうで、寂しかった。
その笑顔を見て、以前はしあわせに満ちていた胸が酷く、痛む。
「ルーク…」
そんな顔をさせたかったのではないのに。
無理に笑わなくても、大丈夫だと、想いを込めて包む指の力を僅かに込める。
自分の気持ちは変わることがない。だから怖がることもない。
「ルーク。僕は、あなたがあなただから、好きです」
この気持ちが伝わればいい、そう思って真っ直ぐ彼を見詰めた。
以前告げた言葉と似ていて、けれどレプリカにとって唯一と言ってもいい言葉が、自然と口から零れる。
けして狙ったり、選んだ訳ではない。
本当に。本当に、彼が好きなのだ。
彼は泣きそうな顔をして、途端隠すように俯いてしまった。
けれど次第に、ゆっくりと。
包んだ手が僅かに震えるのを感じて、ぎゅっと力を込めて握ると、彼も同じように力を入れて握り返して来た。
そして、徐に顔を上げ。
「ああ、俺も!」
その笑みを見て、やっとイオン自身も自然と笑むことが出来る。
胸が前のように暖かい光で満たされる。
――ああ、漸く笑ってくれた。
彼は嘘がつけないほど正直で。
どんな理由があったとしても、それに左右されない。
不器用だから、言葉を飾ることが出来ない。
それがどんなに嬉しいことか、誰にも判らない。
オリジナルには、きっと判らない。
バケモノと呼ばれたこの『世界』で異質な存在から好意を向けられても、本音と建前がないからこその本当の気持ちで同じように返されることが、どんなに嬉しいか。
彼がどれだけ、優しいかなんて。
オリジナルには、きっと判らない。
もう笑わないで欲しい、と胸が痛むたびに思う。
そのたびに、彼が消えてしまいそうで。
己の愛した彼が、光のように眩い彼そのものの存在が、消されてしまいそうで。
ルークを想う度に、見る度に強くこころが求めてしまう。
優しく触れたいと思う。
彼に、そのこころに。
原始的な欲求。胸に湧き起こる衝動。
もっと近くに行きたい。触れ合いたい。てのひらだけじゃなく、顔を近づけて、額で頬で唇で、そこに存在する相手を感じたい。
消えないで、と強く思う。
――ああ、レプリカである自分に、こころなんてものがあるなんて!
喜びで胸がこんなにも苦しくなるなんて。
初めて知った。
自分の代わりは作られるだろうけれど、この想いを抱いているのは、今の『イオン』だけだ。
この想いは自分だけのものだ。
そう思うと、また胸の中が喜びで熱くなる。
今、自分の胸は光で満たされているに違いない。
聖なる焔の光。
――ルーク。
自分の体が融けて光になってゆく様を感じながら、その向こうに見える泣きそうな表情の彼へと微笑む。
あなたは、確かに光なのです。
レプリカのこころにも光を与えることが出来る、眩しいほどの焔の色をした、それはとてもうつくしい、
この『世界』で唯一の、僕の光なのです。
だから消えないで。
僕はあなたの光が輝くのなら、そのためになら、生きてて良かったって思うんです。
end.