本当は、と低い心地よい声でその男は切り出した。

グランコクマは本当に綺麗だと思う。

水が光を乱反射してきらきらと輝きながらルークの傍へと落ちてくる。

それを裸足の足先で受け止め、ぱしゃぱしゃと両足の裏で水面を弾きながら同じように光の乱反射を起こす。

いつも傍らに居るミュウは、ティアと共に宿に残っているから、本当に独りだった。

やわらかい風を感じていたその背後から気配もなく、子供ですねえ、と聞き慣れた声を掛けられ振り返ると、蜂蜜色の髪を光に透かして赤い譜眼がルークを見ている。

口調の割には珍しく、厭味もからかいもなくただ笑んでいた。

「あなたのことだから、落ちても知りませんよ」

「そこまで俺、鈍くねーよ」

「おやぁ?ガイが言ってた言葉を忘れたわけじゃないでしょう」

「…覚えてるよ。海をなめるな、だろ」

普通に危ないからそこでは遊ぶなと言えば良いのに。

上目遣いにちらりと睨んで両足を海から上げる。けれど足を拭くものの用意はないから、靴を履くこともなくそのまま、海に視線を戻した。

同じ青でも、空と海は色が違う。

アルビオールで世界をぐるりと回っているというのに、あの水平線の彼方には知らない何かがあるような気がする。そういう想像が屋敷の外に出られない頃から好きだった。

そのままただ景色に見入っていると、本当は、と低い心地よい声が背後から聞こえた。

「あなたに居場所がないなら、私のところで暮らしますか、と訊こうと思っていたんですよ」

驚いて背後を勢いよく振り返った。

蜂蜜色の綺麗な髪が、光を弾いて煌いている。ティアと違って男のくせに一体この旅のいつ行っているのか手入れの行き届いた髪だ、と遠い意識のどこかでそんなことを考えた。

「……なんで?」

聞き間違えるにはその声はとても胸に響いて、けれどその言葉があまりにも意外すぎて脳が判断出来なくて、だから問い返すのに時間が掛かる。

問い返すための言葉を紡ごうとする、その動作の途中口の中がからからに渇いていることに気付いて、それを潤すための唾液を飲み込む、その動作がどこか空回っているかのような、変なぎこちなさが残った。

「まあ、一応、これでもフォミクリーの技術を作り出したのは私ですので」

焦った(そう、無意識にルークはジェイドの発言に何故か酷く焦っていた)ルークの問いに対し、メガネのフレームを抑えながら言うジェイドの口調も表情もいつも通りで、ああなんだ、とルークは知らず緊張していた自分の体から力を抜いた。

何だかんだここまで付き合いが続いたのだ、彼がレプリカという存在に対して、フォミクリーという技術に対して、表には出さないが(いっそ穏やかな笑みを湛えていたりする)内側では己と同じように苦しみと痛みを抱いていることを知っている。

必要なことを口にしない時は心底腹が立つが、同じように弁解の言葉も、慰めを求める言葉も容易く口には出さないこの男の強さが、潔さが、ルークは好きだ。

その部分を見習いたいと思う。

「そんな責任持たなくったっていーぜ。ジェイドが作り出したわけじゃないし。そもそも責任っていうんならヴァン師匠だけど、俺は要らないみたいだしな」

曲げた膝に頬をつけ苦笑しながら言うと、ジェイドはルークとは相対的にいつもの軍人らしいぴんと背筋を伸ばした姿勢でこつりと音を立てて距離を詰める。

その貌にはやはりというか、普段と変わらないいつもの笑みが彩られていた。

さあいつまでもそうしてないでさっさと宿に戻りなさい風邪をひきますよああナントカは風邪をひかないんでしたっけやれやれ私としたことがあなたと共に旅をして少々鈍いのが移ったようです、なんて厭味がルークの頭の中に響いて(幻聴だ)、だからルークは立ち上がろうと、した。

――出来なかった。

「…それでは」

カーティス大佐が、マルクトの死霊使いが、余りにも自然な口調で、とても。

「結婚しましょうか」

――とても、大変なことを、口にしたので。

「………………――はぁ!?」

彼は基本的に陽気ではあるがそういう冗談を好まないことを知っていたルークは、その言葉が正しく脳へ伝達された瞬間、びくりと体を跳ねさせ。

その身動いだ脚が傍らに脱いでいた靴を揺らし。

片方がぐらり、海へと揺らいだ。

* * *

咄嗟に伸ばした足で跳ね返して救助した靴を胸に抱き、ジェイドを見詰める。

心臓は今までにないくらい、不規則にどくどくと脈打っていて、さっきまで心地よい風に包まれていた体には嫌な感じで冷や汗がじわりと伝っている。

なんでなにがいったい。

ピオニー陛下ならまだ判る。あの人はルークを揶揄うために、そんないい加減な冗談とか簡単に出て来そうだし、口にするのも躊躇わないだろう。

ルークの頭の中は、自分がレプリカだと知った時と同じくらい酷く混乱していた。

ああだれかたすけておれがなにをしたってんだ。

誰か来てくれないだろうか。ガイとか、ティアとか、ナタリアとか。もうこの際アッシュでもいい。まだ屑だとか言われている方がいい。(ヘコむけど)

「陛下も大変あなたのことがお気に入りのようですし。ガイも本当は心配で心配で堪らないようで、その余り陛下のペットの方の『ルーク』に話し掛けてますし。陛下もですがあれ、ちょっと気味悪いですね」

え、もしかして冗談じゃないのか?本気なのか?

じゃあここは普通に返すべきなんだろうか、とルークは更に混乱して普通、普通って何だろうと自問自答し始めた。

……もしかして、ディストがこっそりジェイドのレプリカを作っていて、それがこうやってマルクトでジェイドの影武者として動いているのでは、と疑いつつも恐る恐る告げる。

「……俺、料理とか下手なんだけど」

「自己申告しなくても知ってます。メイドやその他の使用人にさせればいいことを、わざわざ貴方に求めたりはしませんよ。そんな、効率の悪い」

ルークのとりあえずの主張は、切って捨てられた。

何か傷ついたけれど、これがジェイドだ。そうだ、これが己の知るジェイドだ、とルークは納得する。驚いたことに(そして残念なことに)、彼はレプリカではなく本人らしい。

そしてやっぱり不思議なことに本気なのだ。

酷く戸惑って何かないかと言葉を捜す。早くこんな変な、居心地の悪い時間が終わるための言葉を。

「…え、あ…、俺、こんなに髪が赤くて、目も翠なんだけど…」

レプリカだけれど、この髪と瞳は隠しようもなく、キムラスカ王族の証をはっきり主張している。

そもそもこの体の情報も、キムラスカでは王位継承第三位のものなのだ。

こんな姿ではマルクトには居られないのではないだろうか。

今現在結ばれている和平条約は永遠ではないだろうし、何よりマルクトの軍人であるジェイドには不利になるような気がする。

――しかし。

やはりというか、この男は。

ルークの言葉に動じることはないように、自分にとって重要な、意味のあること以外は。

「いいんじゃないですか?そんなものどうでも」

そう言い切ったジェイドの言葉に、ルークはもう、動揺も戸惑いも過ぎ去りただ可笑しくて笑った。

そんなものどうでも。

この体が誰の情報で出来ていたとしても。

どうでもいいというのだ、この男は。

自分から、『ルーク・フォン・ファブレのレプリカ』ということを失くしてしまったら、何も残らないというのに。

今、ここで生きている、と認識しているこの自我しか、形ないあやふやなものしかないというのに。

それでいいというのだ、この男は。

アクゼリュスでその愚かさから多くの人命を奪い、レムの塔ではオリジナルのために同胞であるレプリカたちの命を奪い。

一体どれだけの命を奪えばこの命は終わるのか。(けれど、終わるのは、怖い)

それでも。

「俺、男なんだけど」

「私の視力は悪くないと、知ってるでしょう?」

泣きそうに震える声を抑えながら最後の砦とばかりに告げれば、間髪居れずに言葉が返って来て、もう逃げ場がないことを知った。

正に今座っている場所のよう。追い詰められた後ろには海が広がっていて、このままでは落ちて溺れてしまうかもしれない。

根負けして深くため息を吐いた後、赤い譜眼を見詰めて問う。

「……なぁ、なんで、結婚?」

「あなたは理由が無いと駄目な様なので」

にこりと笑んでさらりと告げられた言葉に、詰まる。

生きる理由なんて要らないことはやっと判ったけれど、必要とされることにはやっぱり理由が欲しいと思っていることを、ジェイドは知っている。

そこに居てくれるだけでいいのだ、という理由では、不安になることを知っているのだ。(だってそんな自分に自信なんて持ってない)

膝を抱えて座るルークの傍らへと立つジェイドを、ルークはただ、見上げる。

そうすればまるで約束ごとかのように、ルークと視線を合わせてくれるのを知っている。――いつから?

――いつから、ジェイドは自分をこうやって確りと見てくれるようになったのだろう。(いや、前から見ていた。あの時言っていたじゃないか、『あなたは私を殺したいほど憎むでしょう』と)

交わる視界、互いの瞳の色でルークを、ルークの瞳の色でジェイドを表していると思えるのだと言ったら、ジェイドは相変わらず厭味を返すのだろうか。

――貴方が戻ってきた時に困らないように、ちゃんと部屋も用意しておきますから」

居場所を。その理由を。

与えてくれるというのだ、この男は。

「……うん。ありがとう、ジェイド」

涙が零れそうで、だから笑った。

ジェイドらしくない優しさを、どうしていいか判らない。

そんな優しさを抱えて、死ねと言ったこの男は本当に酷い男だ。

そんなしあわせは、持って逝けない。

一度も使われないだろう部屋で待つ、ジェイドを遺して逝きたくなどない。

「お待ちしてますよ。――いつまでも」

そんな日が来ないことを、自分もこの男も知っているはずなのだけれど。

end.