仕事の予定が狂って時間が取れたので、生まれたばかりの子供の顔を見に行くことにした。

部屋は春の暖かい日差しに包まれていて、眩しいくらいだった。

ふわりとカーテンが膨らむ。

新緑の香りが陽の光に晒され匂い立つ風は春の陽気そのもので、その暖かい空気に自然と顔がそちらへと向いた、その瞬間。

うた、が。

譜歌が聞こえる。

誰かが、いや、この声は、己のそれに似ていると思い当たり、咄嗟に部屋を見渡す。

囁きに近い声で、ユリアの大譜歌の響きが耳を打つ。

小さな赤ん坊用のベッドが陽の差す窓辺に置かれている。

そこに。

赤い髪を風に揺らして、赤ん坊の寝顔を覗く存在があった。

思わず息を呑む。

上体を屈ませ眠る赤ん坊の額をそっと撫ぜて、僅かに微笑んでいるようだった。

「……っ、」

咄嗟に名前を呼ぼうとして、しかし。

目が合った瞬間、彼の口元に人差し指が置かれる。

それは、名を呼ぶなということか、と考えていると、

――シィ、静かに。起きちゃうだろ。

頭の内側に響く声。

まるでフォンスロットを繋げていた、あの時のように。(いや、あの時は自分から彼に向けてだった)

彼にしては随分と穏やかな声で、優しくそう囁いた。

――小さいなあ。

そう言って、春の新緑のような翠の瞳を細めて静かに笑いそしてまた。

譜歌が聞こえる。

自分より僅かに高めの声で、伸びやかに。

澄んだその音は、眠る子供を穏やかな夢の世界へ連れて行くのだろう。

ユリアの子孫でなくては意味を成さない、そして契約されるローレライ自身となった彼が発するそれは、アッシュの中の第七音素を震わせる。

心地の良い共感を伴うそれはまるで、二人で行った超振動の時のような軽い高揚感を齎す。

彼とでしか起こることのない、それ。

――あら、」

ぱたん、と扉の閉まる音で我に返った時には、歌も彼もなくただ、暖かい陽差しに包まれて眠る我が子と、その傍らに立ち尽くす自分しか居なかった。

部屋を包んでいた第七音素の気配もなく、ただ穏やかな静寂を湛えた部屋。

「静かに眠っていると思ったら…お父様がお傍に居て下さっているのが判っているのですね、この子なりに」

ふふとしあわせそうに笑う彼女に、何と言っていいか判らない。

ただ、眠る子供と、そして陽の当たるその風景を目が痛くなるほど見詰めていた。

* * *

やがて、時間の経過と共に子供が歩き出した。

安定感悪く、それでも己の二本の脚で中庭を歩くその姿を、ナタリアと二人で見守る。

幼い子の己に良く似た濃い赤の、艶やかな髪を見ながら、やはりあの色は彼だけのものだったのだと思う。

夕焼けの色をした、金に広がる朱色が視界をちらついた気がした。

そんなはずはない、と内心苦笑する。

それに、あの朱色が金に色が抜ける部分は、アクゼリュス崩落後に失われた。

あの頃は気にも留めなかったはず。いや、それどころか。

髪の毛の一筋ほども存在することすら、許せなかった。

この世界からその存在が喪われてから漸く、気付く。

いつも自分はそうだ。

一つのことに集中すると、周りを冷静に見ることが出来ない。

いや、彼のことがあってから、出来るだけ自重するようになったが、それでも一番大事な時にこそ、この冷静さ、判断力が欲しかった。

最大の後悔と共に得ても仕方がないというのに。

その後悔は、理論的には『ひとつになった』はずの己のこころに確かな虚無と多大な喪失感を生み出し、それは薄れることもなくアッシュという存在自体を常に包んでいる。

ナタリアとの約束を守るというそのことだけが、今自分にとっての唯一の支えだった。

ぼんやりと、思考に陥りながら眺めていた子供が転びそうになる、その瞬間。

ぴたり、と在りえない状態で子供の体が何もない空中で止まる。

何かが。

子供の体を支えているように見えた、そこから次第に色づき始め急速に形を成していく。

それは後ろの景色が透けるほど薄く淡く、不安定な状態であったが、――それでも。

彼の柔らかい表情はよく、見えた。

子供に向かって駆け出しそうになっていたナタリアが立ち止まり、驚愕に言葉もなく息を呑む音がする。

彼自身驚いた顔をして左手で子供を抱きとめていたが、視線が合うと、にこりと優しい表情で笑う。

そんな笑みを向けられることは何一つ、したことがないというのに。

彼は子供を抱きかかえ、アッシュの顔とナタリアの顔を見詰めながら、こちらへとゆっくり歩いてくる。

そしてそっと、壊れものを渡すかのような仕草で、アッシュへ子供を手渡した。

腕を伸ばせば、確かな重さで子供はアッシュに移される。

それを見て、やはり彼は笑うのだ。――満足そうに。

その笑みに、喪ったものを欲しがる体とこころが反応して、アッシュの胸に尖った痛みを齎す。

「ぁ…あ、あ……」

言葉にならないナタリアの声は、ほぼ囁きだった。

口を両手で押さえて、ただ溢れそうな涙を湛えた瞳を瞠っている。

彼の姿が徐々に消え失せて行くのが判った瞬間、いや、と彼女は首を横に降る。

最近は見ない、幼い仕草だった。

「……かないで、いかないで、」

その呟きは無意識か。

零れる涙を拭いもせずに消えゆく彼に手を伸ばす彼女に。

ああ、彼女も本当は、――本当は。

自分に向けていたものとは違うけれども、しかしかつての彼を確かに愛していたのだと、アッシュは知る。

ただ、その喪失による痛みは帰って来たアッシュに対して隠されていたのだと、そしてアッシュが帰って来たことによるティアへの罪悪感からこそ、哀しむことは許されなかったのだと、識る。

――俺は、どこにでもいるよ

だからさがさないで

不意に子供が空を見上げ、手を伸ばし笑いかける。

そこに、何かが居るかのように。

まるで知っている人物が、すぐ傍にいるかのように。

――気にしないで、どうか幸せになって

耳にそっと囁かれた言葉を最後に、声を聞くことはもう、出来なかった。

* * *

成長したその子供が、教えもしない大譜歌を歌った時にはもう、驚きよりもただ。

胸を締め付けるような切なさと愛おしさだけが、残された。

ずっと、傍らで見守っているのだ。

もう、こちらからは目で姿を捕らえることは出来ない。

この世界から全ての音素の存在が薄くなっているからだろう。

時折。

深夜遅くまで書斎で書類を片付けている際。読んでいた本から顔を上げた際。

ただ、静かに国の未来について考えている際に、それは訪れる。

不意に左肩にそっと、温かい感覚が齎される。

「そこに、居るのか」

答えはない。

労わるような、慈しむような温度でもって、肩を包み込む感覚が傍らにあるだけだ。

その体を失ってもなお、更になにかを与えようとするこの存在を。

どう言えばいいか、判らない。

遠い約束のことをまだ、覚えているのか。

どう言えば、彼は、彼こそを、癒せるのだろう。

自分には直接的な術はもう、残されていない。

この国を。残るレプリカたちの街を。――この世界を、平和で貧困も、階級による差別もないように、努めることでしか出来ない。

「…ルーク」

もういい、眠れと己の左肩へと手を伸ばせば、伸ばした手をじわりと包み込んだ温かさが増した気がした。

* * *

ND20xx、キムラスカ・ランバルディア王国に精霊となりし英雄が帰還する。

名を、聖なる焔の光と称す。

その精霊が見守りし先に立つ王は、キムラスカに繁栄を齎すだろう。

end.