小さな音を立てて水を撒く噴水のある裏庭で、直に草の上に転がって眠っている。
何も知らなければ呆れ厭味の一つも言うだろうその様は、だが彼にとっては生命維持に必要な活動なのだ。
アッシュより一年遅れて還って来たルークはローレライの慈悲の証なのか、大爆発のない安定した体を得ていた。安定というのは音素の減少で乖離の起こらない体、という意味で、もし音素が不足することがあった場合、他のレプリカとは違いその体内で第七音素を作ることが可能になっていた。
プラネットストームの活動停止後、あらゆる音素は減少の傾向にあったが、それはプラネットストームにより強制的に世界に満ち溢れるようにされていたものが、正常値に時間を掛けて戻るだけで、世界に張り巡らされている音譜帯が消滅するわけでもない。
もし、ルークの第七音素が不足した場合に補うには、こうして各音素の周囲で陽の光の下に行う昼寝が無駄もなければ過剰もなく効果的で、そしてその分夜は火を点し月光浴をすれば良い。
それらは全て、毎日この世界に万遍なく与えられているものだから。
毎日音譜帯から流れ出でるそれを、世界に影響を与えない程度に少しずつフォンスロットを通じ体内に溜め結合させる。
まるで大地に育つ植物のように世界の全てをその体に受け入れる。
別に今は第七音素が不足しているわけでもないだろうから、結合作業は行っていないだろうが、一日の中の僅かな時間でもこうしていると本人も、周囲も安心する。
もう、消えたりしないと。
この世界がある限り、彼は死なないと、安堵することが出来る。
全く逆なのは判っているが、この世界があって良かったと思う。
己がローレライと完全同位体であって良かったと思う。
そして、彼が自分のレプリカであって、良かったと思う。
先に進むにつれて金色に光る赤い髪が風に揺られ、そのたびにきらきらと暖かい光を反射した。
それは正に、彼の色を思い出させる夕焼けの残照のようにまぶしい。
まるで、煌々と燃え盛る紅蓮の深い赤から、更に濃い血の色へと変わる毛先をもつ自分とは違う色をしたそれ。
自分から派生した、自分ではない存在。
預言と同じだ。
もしかしたら、過去の分岐点での選択肢のどこかに、こんな自分が…オリジナルルークが居たのかもしれない。
だが、今更努力してもこんな人間にはなれないことを知っているし、なりたくもない。
彼という個性は自分には確かにないが、ないからこそそれで互いを補うことが出来る。
以前のままの自分ならこんな風には、とても考えられなかった。
馬鹿は死ななきゃ治らない、という言葉は名言だと、思う。
不幸だとか幸せだとか。
そういう全ては、本人の気持ち次第で決定されること。
そう言ったのは誰だったか覚えていないが、生きている中でこんな穏やかな気持ちになる瞬間もあるのだと、初めて知った。
自分が生きて来た道を、恥じたことはないが後悔は何度となく、した。
居場所すら失い、生きる意味すらも失い、何が正しくて何が憎いのか。
痛いとか苦しいとかいう感情を受け取る部分が、子供の頃に強制された実験の所為で麻痺に近かったのも、寂しいとか愛情の類に関して敏感すぎたのも、災いした。
それは本当に、自分が感じているものなのか。作り出されたものではないのか。
胸の内に在る感情の名は、本当に正しいのか。
迷いながらそれに縋るしかなく、それで精一杯の自分は視野が狭くなり、他を、周囲を冷静に判断することも受け入れることも苦痛で。
そして――疲れ果て。
辿り着いたのは、己の死という現実。
そして、大爆発という、現象。
全てが終わってから漸く全容を捉えた後に、蟠り燻っていた感情は砕け散り、荒々しい感情の果て、残ったものは酷く優しくてか弱くて切なかった。
そんな感情が今まで自分のどこに在ったのか、判らないくらいの弱弱しいそれ。
認識した瞬間は酷く戸惑い、恐れもした。
だが今は、失わない様に。壊れないように。
大切、に。こうして抱えている。
傍らに腰を下ろす。
暖かい陽だまりに包まれながら、眠る半身へと腕を伸ばし体を引き寄せる。
己の膝へと彼の頭を乗せれば、無意識にかするりと頬で一度脚の感触を確かめそれから。
幸せそうに笑んで見せた。
なんて顔だ、と思う。
なんて顔で、自分に全てを委ねているのだろう。
きらきらと光を受けた髪がまぶしい。
いつも当たり前に寄せられるその感情に、柄にもなく泣きたくなる瞬間がある。
壊れてしまうくらい強く抱き締めて、子供のように許しを請いたい瞬間があるのだ。
あどけない寝顔を見詰め、己の胸を締め付ける感情を誤魔化すように苦笑しながら、そっと、頬に掛かる長い髪を払う。
これ以上弱いところなど見せられるか、と思う。
いつまでも、彼に対して優位に立ちたいと思っているのは、単純なオリジナルとしての矜持か、それとも男としてのそれか。
それとも、ルークからの視線に含まれる、自身への無条件の信頼や尊敬や憧憬その他の感情を失いたくないからか。
――全く。
全く、要らない見栄ばかりがいつも自分に鎧を着せる。
頬から頭へ移動して撫で梳くアッシュの指の感触に、小さく呻いたルークの瞼がゆるりと開いた。
緩々と焦点がアッシュに定まった瞬間、声は掠れていたが唇は確かにその名を紡ぐ。
その寝ぼけ眼に彼の額を撫ぜながら、言葉を落とす。
「寝るのはいいが、何か羽織ってからにしろ」 「ああ……うん、ありがとう」素直に彼は礼をいい、緩慢な動作で体を起こした。
そして自分が何を枕にしていたかに気付くと、にこりと満面の笑みを見せる。
アッシュの何をも疑わない、純粋な笑顔。
この笑みに、弱い。
ルークは座ったまま、アッシュの隣で背筋を伸ばして空を見上げた。
午後も終わりに近づいた、もうそろそろ茜差す時間帯の空は、突き抜けるというよりは、包み込むような色をしている。
「……前から思ってたんだけどさ」ルークの髪に絡まる草の葉を指で梳いて取る、アッシュの仕草を見詰めながらルークが口を開く。
少し風が出て来た。
「俺はお前から生まれて、お前とは別の存在だけどでもそれはさ、」そこで一旦言葉を区切ったルークは、アッシュの指先から落ちていく草を視線で追った後、アッシュをその翠の瞳で真っ直ぐに見、そして。
「一人では出来なかったり、ちょっとキツイってことを、二人でしても、いいってことだよな」自然な響きだった。
気負うわけでもなく、はしゃぐでもなく。
静かな呟きのそれは、まるでずっと以前から当たり前のようにしていることで、だが今まで気付かなかったような、不思議な感覚を齎した。
それほど、自分達の間では当たり前だったのかといえば、そうであるはずがない。
だが、確かに憎んでいると責めながら。
ルークは、疎まれていると嘆きながら。
気が付けば必要な場所に互いは居た。
「なぁ、アッシュ。お前が望んでくれるなら、俺はずっとずっとお前の力になりたいよ。俺は正しくお前のものなんだ。本来ならお前の内側に居たはずの何かだ」ああ、それならば。
目の前に居るこのルークこそが、アッシュの中に居た預言に詠まれる『聖なる焔の光』になる部分を有しているのだろう。
預言に詠まれなかった存在に、『聖なる焔の光』は移されたのだ。
別に自分が今更『聖なる焔の光』でありたいという気は全く無いし、存在を預言に縛られなかったからこそ、ルークはあのローレライに驚嘆という単語を使わせた。
ローレライは解放の敬意を払い、そしてその結果、ルークには今の安定した体を与え、アッシュには。
――生まれた時から生きる権利を選び取る自由を奪われ、存在を歪められ居場所を奪われ孤独だけを残されたアッシュに、彼を、唯一にして絶対の半身としてこの世界に与えてくれた。
ルークはしなやかな動作でもって、アッシュの左手に右手を重ね、指を絡ませて来る。
「だけど今、ここに手がある、足がある。一つの時には出来ないことが、二つになって何でも出来る。俺にはその力がある。――いつでも、お前のために」同じ形をしていたはずの手。
帰還の際の年月のズレや、もうこの世界にはレプリカが必要以上に成長するほど過剰に第七音素が満ちていないために、ルークの方が些か小さい。身長にも外見にも当然差が出て来ている。
もう、同じものではないのだ。――だが。
「傍に、居る。死ぬその時も」
それは、周囲の一切の音が消えてしまうほど、耳に響く綺麗な音だった。
「そりゃあ、生まれたのは10年前で、でも実際ちゃんと生きて来たのはつい最近の、世間知らずの頼りない子供だけどさ。でもきっとお前から俺の元になる情報が抜かれる前は」
俺はお前の中で、10年ちゃんと一緒に生きてたよ。
儚いとすら思えるのに、その笑顔は充足感に満ちているかのようでとにかくうつくしかった。
「同じ鼓動の音を、感情を共有して。だから俺、お前のことこんなに――、」
好きなんだ、と告げようとする口を同じ形の己のそれで塞いだのは、あどけないままに真っ直ぐに隠しもせずその言葉を口にしてしまう彼を前にして、自分の身が保たなかったからだ。
end.