いい天気だと彼は言って、青い空を見詰めている。

青い空には譜石が透けて見える。ああ、なるほどいい天気だと、それを基準にして考えているジェイドとは違い、彼はこの空の色を、雲のたなびきを、風の香りをしていい天気だという。

全身で、この世界の美しさを彼は理解している。

ふと、音素が乖離する寸前の彼なら、ローレライと同じ存在の彼なら、ただの人間であるジェイドとは違うように世界が見えているのかもしれない、と幻想的なことを珍しく考えた。

そんなことはない。

レプリカは理論上、多少の劣化はあるとはいえオリジナルと同じ機能を持っている。

それを知っているのは、他でもない自分だ。

彼を生み出す理論を作り出した、自分なのだ。

彼は生きている。食事をし、睡眠をとり、思い切り笑い、身を切るように悲しみ、精一杯怒り、息をして他人を殺しその恐怖に怯えながら生きている。

――他の誰よりも切実に、生きている。

けれど、その『劣化』がどういうものなのか、やはりオリジナルである自分には、判らない。

解ることが、出来ない。

彼がレプリカかもしれないという疑いを持った当初、『これがお前のしたことだ』と、自分自身の前に目に見える罪の形として突きつけられたように見ていたことは否めないが、それはとっくの昔に味わった地獄よりは、まだ他人事のような気がしていた。真っ当な人間の精神を持ち合わせていないことは重々承知している。

己の罪をその存在を持って理解するには、彼は救い難く世間知らずで横柄で傲慢でわがままだった。(しかしそれは仕組まれたものだった)

 彼の背中を見詰めていると、強い風が吹いて目の前の赤い髪が揺れ、自分の髪が視界を横切るのが見えた。

「なあ……俺が消えたら」

空を見上げた姿勢のまま、彼が遠くを想って口を開く。

青い空に赤い髪のコントラストは酷くまぶしい。

晒された首の白さが恐ろしい。

風に煽られる彼の上着の裾がはたはたと音を立てた。

「頼むから…人間のレプリカは何があっても、間違ってももう、絶対に作らないでくれ」

彼の口から、初めてそんな願いを聞いた。

もしかしたら、彼は今下を向いたら涙が零れるのが判っているから、こちらを向かずただ、空を見上げているのかもしれない。

彼の強がりに気付くのは容易いが、ジェイドが見ない限り彼は泣いてはいないことになるのだから、ジェイド自身もそう思うことにして、普通に気付いていないかのようないつも通りの声を出した。

「わかりました。私の一生を掛けて、誓いましょう」

この口約束が何の誓約となるだろう。

そう思うが、告げた言葉は己の中で本音ではあったし、またこの言葉で彼が安心出来るのなら、それもいいと思う。

研究を再開したいと考えていることは誰にもまだ言ってはいないが、彼は消えゆくものの何かで感じ取っているのだろうか。

それともレプリカの彼にとって、『父親』的存在である己のことは、何か通じるものがあるのだろうか。

――また、幻想的なことを考えてしまった。

最近、自分はこういうことが多い、とジェイドは眼鏡のフレームを直すフリをして、表情を隠す。

彼の影響か、と苦笑する。

彼はかなりの世間知らずで、やはりため息が出るほどとても馬鹿だけれども、愚かではなかった。

本当に愚かなのは、想像力の欠如したことを言う。

少なくとも彼は、夜ごと魘されるほどの痛みを、喪失を知っている。

恐いくらいに、弱く優しいいきものだ。

彼はもともとそんないきものだったが、取り繕うことなく誤魔化すことなく恐れつつもそれを素直に出すようになった。

人は変われるか。

どんな環境にも適応するが、人は変わらない。違うものにはなれない。

人は変わらないが、纏っていた鎧を脱ぎ捨て、事実に向き合い、素直に自分を周囲を受け入れた時、今まで必死に取り繕い奥に押し隠していた本質が表に出るだけのことだと、ジェイドは思う。

ただそれが、人によって善し悪しが分かれるだけで、鎧を纏った方が上手く周囲と付き合えることもある。――欠落を抱えた自分のように。

彼は、脱ぎ捨てた。向き合い受け入れた。もう身を守るものは何も残ってない。

神経を剥き出しにして感じるこの世界は、ちりちりと彼を何度も灼いたことだろう。

だがそれすらも、己の強さにした。

そう出来るほど、彼は成長したのだろう。

これを変わった、と表現するのなら、やはり人は変われるのかもしれない。

頭だけ良くってもしょうがないだろう、と親友の零した言葉が脳裏に響いて、自嘲する。

全くその通りだ。

――人が生きるということは、こんなに意味があることなのか。

風がごうと音を立てて目の前の赤いいのちの色をした髪を揺らす。

このまま、風に消えてしまいそうだ。

「いい天気だな……」

彼は泣いてはいないが、泣かないで欲しいと思う自分は、とうに人の死というものを実感出来るようになっていたのだ、と理解する。

それを教えてくれたのは他でもない、己の浅ましい愚行から成るレプリカの、だが今では一人の人間としての、彼だ。

彼は、自分が生まれ出でる原因となったジェイドを感謝こそすれ一度も詰ったことはない。

――それが赦しであると同時に断罪だと気がついたのは、いつだったか。

だが、その断罪は、やはり。

赦しよりも裁きが欲しかった自分にとって、鳥肌が立つほど、有り得ないくらい甘く優しかったのだけれども。

だが、理解したところで、ジェイドが泣くわけには行かない。

泣くことは許されないし、そもそもそんな資格はない。

自分が引き起こしたもの。それを見届け、そして先へと進まねば。彼のためにも。

「ええ。いい天気ですね」

彼が言うから、世界は美しいに違いなかった。

深く青い空の下、目の前で己の瞳とは違う、赤いいのちの色をした髪が揺れている。

――こんなに美しい色を、私は他に知らない)

end.