譜歌が、聞こえる。

その声で意識がいきなり浮上する。

途端、知覚するその場所は白く何もない空間で、上も下も曖昧だ。

何があったのか、そもそも自分がどこにいるのかすら判らない。

今、ここで自分が何をしているのかも。

いや、何故……生きている?

死んだ、はずだ。確かに。

腕を持ち上げ首元に触れる。温かく、そして皮膚の下に感じる脈。

その下に手を下げる。自分が着ていたものではない服の下の皮膚を指先で探る。

――傷が、ない。

血の跡すらも、ない。

なんだこれは。

いったい、なにが、

――大丈夫だ

不意に己の胸のうちから声が響いて、柔らかい温度で胸が満たされる。

途端、幼子のようにその温度に落ち着く自分が居た。

この温度を知っている。

先程意識が浮上するまで、この暖かさに包まれて深い眠りに就いていたことを覚えている。

――この歌声は彼女のだから、大丈夫。さあこれで、体が世界に固定出来た

己のそれより僅かに高い、レプリカの声は自分のことのように喜ぶ。

止まない歌声が耳に届いて、全身を包むような錯覚が起こる。

その瞬間、下に引き寄せられる感覚に体がぐらりと揺れた。

――ほら、呼んでくれてる。お前は還れよ

そう促すレプリカの声に、慌てて体が下方に流されないように踏み止まり告げる。

『俺が還るなら、お前も――還るんだろうが!』

確かに消えることに対して…死ぬことに対して、恐怖を抱えていた。死にたくないと、強く思っていた。だが。

あの時、確かに死ぬ――意識が途切れる際に。

お前がいるのならと、安堵したのも、事実なのだ。

理由は判らないが、こうして拾った命を捨てる気はない。

だが、独りで還るなど、冗談ではない。

それは、安堵した自分に対する裏切りだと、己のレプリカに怒鳴る。

どちらか片方ならば帰らない。どちらが帰っても片方だけなら誰かが哀しむ。

哀しまれれば、罪悪感を持つ。

そんなのはごめんだった。

その考えを否定される。

――俺の戻る場所はお前の中だ

皆のところに帰るのは、お前の役目だと笑う。(何故か笑っているような気がした。見えもしないのに)

あの、泣きそうな顔で笑っているに違いない。

そんな顔で笑うな、と言えば、ごめん、と返って来た。

――俺はもう、お前のものを奪うのなんて、嫌なんだよ

とん、と胸を押される感触がして、下に引き寄せられるかのように落ちていく感覚。

そして急激に胸から温かさが失われる。

――じゃあな、アッシュ…ルーク。みんなによろしく。

絶対、しあわせになれよ。

『っ、ふざけるなッ!!』

優しい声で、言祝ぎの言葉を贈られる。

そんなものはいらない、と告げる暇もなく、落ちていく自分を止められないまま、声が遠く離れていく。

思わず手を伸ばし掴もうと足掻くが掠りもせずに、意思を無視され落とされた。

目が覚めてそこに居る人間達の顔を見た瞬間、頭に勝手に蘇るのは、己自身のレプリカの記憶だ。

だが、それについて何の感情も起こらない。

レプリカの記憶を譲り受けただけで、己自身が体感したことではないからだ。

所詮、記憶は記録であって、記録に付随する感情を齎すのは、精神の方。

感情の継承など出来るはずがない。

体験していないことに対する感情など、起こるはずがない。

ただ、あくまでどこかであった話のような、他人のそれが当たり前のように頭にあって、気持ちが悪い。

一瞬くらりと視界が揺れた。

驚く反応のあと、駆け寄ってくるナタリアとガイと導師守護役、そして動かないまま静かに涙を流すヴァンの妹…――

 そして顔に出さずとも落胆しているだろう、その男の襟首を問答無用に掴む。

「レプリカの技術は発展したか?」

周囲には聞こえない音量で問い掛ける。

眉一つ動かさずに、死霊使いという名を冠する男は動揺のかけらもなく答えた。

「しましたよ。ですが人間そのままはもう、絶対に作りませんし作れませんよ。音素の関係もありますが、何より世界全体で、禁を侵したものには以前よりも重い、死に等しい刑罰が決まってるんです」

「そんなもの、クソくらえだ」

瞬時に吐き捨てた。

「第一、法律ごときがお前の何を止められるってんだ」

世界に貪り尽くされた命を、そんなもので。

睨めば、相変わらず得体の知れない静かな笑みが返って来た。

赤い譜眼がこちらを見つめている。

やはり、彼は独自に昔の……アッシュがまだルークと呼ばれていた頃に抜き取られたレプリカ情報を、保存していたのだ。

彼が帰ってこないことを、知っていながら。それでも。

求めていた。

この男は結局、最初の過ちと同じところに佇んだままなのだ。

全く、始末に終えない。あのレプリカも、この男も。

この男は狂気と正気の境界線で立ち止まり、静かに機会を窺い、自分のすることを愚行と、いや狂気と知りながら、それでも一番成功率の高い瞬間を待っていた。ディストのことをとやかく言えたもんじゃない。

レプリカと交わした約束を守ろうとし、そのつもりだったはずだ。

だが、ここにローレライと完全同位体のアッシュが帰って来たら、その約束という枷すらも、この男を正常な場所へ留めておくことが出来ない。

この男を、過去の罪の意識よりもそれ以上に狂わせたレプリカに、ただ呆れる。

アッシュ自身には、人を一人狂わせる力など、ない。

「……完全同位体を作ったとしても、それは『彼』ではありません。フローリアンが彼の友人であったイオン様ではないように」

それがこの男とディストにとって、過去の大罪の主となる部分だろう。

その壁を越えられなかったからこそ、そして容易く殺せないような強大な存在を生み出してしまったからこそ、この男は研究から手を退き、ディストは更に溺れた。

だが、今は。

「俺が引き寄せる」

右手に持ったローレライの剣を僅かに揺らして見せた。

ローレライとの契約の証であり、そして宿すことが出来るそれ。

音譜帯に居るローレライに向かって、もう一度、ヴァンの妹が大譜歌を歌えば、引き寄せられたローレライの中からあのレプリカの意識ですらも手繰り寄せることが出来るだろう。

今ならまだ、間に合う。

オリジナルである自分が行うのだ、成功率は高いだろうし、何より失敗する気がしない。己の中では当たり前のことのように受け止められる。

――また、彼を苦しめることになっても?」

単に確認するためだけに、その言葉は発せられる。

そんなことは、この男にはどうでもいいことだ。

この男にとって、彼が彼としてこの世界に在ればそれでいい。

それで憎まれ責められようとも。苦しもうとも。

この世界に生きていてくれれば、もうそれで、いいのだ。

何たるエゴだろう。

――俺と同じだ、とアッシュは内心自嘲する。

瞼を一度閉じ開く、その瞳にはやはり躊躇いの色はなく、言い切った。

「知ったことか」

勝手に貸しを作って、更には返す術がない。

そんな屈辱、あってたまるか。

脳裏に蘇った声に怒りが湧き起こる。

――俺はもう、お前のものを奪うのなんて、嫌なんだよ』

こちらこそ、お断りだ。

この狂った男も、ただ呆然と喪失に泣くユリアの子孫も、寂しそうにだが帰還を喜ぶ少女も、ぎこちなくもお帰りと微笑む癖に今にも死んでしまいそうなあの使用人も!全部俺に押し付けられたところで、面倒など見られるか!

全てを奪った彼を憎んだ。

けれどそれを奪い返すことは出来なかった。

一度他人の手に渡ったものは、返されたとて不快であり矜持が許さないし、奪われたもの全部が本当に欲しいものだったか、それは今でも判らない。

もうどうでもいい。全部くれてやる。だから、

憎むくらいは。

憎しみを糧に、支えに、生きて来た。

――本当は、憎かったかどうかも、判らない。

確かに奪われた居場所は、確かに自分にとって大切で掛け替えのないものだと気付いた時に、幼かった己のこころは絶望したが。

そもそも、そんなに意味のある場所だったか。

結局のところ、失っても良いと己が選んだこと。――ヴァンに唆されたとはいえ。

本来ならヴァンに向けられる憎しみは、やはり捻じ曲げられ。

アクゼリュスを消滅させるのも、レプリカの命を使って瘴気を消すのも。

かつて誰よりも慕っていた男を殺すのも。

全部、二つに分かたれなければ自分がやるはずのことを。

背負うはずの罪の重さを。

全部。

『ルーク・フォン・ファブレ』のレプリカである彼が、全部、持って行った。

そんなものまでやるとは言っていない。

そんなものまで、勝手に奪っておいて。

自分は自分で何が悪いと言って、罪の共有すら拒否しておきながら。

互いは違う存在だとようやく認めたのに、何故今更一つの存在にならねばならないのか。

一つになったというのに、お前が居ない今の方が、欠落感や、喪失感に満ちているのは何故なのか。

あんなに。

あんなに死にたくないと、震えていたくせに。

――還ってきやがれ、『ルーク』!

end.