先程羊水から生まれた体を、そっと抱き上げる。
連絡はとうにしてあるが、それでもあと最低ニ時間はかかるだろう。
生まれたばかりの彼が目を覚ますのは、それよりもう少し先だ。
バチカルの自分の部屋で目を覚ます。そういう手筈になっている。
その前に、と実験室の横に備え付けられている浴室へと抱きかかえたまま運び、既に湯を張ったバスタブへとゆっくりと下ろした。
ぬるま湯で赤いいのちの色をした髪を洗う。
まるで産湯に浸かる赤子のようだ。
この瞼の向こうの翠の瞳が自分を見つめた時、彼によって己に死刑宣告が放たれるのだろう、と思うと少しも恐ろしくもなくただ可笑しかった。
意識がなくても構わないから、一度だけでも、その瞳を見たい。
――自分と同じ名前を持つ宝石のような色をした、その瞳を。
無理なことばかり希う己に、こんなに欲張りだったかと自嘲する。
以前、『死霊使い』という名を冠することになる原因の、実験を繰り返していたあの時は、特に何とも感じなかったレプリカという存在。第七音素だけで出来た体。
それが彼のものだと思うだけで、こんなにも。
――愛しい。
体を包んだタオルで腕の水分を拭ってやりながら、ふと。
肌を流れる水滴に自然と唇を寄せていた。
手の上なら尊敬のキス。
額の上なら友情のキス。
頬の上なら親愛のキス。
唇の上なら愛情のキス。
瞼の上なら憧憬のキス。
掌の上なら懇願のキス。
腕と首なら欲望のキス。
――さてそのほかは。
約束を忘れた訳ではない。
ただ、逢いたかった。
喪えなかった。
別に、狂ったわけではない。
あの時から、他人が思うほど自分の内面に特に変化はない。
ただ、今まで『人道的に問題がある』と思われていたことを(自分の中では特に禁忌ではなかったが)、しなかっただけだ。恩師のために。友人のために。妹のために。
それを躊躇わずに実行しただけ。
自分の中には、いつからか彼のことしかない。
彼を中心に世界が回っている。
彼が、この自分が『ジェイド・カーティス』という存在であることを望んだから、常にそう心掛けた。望まない言葉でも甘えなど一切許さない口調と態度で。
いっそ『死んでくれ』とすら言ったこともある。
それでも。
彼が望んだから、法律を作った。
彼が、望んだから。
けれど、彼という光のない世界で、息をするのがとても、苦しい。
そして今は。
どんな法律的社会的罰よりも。人道的に間違っていると言われ、肉親に友人に恐れられ避けられても。彼は絶対望まないだろうが、己の命を失うことになっても。
――彼との約束を破ってしまうことが、息が出来ないほど、苦しい。
彼の居ない世界も、彼との約束を破ることも。どちらも耐えられない。
それが判った時に、自分の中で答えが決まってしまった。
同じように苦しいのなら、彼が居る方がいい。
呼吸をするのに、他の何もが要らないのだ。
「《約束》、守らない子にお仕置きですよ」
あなたの方が、先に《約束》を破ったんですから、仕方がないでしょう。
まだ幾分湿った髪を指先で梳きながら、そう、耳元で囁いた。
再びレプリカとしての人生がお仕置きなんて、死にたくなるほど嫌だろうけれど。
ずるい大人ですみません、なんて心にも思ってないことはもう口には出せない。
(――あなたはまた、私に憎しみでなく感謝の言葉を贈ってくれますか)
そんなはずはない。
でも何でもいい。
ただ、笑ったり怒ったり哀しんだりする声が聴きたい。
空を見上げて綺麗だと言う、その言葉が聞きたい。
――それも叶わない。もう行かなくては。
「しあわせに、なってください」
もっと伝えたいことばがあった。
けれど今は、この言葉を贈ろう。
end.
わたしのせかいは、あなたのひかりでみたされていました。
グリル・ヴァルツァー【接吻】