齎されたもの

(アッシュxルーク)

しなやかな背中に口吻ける。

この背中を斬れたらと思っていた。

仰け反る喉に噛み付く。

この喉を裂けたらと思っていた。

せわしなく揺れる胸に所有の証を。

この胸を抉れたらと思っていた。

震える腹を唇で辿る。

この腹を貫けたらと思っていた。

そのかつて日常的に行っていた想像は、ダアトという閉鎖的空間で常に自分を奮い立たせたし、こころに達成感と恍惚感が満ち溢れた。

同時に酷く虚しい行為だと理解もしていたが、止めることなど出来なかった。

今も同じように、押さえがたい感情を覚えている。

ただ、その感情は以前のように葛藤からくる八つ当たり的な憎しみから発生したものではないし、自分が抱えるにしては余りにも砂糖菓子のように脆く甘くこころを蕩かせて行くものなのだけど。

覆い被さる様に体を重ねて、白いシーツに広がる柔らかい朱金の髪に顔を埋めた。

擽ったいのか首を竦めて笑う、その跳ねる体を抱き寄せ首筋に唇を寄せながら、斬りつけたいと思っていたはずのしなやかな背を撫でる。

想像とは別の形で体を貫く。抉る。

撓る背、仰け反る喉、苦痛に耐える表情。

けれど、うっすらと開かれた瞼の下、森の湖面のような翠の瞳には確かな快楽の彩があって、背中にしがみ付いて来た手の爪が背中を傷付けたのか、僅かな痛みが走る。

――その痛みすらも、愛しい。

快楽と幸福感の度合いは、かつて自分を奮い立たせた想像などよりも、はるかに比べ物にならなかった。

 

end.

その存在はただ一つの幸福にして、

 

同じ作りの互いの頬に手を伸ばす。

最初はいつかのようにてのひらを合わせることから始めて、互いの腕を上に辿り、肩に触れて、同じ形をした手が同じタイミングで、同じゆっくりとした動作でもって頬に伸ばされる、それは一種の儀式めいた仕草だった。

実際のところ、二人が確かな意思を持って互いに触れ合うことなど、共に暮らすようになるまで一度もなかった。

以前鏡のようだと周囲に言われても、普段の互いからは実感どころか嫌悪しか湧かなかったが、剣を振るう時だけは別だった。

基本的に生真面目な部分のあるアッシュだけならまだしも、あの始終やる気のない我侭な公爵子息だったはずのルークが、ヴァンの教えだけは基本からほんの些細なことすらも忠実の体に叩き込んでいた。だからこそその剣に乱れはなく、この時ばかりは正に自他共に認める鏡のような存在だった。

この二人が互いに触れ合うことは、互いが互いを別の存在であると認めるには手っ取り早く、けれど矛盾することに、お互いが同じものであることを受け入れる意味もある。

一人であったならけして触れ合えない。

けれど、触れれば触れるほどぴたりと重なり合う部分は、どうしたって《同じもの》なのだ。

かつてアッシュが『ルーク』だったころ、研究者の一人は《これは世界にただひとつしかない兵器だ》と何度も口にした。アッシュに向けられたその視線は薄気味悪そうな色を宿していて、そして実験中に過度の負荷に耐えられずに気を失っても、支える腕は、触れる腕はなかった。

世界にただひとつの兵器。

人には与えられないその名称。公爵子息として生まれ、第三王位継承者という立場は確かに、人となりよりも立場の方が重んじられることは頭で理解していても、人にするものではない対応は、幼いこころに絶対的な孤独と酷い傷をつけた。

――そう、傷をつけられた。

そのことを、今更ながらに実感したのは遅すぎるだろうと、アッシュは思う。

だが当時は虚勢を張っていたのもあるし、何よりアッシュ自身のプライドがそのことを認めるのを許さなかった。そんな言葉に傷など付けられるはずが無いという、絶対の自信とプライドが自分を何とか支えていたからだ。

今、そのことに気付けたのは、認めてもいいと思えるようになったのは、ここに。

間近で同じ作りの貌を寄せて、アッシュの頬に触れて来るもうひとつの《世界にただひとつの兵器》が存在しているからだ。

もう、ひとつではない。けれど、どこまで行っても同じもの。

ルークと触れ合うその場所から、引き寄せられるような感覚が体を広がっていく。

体中に響く同じ振動数の第七音素は共鳴し合い、それは更に強く酩酊感と恍惚感を伴いながら広がって、互いにたとえようもない幸福感を、快楽を齎す。

そのことを今までルークに言ったことはなかったが。

「俺が猫なら喉を鳴らしてる。お前に触られるのがホントに気持ちいいんだよ」

彼の言葉に、アッシュはただ目を瞠った。

同じものを感じている。

何か落ち着くし、すっげしあわせになるんだよな、そう言って笑うルークに、思わず頬に触れていたアッシュの右手の親指が、まるで鏡に映る自分の唇に触れるような無造作な仕草でルークの唇を辿り。

そっと、顔を近づけて触れ合わせた。

 

end.

ユニゾン

 

そろそろ休憩でもするか、と時計を確認した瞬間、タイミング良く軽いノックがして、開いたドアからルークが当然かのようにワゴンを運んで来た。

彼が時々メイドの仕事を奪うようにしてこういうことをするのをアッシュは好まなかったが、さすがというべきか、仕事の邪魔をしないタイミングの良さだけには心の中で密かに感心する。そして公爵子息のすることではないと思いながらも結局許容してしまうのは、バチカルに、自分の傍に居る時くらいは共に少しでも多くの時間を過ごしたいと思っているからだ、これでも。

恐ろしいことに逢えない時間というのは、自分をとことん甘くしてしまうものらしいと、アッシュは己の変化をどこか他人事かのように思う。

「そーそー、アッシュ、ガイから手紙が来たぞ」

ティーテーブルの上に以前とは違い、手馴れた様子で焼き立ての香りを放つマフィンだとかを置いていたルークが、今だ机から離れないアッシュを振り返って、ズボンのポケットから取り出した手紙を軽く振ってみせる。

「またか。あいつもマメだな相変わらず」

笑顔のルークが示すそれを、書類から顔を上げ目を細めながら確認し、書類を軽く片付け、ペーパーナイフを持って席を立つ。

用意が終わり、いつもの定位置である窓際に置かれたソファに座ったルークが手紙を目の前に翳すのに近づき、これまたいつもの定位置であるルークの隣へアッシュが腰を下ろすと、さんきゅ、と笑顔でナイフを受け取り鼻歌交じりに左手で封を切った。

ルークが手紙を広げて読む、その間にアッシュは砂時計を確認して紅茶を互いのカップへと注ぐ。

「あ、里親を捜してるんだってさ。俺、ピオニー陛下からブウサギの子供貰おうかなあ」

「……やめておけ」

紅茶に口をつけながら言うアッシュの言葉を聞いて、ルークが顔を上げる。

その表情は、納得がいかないのかかなり不満そうに頬を膨らませていた。

「何でだよ。別に屋敷で飼う訳じゃないから良いだろー?レプリカの街で飼うからさ!」

「どうせお前のことだから、皇帝を真似て知り合いの――イオンだとかシンクだとかアリエッタだとかの名前でも付けるつもりだろう」

アッシュの返事にルークは驚いたように目を瞠った後、誤魔化すように些か慌てた様子ですぐにフイ、と顔を背けた。

「…いいじゃん、別に」

拗ねたように俯き加減でもごもごと言葉を発して、手紙を乱暴な仕草で封筒に戻しアッシュへと突きつける。

それをアッシュが受け取りきらないうちに手を離して、ルークは自分の分の紅茶へと手を伸ばした。アッシュの膝の上へとひらりとそれは落ちたが、アッシュはそれを視界の端だけで追って、ただルークの横顔を眺める。

「何見てんだよ」

「……別に」

不躾とも言える間近からの視線に耐え難いのか、ぱしぱしと軽く右手で隣の片割れの膝を叩いて来るのを掴まえて、アッシュはルークを僅かな隙間すら許さないかのように引き寄せた。

どんなに愛情を込めて育てたところで、ブウサギの寿命は人間に比べてはるかに短い。
そうして以前の知り合いの名前を付けたブウサギが死ぬたびに、再び喪失の痛みに涙を見せずに泣くのだろう、この魔物すら殺すことを厭うレプリカは。

――そのお前の悲しみが、俺を切なくさせるのに。

   

end.

サプライズエンカウント 前

(ナタリアとティアとルーク)

特にきっかけがあったわけではないと思う。

ただ、少し離れたところでナタリアに何かを言い募られていたルークが、俯いてため息を吐いた後。

徐にナタリア頬へと顔を近づけ、そっとキスをした。

受けたナタリアも、赦しを与えるようにルークの頬へキスを返す。

照れたように髪を靡かせる勢いで顔を背けるルークの隣で、ナタリアも機嫌を直しているようで。

決まりきったかのような、その仕草に思わず体が固まった。

「ああしていると、本当に婚約者同士だと思わされますね~」

いやー、若い若い、と背後からの声に思わず息を吸い込んだ喉がひっ、と悲鳴を上げる。

「何ですか、ティア。その反応は」

「す、すみません、大佐…。その、驚いて」

あのルークが、という何故か酷い動揺に襲われている自分を、不思議に思う。

気がつけば、胸が痛いほど高鳴っている。不意打ちのように仲の良いところを見せられたからだろうか。それとも、盗み見たような罪悪感からか。

「でもまあ、彼がああいう仕草をするのは、意外な気もしますね」

いつもかったるそうにしている彼からは、あんなに優しい仕草は思い当たらなかったから、同意する。

「…そうですね。貴族らしい上品な仕草も見たことがないけれど」

我侭で、自分勝手で。いつも手を煩わせられて。

今までの行程を思い出して、深い深いため息を吐くティアの背後で、偶然通りかかっていたガイが申し訳なさそうな笑顔で頭を掻きながらルークのフォローをする。

「ああ、ルークはあれでもダンスも礼儀作法も出来るんだがなあ……」

「そうでしょうね。良く見ていれば仕草の端々に現れていますから」

なかなか最近はやってくれないけどな、と苦笑するガイとジェイドの言葉は、ティアにとっては思ってもいなかったことで、酷く驚いた。

貴族なんて身分の人とは程遠い、狭い世界でしか生きていなかったから、全然気がつかなかったし、そんなところに気がつくジェイドの注意深さに思わず感嘆する。

「そう…なの?」

「体面を気にする公爵が、何よりもまず叩き込んだからな。今はそれに反発しちまってきちんとしないけど、整理整頓も本当は得意なんだ。ほら、そういうヤツってやれば出来るのに部屋汚いことが多いだろ?」

同意を求められても、ティアにとってはしっかりした兄と几帳面な祖父しか良く知らないから、相槌を返せなかった。それをガイは疑っていると取ったのか、じゃあ、試しにやってみるか?と悪戯を思いついた笑みを見せた。

「ルーク」

「あんだよ」

「ちゃんとテーブルで食べてるんだから、右手使って食えよ」

宿屋で比較的ちゃんとした夕食中、向かいに座ったガイが綺麗な仕草で口元をナプキンで拭いながら、ルークのだらだらとした食べ方を注意する。

ジェイドは二人を一瞥もしないまま食事を続け、アニスはちらちらとガイとルークを交互に見ている。導師イオンは相変わらずルークの隣でにこにこと食事をしていて、ティアは隣でやはり綺麗な動作で食事をしているナタリアの向こうのルークを見守ってしまう。

ルークは注意をされた途端、かしゃんと音を立ててフォークを皿に落とした。

「たりぃ……」

いつもならばそこで終わるのに、今回は。

「ルーク」

ガイが真っ直ぐにルークを見詰めて、いつもより強い口調で名前を呼ぶと、ちらりとガイを上目遣いに見た後。

ルークは肘を突いていた姿勢を整えて、自然な動作で右に持ち替え、ぎこちないところは一つもなく、いやいっそ優雅な仕草で料理を口に運ぶ。

途中落としたりしないか、とすら思わせない動作で綺麗に食べ終えたルークは、それ以外変わったところなどなく、短く『ごっそさん』と言ってさっさと席を立って行った。(「先に席を立つのはマナー違反ですわよ」と嗜めるナタリアの声には「勘弁してくれよ」と答えていた)

「ティア、食べないの?」

アニスの問い掛けにはっ、と我に返って、持っていたフォークを落としそうになるのを、慌てて握り締めて回避する。

あんな食べ方も出来たのか、と驚愕の余り自分の食事を忘れてしまっていた。

視線を感じて顔を上げれば、ガイと目が合う。その目はどうよ?と言わんばかりに自慢げに笑っていて、片目を瞑ってみせた。(なによ、それ!)

これでは最初に、おにぎりなどを与えたのが逆に恥ずかしくなるではないか。

いや、あれは仕方がなかったのだ、悪気があったわけじゃない。

そう思いながら、何故だか理由は判らないけれど酷くショックを受けて、食事の味もよく覚えていなかった。

 

サプライズエンカウント 後

(ナタリアとティアとルーク)

かなり前の、――彼が、自分がまだ何も知らない頃のことを思い出したのは、同じような場面に鉢合わせてしまったからだった。

己の出生の秘密を知り、彼女の所為でもないというのに落ち込み悩んでいるだろうナタリアを、気分転換にと外出に誘おうとして、ノックの後宿の割り振られた部屋のドアを開ける。

――と。

そこには、両手を繋いで寄り添う二人が居て、尚且つルークは僅かに上体を倒しナタリアの頬から顔を上げたところだった。

「ご…っ、ごめんなさい!」

しまった。迂闊だった。随分と自分はこのパーティーに対して気が弛んでいる。

こういうことが、すっかり頭から抜け落ちてしまうなんて!

焦る気持ちとは裏腹に、固まった手はいつまで経ってもドアを閉じる動作をしてくれなくて、よりいっそう自分が野暮なことをしている自覚が募る。

そのティアに対して、鈴のように透き通った、けれど芯の強い声がさらりと問い掛けて来た。

「あら、ティアではありませんの。どうかなさって?」

どうかなさって?って。今、思いっきり私は邪魔をしているじゃない!

そう、叫びたいけれど叫べない。

どうして私はこんなに混乱しているのだろうと、ティアは自分が酷く情けなくなる。何か不測の出来事があっても冷静に対処出来るように訓練して来たはずだというのに!

「あ、あの、私、二人の邪魔をするつもりは…っ」

必死にそれだけを告げる。(だからどうして必死なんて、)

けれど、王族二人は同時に不思議そうな顔をした。

「邪魔?」

「何がだ?」

「え?いえあの、ほら、今…その、」

(頬にだけど)キス、してたじゃない…とティアが小さく口にすれば、ナタリアはにっこりと笑って。

「ああ…ティアもルークにして頂くとよろしいですわ」

「えええ――!?

なんてことを言うの、という言葉しか頭には浮かばない。

頭に完全に血が上っている。脈拍など痛いほどだ。

もう、神託の盾での身分だとか、訓練だとかは、頭から消え失せていた。

ここに居るのは情けなくも、一人の少女に成り下がったティア・グランツなのだ。

ティアの反応に、ルークは慌ててナタリアを止める。

「よせよナタリア、ティア嫌がってるだろ」

「どうしてですの?」

「ど、どうしてって…!」

だって、ティアの中で唇が相手の体の一部に触れると言うことは紛れもない好意を示すことで、そんなに軽々しく行うことではないのだ。ましてや、二人は婚約者同士だというのに何故自分などにその行為を勧めるのか、全く理解出来ない。

「こころが温かくなって、元気が出ますわよ?それでは私はアニスと約束していますので失礼します」

にこにこと、けれど上品に笑ってナタリアは綺麗な歩みで去っていくのを、呆然と見送ってしまう。

部屋に残ったのは、素直じゃないルークと、同じくティアの二人。

暫くぎこちない沈黙が降りる。

居心地悪そうに腕を組んだルークがふい、と顔を窓の方に向けて口を開いた。

「い…嫌なら別に、しねーけど」

「嫌じゃないわ!」

ごにょごにょとしたルークの言葉は聞き取り難かったはずだが、ティアは間髪入れずに返して来た。

そのことにはっと我に返ったティアは、恥ずかしさに思わず口を押さえたあと、その手を下げて胸を軽く押さえる。そうでもしないと、心臓の鼓動が痛すぎたのだ。

「嫌じゃないけど、その…ナタリアに悪いんじゃないかしら……」

真っ直ぐにルークを見ることが出来ずに、顔を背けながら言えば。

小首を傾げて幼い仕草でルークが訊き返してくる。

「何で?」

「何でって…婚約者だから、するんでしょう?」

「ガイにもするぜ?」

――は?」

……どうして、そこにガイが出てくるの?

ティアの常識からして、とても違和感のある名前に動きも思考も止まってしまうが、ルークの方は頭に手を遣りながら微笑む。

「まあ、今はしないけどなー。俺がちっさいころはしてたんじゃないか?だってこれガイに教えて貰ったんだし。有難うとか、ごめんとか、おやすみとか、そういうのに使えって言われたから、ナタリアが怒った時とか、今みたいに元気がない時とかにしてんだけど」

ティアにもするか?と再び小首を傾げて問う様子は、恋愛に疎い自分でも判るほど、下心なんて全然無い。

ああそうだった、彼は情緒の面ではかなり未発達の、七歳なのだ!

途端に全身を覆う脱力感に、ティアはぐったりと床にへたり込みそうになるのを、何とか堪える。

(何を焦っていたの。何をしていたの、メシュティアリカ!)

ああ、なんて馬鹿なこと!

――なんて馬鹿な恋するわたし!)

どんなに訓練を受けたって、私はこの感情をどうしていいかなんて、知らない。

そうね私だって、何も知らないのよ、ルーク。

そのくせに、あなたに何も知らないと、今更言えないの。

――そうね、ルーク。元気を頂戴?」

そしてあなたに。

――私の元気をあげる。

 

end.