クオリア
※【Elusion】設定の二人。
なんでって、そりゃあ酷く驚いたのだ。
だって、俺にこんなことをしてくれるような人では、関係では到底なかったし、百歩譲って最近は何か上手くやれてるよな俺たち、なんて眠る前に一日を振り返って少し胸がくすぐったいような、本当は嬉しくて嬉しくて泣きそうなのを誤魔化しながら枕を抱いて眠る、そんな些細な一日の終わりを愛おしく感じているような毎日を送れていたとしても、やっぱり、こんな風に自分に触れてくるなんて思いもしなかったのだ。
だって、これは、俺にはけして向けられないもののはずだったし、男だし何より完全同位体だしレプリカだし、というか、こんな風に、彼が――直接的なことをするとはその、想像もしたことがなかった。(ていうか、普通はあんまりしないと思う)
そうだ、アッシュは俺と違って、その、神託の盾で任務とか色々あったりした…んだろうし、アッシュはナタリアと結婚するんだから、ナタリアと、こういうことをする…んだ。こういうことだけじゃない、もちろんその先だって、
そこまで考えて、脳裏に自動的に先程されたこととその感触がまざまざと蘇り、かあ、と腹のそこから熱い何かが体を駆け巡っていく変な衝動に、心臓がありえないほどの存在を放って脈打っている。
体だけじゃない。顔が熱い。今水を被ったら湯気が出る。絶対。
――あれ。
でもじゃあ、なんで、普通ならナタリアとすることを、俺としたんだ。
なんで。
なんでなんでなんで。
混乱する俺の目の前で、アッシュは不満そうに眉間に皺を刻む。
「何でお前は…俺の前だと泣く」
だって、ほんとうに、おどろいたんだ。
「キスだけで泣かれてちゃ、その先はどうなるんだ」
前途多難だ、と呟いて深いため息を吐き出すアッシュに、びくりと俺の体が無意識に震えるけど。
「まぁいい。――お前が俺の前でしか、ほんとうに泣けないのなら」
呆れたように、苦笑するように淡く笑って、アッシュはそっと、俺の髪に頬に唇に触れてくる、その感触は、やっぱり信じられないくらい柔らかくて優しかったから、俺はまた零れる涙を止められなかった。
――ああ、なんか俺、心臓が壊れて今すぐ死んじゃいそうだ。
end.
青い空の下
(ルーク→アッシュ)
眩しいくらいの青い空の下、ハッチの上、全身で風を受ける。
はたはたと音を立てる上着の音。髪が靡く細やかな音。耳を強い風が通ってびゅうと鳴った。
そんな中目を閉じて、アッシュに繋がる自分を想像する。
自分から回線を繋げることは出来ないけれど、その想像だけで繋がっているような気になる。
想いがこの風に乗せられたらいいのに。
この気持ちのいい風が、彼の元にも届いていますように。
俺が消えたら、お前の元に風として向かえたらいいのに。
その時は、この気持ちだけは残っているといいんだけど。
俺には何も残せないけど、この気持ちだけは、ここに残していけたら良いのに。
* * *
何かに呼ばれたような気がして、振り返った。
「――…」
ローレライか、とも思うが最近は接触など一切ない。ではまさか、と考えるが。
その考えをすぐさま否定する。
「アッシュさーん、あの人たち戻ってきましたから出発します……って、あれ、もしかしてお邪魔でした?」
「…何がだ?」
風に靡く髪を払いながらギンジを振り返り、その気まずそうな様子を訝しむ。
「何って、ルークさんとお話ししてたんじゃないんですか?」
「……違う」
「あれ、違いましたか。すみません。それじゃ、出発しますから中に戻ってください」
照れたようにぺこりと頭を下げ、機内へと戻るそのギンジから顔を逸らし、さっきと変わらない空へと再び視線を向ける。
眩しいほどの青に目を細めたその瞬間、心地の良い風が髪を頬を耳を柔らかく梳いていった。
end.
それはとてもやわらかいものでできていた
(ガイとルーク)
補給や情報収集に街や村に留まる時、宿を集合地点として大抵予定が立つまでは自由行動になる。
そんな時ルークは目的がない限りあちこちをぶらぶらしているのだけど、気がつけばそこの子供達に紛れて遊んでいることが多い。
しかもおやつを分けて貰ったり、逆にアレ買ってと集られたり取り合ったりして、そして気がつけば、夕焼けの中金髪を綺麗に煌めかせながら、ガイが迎えに来てくれているのだ。
今日もよく遊んでたなあお前、と微笑ましそうに言われて、いつから見てたんだとルークは逆に呆れる。
ほら、お前達も夕飯の時間だろ、とガイが促せば子供達は途端に空腹を思い出したのか、今までは休ませてもくれなかったくせに、ばいばいと手を振ってさっさと帰ってしまう。
その姿に苦笑しながらそれに手を振り返していると、ガイも子供達に向かって上げていた手を下ろして、ふと、表情を変えた。
「…やっと歩き出したような子供にさ、お菓子を渡して受け取らせたあと、もう一つ渡すと両手はそれで一杯なのに、さらにもう一つ渡した時、そのこはどうするかっていうのがあってな」
「なんだよそれ。そのこがどうするかで頭がいいとか、そんなのがわかんのかよ」
「いや別に?ただ反応が見たいだけじゃないか?」
なんだそれ、わけわかんね、とルークが返せば笑い声を上げてガイは目を細める。
「お前は片方のを口に入れて、受け取ってたなー」
欲張りだったな、と俺の頬を指の背で軽く叩くガイの仕草に、きっと当時もそんな風に、お菓子を詰め込んで膨らんだ頬にそうしただろうと思うと、思わず不機嫌にもなる。
「…お前、ただ俺をからかいたいだけだろ」
「いやいやいや、そうじゃなくってさ、――俺は」
ルークの睨み付けるような視線にガイは慌てて首を振って、頭に手を遣り苦笑する。
「俺はさ、最後に出されたお菓子が凄く美味しそうだったから、両手からお菓子を落としてそれを受け取ろうとしたんだ」
「なんだ、勿体ないな。でも、一番欲しいのが手に入ったのなら、良かったじゃん」
「――ああ、そうだな」
そう返して笑うガイの表情は少し寂しそうで、ルークは問い掛ける代わりに首を傾げてみるが、そのガイにばしんと背中を叩かれて促される。
「さて、早いとこ戻らないと、みんなに怒られるぞ」
「痛! ガイお前、もう少し手加減しろっつーの!」
「ははっ、悪い悪い」
よろついた体勢を戻してルークが怒れば、それが表面上でそこまで本気で怒ってはいないと判っているガイは笑って受け流し、フイ、と顔を背けて先に歩き出したルークの後を追う。
ふと、ガイは歩みを止めて先を行く彼の背中を、揺れる髪を、頼りないうなじを、日が落ちて些か冷たさを含んだ風に棚引く上着の裾を見詰める。
ルークの小さな姿は、残照に飲み込まれてついには闇に消えるだろう。
――そうして、手の届かないところへ、行ってしまうのだろう。
「……でも俺はお菓子を貰うにしては成長しすぎてたし、思ったよりそれは柔らかすぎて、俺の力じゃ潰れちまった」
腹へったな、そう言うルークの背中に。
その低い呟きは、届かなかった。
end.
月虹 前
(アッシュ→ルーク)
幼い頃は自分に兄弟が居る気がしていた。
そのことを言うと、母にはやはり一人っ子は寂しいのねと哀しげに微笑まれ、父には一人遊びはもう止めなさいと窘められ、従姉妹にはまあ貴方には私には見えない何かが見えていますの、と驚かれた。
じゃあ、あの時一緒に居たのは、虹を見たのは誰だったんだ。
静かな淡い夕闇、こっそり部屋を抜け出して。
空気は夕立の名残で湿っていて、庭の紫陽花の匂いを強くしている。
そんな紫陽花を掻き分けて進む、繋いだ手は冷えた空気の中とても温かく、確りと力強く包まれていた。
突然、前を歩く彼が振り返る。
『アッシュ!にじ!なあ、にじがでてるよ!』
髪の色も顔の作りも思い出せないのに、その柔らかい髪をふわふわと揺らしたその満面の笑みは確かに自分に向けられていることが判って、それを見た自分の胸に何か、熱いくらいの感情が広がる。
彼を手放したくないと繋いだ手の力を強くして、名前を呼んだ。
『――、』
――見守っていたのは、まるい、月。
* * *
「はい、よろしいですよ」
いつも通りの簡単な健康診断が済み、担当医のその声にアッシュは開いたシャツの襟を整える。そもそもここに肉体面で用はないのだが。
担当医はカルテに健康診断の結果を書き込んだ後、こちらへと向き直り相変わらずの何を考えてるのやら判らない、胡散臭い笑みを見せて問い掛けてくる。
「最近何か変わったことはありましたか?」
「……特にはない」
これもいつも通り。
本当に、何故こんなところに通っているのやら、と知らずため息が出る。
「相変わらず、素っ気ないですねえ……自分のことなのに」
素っ気ない、と言われたとしても、こちらとて報告することなどないのだから仕方がない。
特に強いて思い出したいという強い欲求もないのだ。
ただ、病弱で心配性な母を安心させるために幼い頃から来ているだけで、担当医がこれまで何度か変わっても、この考えが変わることはない。
アッシュが望まないから、担当医も逆行催眠だとかそういう治療に及ばない。毎回単なる世間話を繰り返して、時折思い出に触れてアッシュの奥底の記憶を刺激するような感じだった。
「別段、不自由は感じていないからな。普通は幼い頃の記憶が一部分ないことくらい、当たり前だろう」
「そうですか?私は覚えていますが」
こいつに同意を求めたのが間違いだった。アッシュは思わず眉間に皺が寄る。
アッシュの担当医である、ジェイド・バルフォア――この研究所の副所長であるこの男には、その頭脳と才能故に、数々の逸話があるくらいだ。
曰く、二歳で二次関数を解いたとか。(限りなく嘘くさい)五歳の時には新しい方程式を、七歳の時には新しい理論で特許を――等々。はっきり言って眉唾物が多いが、そのうちの幾つかには紛れもない真実も含まれているのだろう。だからいつまでたっても消えない。
そして、その年齢を裏切る外見は、研究の成果じゃないかと化粧品会社やゲノム系の製薬会社からオファーが何度も寄越されていることを、彼が担当医になって一年経つうちに知りたくなくても知っている。
そんな人間が、幼い頃の記憶を逐一残していたとしても、不思議じゃないだろう。
「そうですね、――そういえば、夢はその後どうです?」
ふむ、と顎に手を遣りジェイドが一つ頷く。その仕草の途中で、蜂蜜色をした髪が白衣に落ちる。
「最近、思い出した夢はありませんか?」
その言葉に、今朝見た夢のことを思い出した。
アッシュは基本的に目が覚めた途端に夢の内容を全て忘れる性質だ。起きた時点で何か夢を見ていたような気はするし、夢を見ている時もこれは前に見た夢の続きだ、とは思うが、何かきっかけがなければ起きている時に、夢自体を思い出すことはない。
その中で、今朝見たあの夢は今まで繰り返し見ている、とアッシュが起きている時に唯一認識しているものではあったが、何故だかは判らないがこの担当医に告げるべきことはないといつも、敢えて選択肢から排除していたように思う。
それを今思い出したのは、今までと違う部分があったからだ。
何がそう感じられたのか、そのことを意識しながら夢を頭の中で何度もなぞって。
「虹――を」
「虹、ですか?」
再び考えの窺えない笑みを向けながら、それでも言葉は幾分興味深げな響きで、ジェイドは先を促す。レンズの向こうで赤い瞳が細く撓った。
「……子供の俺は誰かに手を引かれてどこかに向かっている。そこまで暗くない夕闇を歩いている最中に、俺の手を引いているヤツが虹に気がついて、俺も空を見上げると、月があった」
季節的には恐らく梅雨あたりなのだろうと、あの紫陽花と湿気の様子を思い出しながら考える。
今までは、夢の世界は明度が落ちているのだと思っていたが、今朝見た夢ははっきりと満月が見えた。
あれは夜になる前の僅かな時間の出来事だったのだ。
繋いだ手の感触は鮮明に覚えている。それもそのはず、アッシュにとって『他人と手を繋ぐ』などという行為は、従姉妹以外にあり得なかったからだ。
そこまで接触を許した人物など、覚えているはずだろうに。
「おや、それは……」
低い響きが小さく呟くのが、耳に届いてアッシュは思考をジェイドに向ける。
てっきり心理学的見解か、それとも全く実にもならない揶揄いのどちらかを寄越してくるだろうと思えば、意外にもジェイドは眼鏡を押さえて目を僅かに伏せている。
訝しんで声を掛ければ、ジェイドはすぐに姿勢を正しいつもの笑みを向けて来た。
「――それは月虹ですね」
月虹 後
(アッシュ→ルーク)
「げっこう…?」
恐らく月光のことではないだろうその言葉の響きをそのまま問い返せば、再びジェイドは眼鏡のフレームを押さえながら言葉を続ける。
「ええ、月の虹と書いて、月虹。月光虹とも呼ぶようですね。虹の色分けは大気中に含まれる水分と光で変わることはご存知かと思いますが、月の光で出来る虹は大抵が白くなるようですよ。極稀に、条件の整った満月であれば二、三色は判別出来るとか」
そうしてゆっくりと、ジェイドにしては珍しい笑みを見せた。
「しかし、偶然は重なるものなのか……不思議ですね」
「……何だ?」
「いえ、私の子供も、最近月虹の話をしていましたので」
だから月虹を知っていたんですよ、というジェイドの表情も声も僅かに優しさを含んでいて、コイツも一応人間の情を持ってたのか、とアッシュは二重に驚いた。
しかし、結婚しているという話は聞いてなかった。
こういうタイプは女には事欠かないだろうが、結局独身で終わりそうだと思っていたから。
「俺は、アンタに子供がいる方が、不思議だ」
「おや?そうですか?」
軽く人間不信に陥ってるか、恐らく父親そっくりに鼻持ちならない天才児かのどちらかだろうと、勝手に想像して勝手に子供に同情する。
ジェイドは、アッシュの考えていることなどお見通しだと言わんばかりの笑みを向けて来た。
「――今度是非、会ってみて下さい。彼もここに通ってますから」
「……気が向いたらな」
生憎と、子供の面倒は苦手だ。
そう適当に流して、診察室を出る。
――その時は知りもしなかった。
ジェイドの言った『偶然』と『不思議』の本当の意味など。
* * *
いつもより早めに診察が終わった分迎えの車を待つ間、研究所の中庭のベンチに腰を下ろし、鞄から小さな文庫本を取り出した。
もうそろそろ春らしい季節になった、とそのベンチに射す陽の暖かさに思う。
しおりを挟んだページから読んだ記憶のあるところを探っている最中に、不意に風が強く吹いて髪を乱す。
落ちて来た前髪を掻き上げたその、視界一面に。
――突然広がる鮮やかな夕焼け色。
空の青の中、その部分だけが切り取られたかのように際だっている。
それが、目の前を横切っていった二人乗りの自転車の、運転手の肩を支えにして立つ人物の長い髪だと気がついた時、自転車はアッシュからそう遠くない位置で止まった。
その瞬間、何故か。
無意識に立ち上がり咄嗟に口から発せられそうになった言葉を、寸前で我に返って止める。
それこそ、実際に口に手を当ててまで。
金髪の運転手が車体を傾けると、身軽にその人物は自転車から降りる。
年は同じくらいか。
こちらに背を向けているから、表情は見えない。
「ほら、ちゃんと行って来いよ?」
「ん……」
「そんな顔しなくても、大丈夫だって。それに行かなかった時のお仕置きの方が怖いだろ?」
ぽんぽんと頭を叩いた後、それじゃ俺は授業があるからまた後でな、と機敏な動きで自転車は向きを変え、颯爽と去っていく。
それを視線で追いながら、けれどアッシュは頭の中で激しい混乱に襲われていた。
いきなり何をしようとした?
見知らぬ人間を理由もなく呼び止めようと?いや、それ以前に何を口走ろうとした?
何だ、それ。
今までの自分からしてみれば、全く持って有り得ない。
思考も、意識すらない、衝動的な行動に恐ろしさすら感じる。
常に理性で感情を抑えることを幼い頃から自分に強いて来たアッシュは、ある意味自分のその姿に絶望に近い感情を覚えた。
これまで培ってきた自制心は、こんなにもあっけなく失われてしまうのか!
自分にショックを受けている間に、その夕焼けはとぼとぼとした足取りで目の前から遠ざかり。
その遅すぎる歩みを前に、幾らでも呼び止める時間など山ほどあったというのに、馬鹿げたことに、(そう、馬鹿げたことに!)ただアッシュは言葉を発することも出来ずに口を半開きにしたまま、地面に落とした文庫本を拾うどころか身動ぎしたついでに踏みつけて汚れるわしわくちゃになるわの散々な状態にして、ただその姿が研究所内に消えていくまで見送っていた。
その後我に返って自分のらしくない有様に、物凄く落ち込んだのだけれど。
それから何度となく、彼のことを思い出しては何を言おうとしたか、それを思い出そうとしたが、その言葉はいつも形になる前に霧散してけして掴むことなど出来なかった。
そうなれば、よりいっそうアッシュは彼のことが気になって仕方がない。
研究所には欠かさず通ったが、同じ時間帯を狙っても彼は二度と、アッシュの目の前に現れることはなかった。
こういうのを何というのだったか、と幼い頃から知識を詰め込んで来た己の頭の中を探って出て来た言葉は『後悔先に立たず』とか『逃した獲物は大きかった』……何で『獲物』なんだ?その言葉をはじき出した自分の脳が熱暴走でショートしたしたのかと思うくらい、相応しくなくまた俗っぽい、と思う、そのことにまた自分でショックを受ける。
その頃のアッシュは、ただひたすら彼のことばかりを考えていた。
もちろん何のために研究所に来ているのやら、大半は上の空で。
――彼に再び出会ったのは、高校の入学式を終えた4月の暖かい日のことで、彼が自分に似ていることも、ジェイド・バルフォアの息子であることを知ったのも、またその日だった。
end.