当たって砕けろ青少年(前)
(『月虹』の現代アッシュ→ルーク)
アッシュにとって、友人と呼べる間柄の人間は少ない。
友人といっても家が家、殆どが深く踏み込んでこない者が多く、だから友人間なら当然のごとくある、放課後一緒に寄り道しながら帰るとか、休日に待ち合わせをして一緒にどこかに出掛けるとか、友人宅に泊まりがけで遊びに行く、などのことをしたことが正直、無い。
今までが、そんな状態だったのだから。
その狭い友人と呼べる範囲内で限りなく近しい、親友と呼んでも差し支えないだろう、しかしアッシュからしてみれば友人とは違う意味で意識しているルークからとうとう、
「俺ん家そこの坂の上だからさ、寄って行けよ」
という誘いを受けた時、アッシュが表情には出さなかったものの、付き合い始めたばかりの彼氏が彼女の部屋に初めて招待された時並の衝撃と緊張を覚えたことを、ルークは知るはずもなかった。
* * *
友人と呼べる間柄の人間が少ないのは、付き合う友人は選べ、と口うるさい父親の所為もあったことは否めないが、そもそもアッシュ自身が気安い性質ではなかったことが原因だろう。
だから同じく、人を寄せ付けにくい人間とある程度親しくはなるが、だからこそ深い付き合いはない。
そんなお顔ではせっかくの美形が台無しですわ、と従姉妹などはため息混じりに言うが、では何もないのに笑っていろとでも言うのだろうか。普段からへらへらと笑うなど、その方が問題ではないか。
そう思っていたが、それは間違いだったらしい。
隣りに並んで歩く人間はここ一年ほど(一方的に)見ている限りほぼ笑顔だが、それを疎ましく思うこともなければ、あろうことか彼が笑顔であればこちらもそう、穏やかな気持ちで居られる。
今も最低限の返事しかしないアッシュの横で、今日あったことを楽しそうに笑い話す彼を見て、自然と目を細める。
最初に出会ったあの時に、アッシュを魅了した髪は一年前から短く切られたままだ。
それをアッシュが内心惜しんでいることを、ルークは知らないだろう。
なにも友人間で起こる親密な感情に免疫が少ないからといって、ルークを特別視し始めた訳ではない。
偶然に研究所で後ろ姿を見ただけでも、惹かれるものがあったのだ。
だから気になった。一年はクラスも違ったが、部活では同じ剣道部に所属していた。初顔合わせで名前を聞いたときの衝撃は、今でも忘れられない。
あの時から仕組まれていたのではないかと、研究所でジェイドに会ってあの胡散臭い笑みを見るたびに疑ってしまう。出会えたことは良かったと思うけれど。
アッシュに比べて少し薄い色をした髪が、ひょこひょこと項の辺りで揺れているのを視界に入れながら相づちを打っていると、その時、それでな、と言葉を続けようとした彼の鼻先を、ぽつりと、滴が跳ねる。
「あ、雨だ」
ルークが自分の濡れた鼻に触れたまま、空を見上げた。すでにぱらぱらと滴が落ちてきて額を頬を濡らして行くのをアッシュも感じる。
何とも言えない色をした空が昼過ぎから広がっていて、湿気の多い空気に何となく予感はしていたものの、思わずアッシュは舌打ちした。
生憎、送迎に慣れているアッシュは傘とかの、そういう用意を怠っている。視線の先にいつもルークと別れる曲がり角が見えていて、いつもよりこの時間が切り上げられたことに内心ため息すら漏らす。
ルークと別れた後になら、幾らでも降って構わないというのに。駅で車を呼び出せば済むのだから。よりにもよってこのタイミングか、と、どうにもならない天候にすら悪態をつき掛けた時。
「な、アッシュ。俺ん家そこの坂の上だからさ、寄って行けよ」
駅より近いし雨が止むまで雨宿りな、と、まるでいいことを思いついたかのような笑顔で、まっすぐにアッシュを見詰めながらそう言う彼に、否と断れるはずもない。
現金なもので、さっきまでの悪態はどこへやら、このきっかけを与えてくれた雨に感謝の気持ちすら抱いた。
当たって砕けろ青少年(中)
(『月虹』の現代アッシュ→ルーク)
「ただいまー! っと、アッシュはそこで待っててくれよ、すぐタオル持ってくるから」
そう言って、玄関の靴を脱いでいるルークの頭に、廊下の奥からタオルが投げつけられる。
「ぶっ」
「こらルーク、濡れたまんまで上がるなよ」
そうして現れたのは幾分年上の、短い金髪の青年だった。
その顔を見たとき、名前もどういう人物かも、自動的にアッシュの頭の中から引き出される。そして同時に気付く。あの時、研究所でルークを乗せた自転車を運転していた彼だと言うことに。
ルークは自分の視界を覆ったタオルを取り払って、声を上げた。
「あ、ガイ、居たのかよ! びっくりしたじゃねーか」
「なんでだよ、そこに靴があるだろ。全く、居るって判っててただいまって言ったんじゃなかったのか?」
そう苦笑してからやっと視線をアッシュに向けた彼が、驚いた顔をする。
「――ん?そっちはお客さんか…って、お前は……」
今頃気付くのか。鈍すぎやしないか。それともなにか。今まで全く目に入ってなかったのか?
そう思いながらアッシュが視線を返せば、ガイの温度の低い視線もまた告げていた。
『――早く帰れ』
……相変わらず、笑顔は限りなく爽やかなくせに目でものを言う奴だ、と、自然とアッシュの眉間に皺が寄る。
きょろきょろとルークが忙しく二人を交互に見て問い掛けた。
「あれ? なんだ、二人とも知り合いか?」
「まあ、親の仕事の関係で…昔からの知り合いだよ」
ガイの肩を竦める仕草の一つをとっても気障で、それを見たアッシュは、ルークに気付かれないように眉間の皺を更に増やして舌打ちする。
「そっか。――って、ガイ、タオルもう一枚、早く!」
「ハイハイ、もう少しお待ち下さいお坊ちゃま」
ルークは自分に投げられたタオルをそのままアッシュへと渡すのを見て、ガイはやれやれと言わんばかりにそれはそれはとても優しい顔で苦笑してから、廊下の途中にある扉へと消えて、また真新しいタオルを持って近づいてくる。
そうして手慣れた様子で、ルークの髪を愛しそうに拭い始めた。
その表情は、呆れるほどに至福と言わんばかりに笑んでいる。アッシュは見慣れないそれに、正直退きそうになった。
「ルーク、お前腹減ってるだろ。パンケーキでも焼くか?ヨーグルト入れたふわふわのヤツ」
「食う食う!アイス乗せる!あと塩バターキャラメルと、リンゴのジャムと、」
「牛乳嫌いなくせに、ヨーグルトもアイスも食うんだよな」
「うるせー!」
拭うタオルごとルークの頬を挟んで言うガイに、ルークが笑いながらもそう返す、その様子はわざとアッシュに見せつけられているようにすら思える。
よりにもよって、ガイがここに居るとは、とアッシュはタオルを握ったまま額を押さえる。
頭痛がするのはなにも風邪をひき始めたわけではないだろう。
今の時間、ジェイドは研究所の方にいるだろうし、母親や、兄弟が居るという話も聞いたことが無かった為、この家には誰もいないと思っていた。いや、たとえ想定しない誰かが不意打ちで現れたとしても、そこはファブレ家の跡継ぎとして、恥ずかしくない挨拶が完璧に出来る自信もある。
そうだ、アッシュにとっての最大の壁はジェイド以外無いはずだったのだ。
――ここに、ガイが現れるとは、想定外だった。
昔からの…子供の頃からの顔見知りでもあるガイとルークが、ここまで近い関係だとアッシュは今まで知らなかった。そう思うと、世界は狭い。
今の様子を見れば、ガイの方がアッシュに悟られないようにルークを隠していたのかとすら思える。
とにかくガイはアッシュがルークに関わるのを嫌っているようで、
「それで、アッシュ。お前いつ帰るんだ」
大量に焼いたパンケーキを紅茶で流した後、前触れもなく切り出した。
アッシュは思わず紅茶を吹き出しそうになる。
「今来たばっかりだろうが!」
「パンケーキ食っただろ。もう十分じゃないか」
確かに食べはしたが、ルークと会話らしい会話もしていない。
まだ最後の一枚を食べているルークも、さすがにこれにはアッシュに同意して来た。
「いいじゃん、まだ雨降ってるし」
「アッシュ、お前携帯持ってるんだろ?早く車回して貰えよ。今すぐ」
「えー!」
ルークの声に、ガイは窘めるように言い含める。
「ルーク、アッシュだって忙しいんだ」
ルークははっ、としたようにアッシュの顔を見る。アッシュとしては、別に用事があるわけではないからルークとゆっくり帰れていたのだし、ここにいるのだが。
余計なことを言うなとガイを睨み付ければ、どこ吹く風と言った様子でガイは皿を片付けている。
「……なあアッシュ、晩飯食ってくだろ?」
そっとアッシュの袖を引いて問い掛ける、その仕草と上目遣いの表情にアッシュは思わず詰まった。ルークのこの仕草と表情には、はっきり言って弱いのだ。
いつの間に夕飯まで食べることになっていたのか判らないが、帰っても大抵病気がちな母とは別に独りで摂ることを考えれば、たとえガイが居てもルークと一緒の方が何倍も良い。
それに、ガイとて毎日ここに来るわけでもないのだろうし、ジェイドが遅くに帰って来る日などは、ルークも一人きりで寂しい思いをしているのかも知れなかった。
アッシュが頷いて返すと、ルークは無邪気に喜ぶ。その姿を見てはさすがにガイもダメだとは言えないらしい。
「判ったよ」
ため息と共にガイはそう言うと、夕食の準備をするから、とキッチンへと移動していった。ルークが手伝おうと立ち上がると、お前の仕事はお客さんの接待、とガイは指を差してその行動を止める。
まるで『待て』、と言われた犬のように座り直したルークに、とりあえず宿題でもやってろ、とガイは笑って、手慣れた様子で他人の家の冷蔵庫の前に屈むと中を漁り始めた。
ガルディオス家の跡継ぎが、すっかり主夫のようだ。
その後ろ姿を見てそんなことを思いながら、床に直に座ってティーテーブルの上、数学のプリントを広げているルークにアッシュは問い掛ける。
「…ガイとお前は、どういう関係なんだ?」
「えっと、前は従兄弟だったんだ。けど今は…なんだろ?」
前は、とはどういうことだろう。
ルークがシャープペンを顎に当てて首を傾げるのに、聞いていたのかキッチンの向こうからガイが声を上げる。
「俺はお前の兄であり父親であり親友兼使用人だ!」
おたまを握りしめて言うようなセリフじゃない。というか。
「……使用人?」
「あ、いやなんか、小さい頃そういう遊びをやったっぽくて…ったくガイ!アッシュが退いちまったじゃねーか!」
怒るルークにガイは少しも堪えた様子もなく、にこにこと笑って流す。もーいつもなんでそれ言うんだよ!恥ずかしいじゃん!とルークが続ければ、いいだろ別に変なことじゃないし、などとガイはでれでれと締まりのない笑みを向けたまま言う。
二人の言い合いというよりはじゃれ合いを見ながら、アッシュの口からは呆れ混じりにため息が漏れるが。
猫の子供とて多くの人間に触れられれば、それだけ人懐こくなると言うのだから。
この環境が今のルークを作り出したのだと言われれば、まあ。
――こういうのも、悪くはない、のだろう。……たぶん。
そう、アッシュは思った。
当たって砕けろ青少年(後)
(『月虹』の現代アッシュ→ルーク)
「ただいま戻りました」
帰宅してリビングに顔を出したジェイドがおや、と何か言いたげな表情をするのに、軽く頭を下げ邪魔をしている、と挨拶すれば、すぐににこりと笑んでいらっしゃい、と返して来た。
「早いな」
「ええ。毎週この日は早く帰れるんです」
リビングに来る前に着替えてきたのだろう、シャツの袖口を整えているジェイドが答える。
テーブルで準備を整えていたルークがお帰り、と言う後ろから、大きな土鍋を抱えたガイが告げた。
「今日はおでんだ」
もうすぐ夏を迎えるこの時期にか。
ジェイドの視線も冷たいが、ガイは気にすることもなくどん、とその土鍋をテーブルの上に置いた。
うきうきとした様子でルークがテーブルに着くのに、ガイがすかさず隣の席に座る。ジェイドがルークの向かいに座りながら、自分の隣をアッシュに促した。何だろうこの配置。何故、ジェイドの横でガイの顔を見ながら食事をしなくてはならないのか。明らかにガイの作為が見えるかのようだ。というか見えている。
「親子水入らずに割入ってくるガイも毎回図々しいですが、更に一人増えて男4人で囲むおでん。 いやー、寒いですねえー。今日も一日こき使われて、疲れて帰って来た一家の大黒柱にこの仕打ち。思わず涙が出そうです」
「そう言うなよ。人数多い方が楽しいし美味しいじゃん。後で肩揉むからさ」
「結構です。あなたの容赦のない力では私の繊細な毛細血管が破壊されます」
「そっか?こないだピオニーさんに教えて貰ったから、大分マシになったと思うけど…なあガイ、なんでこんなにタコ入ってんの?」
「タコ食べないと大きくなれないんだぞ、ルーク」
「…ルーク、今聞き捨てならない名前を言いませんでしたか?」
「え、マジで? なあアッシュ、マジで?」
「そんなわけあるか!明らかに俺に対しての嫌がらせだ!」
ルークの問い掛けにアッシュの怒りが爆発すれば。
途端、息を合わせたようにぴたりと口を噤んだ二人が、こちらに顔を向けて来た。
「だから大きくならないんですよ、アッシュ」
「好き嫌いが多いとああなるんだぞ、ルーク」
思わず箸をへし折りそうになるアッシュの向こう側には、ガイとジェイドの腹立たしい程のにこやかな微笑み。
――前言撤回。
よりにもよって、ルークの人格を形成した環境がこの二人なのは、間違いだ!
end.
夜の終わり
(ジェイド→ルーク)
ごめんなさい、と小さな囁きが夜の闇に包まれた、静かな室内に落とされる。
ああ、始まった。
備え付けの小さな机で抑えられた灯りの下、ジェイドの本のページを捲っていた手がぴたりと止まる。彼の懺悔を聞くのは別に初めてでもないのだけれど、毎回こうやって手が止まる。
窓を向いて眠っている、丸まった背中をシーツ越しに見る。
ガイはここに居ない。
ルークは乖離が己の身に起こっていると判ってから、それを知っているジェイド以外の相部屋を望まなかった。
そっと音を立てずに立ち上がり、そのまま眠る彼のベッドへと歩み寄る。
窓から青白い月の光が射しこんで、その頬に透明な流れが通った道を照らし、きらきらと強調している。
それを見て、思う。
我々とは違って第七音素のみで生成されているというのに、オリジナルと同じ機能を持って体は活動している。体だけじゃなくこころもそうで、こうして罪悪感によって悪夢を見て、涙を零している。こころはその生物的本能でルークに許しを与えようと夢を見せ、けれどルーク自身がそれを望まない。だから悪夢は繰り返される。
そうやってずっと苦しむのだろう、きっと彼が迎えることが出来る最後の夜まで。
そうやって、
――生きて、いる。
何度考えても興味深い。
何度見ても、一種の感慨を持つ。
まるで涙自体を初めて見るかのように、ジェイドはただひたすら、ある意味無心に覗き込むようにして見詰める。
その成分が血液や体液その他と同じモノで出来ていることは知っているが、彼もそうなのだろうか。
そう考えて、苦笑する。
何を馬鹿なことを、オリジナルと同じ機能を持つのだから、当たり前に決まっている。同じ成分で出来た液体だ。それ以外の何でもない。
だが、こんなに。
――こんなに、うつくしいものだっただろうか。
涙を、うつくしいと感じたことなど、今まであっただろうか。
涙など幾らでも見た。妹がまだ幼かった時人形が壊れたと言って泣いたし、あの洟垂れなど今でも泣くし、仕事柄事件の被害者や、兵士の遺族に会うこともある。
けれど、そのどれも、今彼が流している涙と同じものだとは、思えない。
シーツに広がる短い赤い髪は今は月の光で違う色をしていて、いつもは意志の光に透き通っている大きな翠の瞳も、ぎゅっと固く閉じられている。そのまぶたと同じようにシーツを握りしめる手も震えていた。
その、濡れて艶を増した睫毛がまた震えて、透明な滴を零すのを、視線で追う。
きらきらと月の光を浴びたそれは、しとやかにシーツに吸い込まれていった。
それを惜しいと思ったので、ジェイドはまたこぼれ落ちてくるその滴をそっと伸ばした指の背で掬う。手袋を外した手にそれは生温かく、そしてすぐに室内の空気に馴染んで冷たくなった。
悲しい涙には、味がある。
では、きっとこの涙もそうなのだろう。
そう思った時には、すでに屈んで彼の目許に口吻ていた。
舌でゆっくりと拭った涙はやはりその味がして、やはり見ているだけでは判らないものだ、とジェイドは一つ頷くと、上体を起こす。
ルークは変わらず眠り続けていて、ジェイドはそれを確かめるといつもと同じく何もせずに、彼から離れる。
ルークは赦しが欲しいわけではない。こうして謝るのは他に言葉を知らないから。だからルークに、慰める為の手は胸は言葉は、要らない。
ジェイドは静かにまた小さな机に戻ると、本へと視線を移す。
けれどふと、眩い光を放つランプの火に、ああ、と唐突に理解した。
たとえばこの、ランプの光を包むガラスがきらきらと同じように光りに照らされていたとしても、ジェイドには到底うつくしいとは思えないが、彼の涙に対してそう、思えたのは、第七音素とかそういうものは全く関係なく、彼のこころから生まれる痛みの証だからか。
それをかなしいと感じた時、うつくしいと解るのかも知れない。
――だが、その証である涙もやはり、残らないのだけど。
ジェイドが覚えている以外には、どこにも。
そうして、ジェイドは瞼を伏せ読んでいた本をぱたり、と閉じた。
end.