それは暖かい日だった。

「ジェイド。今日は、違う所に居たい」

 朝、プラチナ様が突然そんな我侭を言い始めた。

「ベッドの天井は、もう見飽きた。ここからでは、ベランダに来る鳥すら見えない」

「そんなこと言ったって…それじゃあプラチナ様、早く、ベッドから出られるようになって下さいよ」

「今すぐが、良いんだ」

 珍しい事もあるものだ。誰かに何かを吹き込まれたか?それとも、甘えてくれているのだろうか。

 それならいい、と思う。どんな我侭も、今なら最優先できるから。

 もっと甘えてくれていい。 …もっと、俺を困らせてくれていい。俺を、あなたに縛ってくれていい。

 痩せ細っていく身体の割には、いつまでたっても強情で。

 …いつまでも、俺の、強い王様で。

「はいはい、わかりました。…で?どこならいいんです?」

「庭園の東屋が良い」

「あそこですか?…うーん、まぁ、いいでしょう。今日は天気もいいですからね。毛布以外に、何かいりますか?」

「鳥の餌だ」

「…はぁ。他には?」

「本だ」

「…本?どんな?」

 そんな所で、わざわざ政治経済とかの小難しい本を読もうとしているのなら、すぐに却下するつもりだったが、意外にもその口から出た言葉は、拍子抜けするもので。

「お前に任せる」

「……は?」

 随分、間抜けな顔をしていたと思う。いや、実際、間抜けな声も出したが。

 プラチナ様は珍しく、声を少しあげて笑った。

「お前に任せると言ったんだ、ジェイド。朗読してもらう」

「朗読、ですか?」

「ああ、何だっていい。寓話でも、民話でも、序叙詩でも。今日は1日俺に付き合うのが、お前の仕事だ」

 あなたはもう、自力で本を選ぶ事は出来ない。

 選んでも、もう意味が無い。

 ベッドから独りで立ち上がる事すら、出来なくなった時点で。

* * *

 本当に、暖かい日だった。

 毎日毎日、プラチナ様と過ごしていく中で、こんなに善い日は、こんなに贅沢な日は、こんなに幸せな日はもう多分来ない。

  こんな日は、大抵上手く使うことが出来なくて。結局何でもない日と一緒になる。

 何でもない一日の終わりに、「こんなにいい日になるんだったら、もっと別の楽しい事をすれば良かった」と、後悔しそうな日だった。

 庭園といっても、かなり端の方で、半分林のようになっている空間に、東屋はある。

 暑すぎない程度に、寒すぎない程度に過ごせるように、設計してあった。

 床の上には、いろいろ枯葉や枯れ枝が散らばっていたハズだが、それらの処理はここに辿り着く前に、庭師に任せて掃き清めてある。

 メイドたちがクッションを床に並べていく上に、寝かせるプラチナ様に衝撃など伝わらないように、そっと横たえた。

「お辛くないですか?プラチナ様」

「ああ、大丈夫だ」

「俺はどこに座りますかね~…」

 メイドたちが下がっていく後姿を見送りながら、床の周囲を軽く見渡していると、服の裾を下から引っ張られる。子供のような(いや、子供だが)表情をして、いたずらを企んでいるように微笑んで、プラチナ様は自分の頭らへんを指し示した。

 …ここに座れ、と言っているのだろうか?

「朗読をしてくれるのだろう?」

「ええ、そのつもりですが」

「それなら、俺に膝枕をしろ」

「…俺が鳥に餌をやったら、プラチナ様、襲撃されますよ?」

「それでも良い」

 裾を離さないまま、じっと強く見つめられて、俺は彼の言うとおりにそっと上半身を抱え上げ、その下に身体を入れた。

 柱に身体を預けて、暫く2人で鳥に気ままに餌をやって過ごす。やはりプラチナ様は鳥の襲撃を受けて、文句も言っていたが、また珍しく、小さく声をあげて笑っていた。

「鳥を呼ぶコツでもあるのか?」

「さぁ…どうでしょう。気が付いたら、周りにいますからねぇ」

「そうか…鳥と相性がいいんだな、お前は」

「…鳥は…幸せだと、傍に来るものらしいですから」

「…? そういうものなのか?」

「白い…鳥は。幸せの、象徴なんだそうですよ」

 鳥によって散々啄ばまれたプラチナ様の髪は乱れまくっていて、それを丁寧に払って整えていく俺の手の動きを、じっと、大人しく碧眼の綺麗な瞳で追っていく。

「継承戦争の時も、お前は白い鳥に囲まれていたな」

「…少しだけ、幸せでしたから」

「そうなのか?」

「ええ。あなたが傍に居ましたから。それだけで、当時の俺は幸せでしたよ…もちろん、その頃の俺はそんな事言えなかったし、それより…ほんの少しの幸せの何倍も、苦しかったから」

「…今も、少しだけか?」

「いいえ、今は言葉が無いほど」

「そうか、……俺と同じだな」

 そう呟いて、太腿の上で少し身体を動かして寝返りを打つと、俺の顔が良く見えるような位置に、身体を安定させてから、じっと俺の顔を見ているようだった。

 ――まるで、目に焼き付けているかのように。

「…どうしました?」

「本を読んでくれ」

「いいですよ。って言っても、結局サフィルスに借りてきたんですけど…」

 微苦笑して、プラチナ様の顔を見たが、プラチナ様は笑ってはいなかった。それよりも、凄く真剣だった。こちらが驚くほどの、真っ直ぐな瞳で見つめられていた。

「何でもいい…」

「え?」

「お前の声を、ずっと聴いていたいんだ…」

 その震える声が可哀相で、愛しくて、堪らず瞼に、額に、頬に、唇に、そっと思いを込めて口吻けをする。

 あなたが自分自身に約束したから、俺もあなたに約束した。

 もう簡単に涙を流さないと、決めた。

 …あなたのことはとても失い難い。それでも。

 今にも息絶えそうなあなたを抱きしめて、涙ながらに「愛している」と言ったり、懺悔したり、後悔したりして、気が済むのは俺だけだ。

 そんな誰にでも出来る愛し方なんて、ごめんだと思った。時間の無駄だとも。

 目に見える物を贈れば、あなたは酷くそれに執着した。離れ難そうな、瞳を常に向けていた。

 あなたの足枷になるようなものは、もう増やさない。

 それよりも、微笑んでいようと、約束した。無理にではなく、本当に心から、あなたを想って。

 あなたが旅立つその瞬間まで。

 ――俺のその瞬間までも。

「…あなたの為だったら、あなたが寝てしまっても、俺の声が潰れてしまっても、ずっと何かを話していますよ」

「それは困るな…」

「どうしてですか?」

「声が潰れてしまったら、聴こえない。ずっと聴いて居たいんだ…」

「…大丈夫ですよ、そう簡単には潰れませんから」

「…頼む…」

 本当に、暖かい日だった。

 俺の好きな、プラチナ様の綺麗な髪を時々、手櫛で梳きながら。プラチナ様は、時々俺の腰を力を込めて抱きしめながら。

 借りてきた本は、何とも微笑ましい内容で。

 森の近くに、少年二人とその両親は暮らしている。

 少年二人の父親は毎日多忙で、少年二人とめったに遊ぶことが出来ない。

 それでも少年二人は森で、それなりに楽しく過ごすのだが、ある日困っている精霊を助ける。

 その精霊ときたら、全身が奇抜な色の横の縞模様。

 さすがにこのくだりは、俺もプラチナ様も、笑ってしまった。

 きっとアレク様も笑った事だろう。そして指を差して言ったに違いない。

「その精霊は、サフィだろ!」という感じに。

 その精霊は、本当に変なヤツで、少年二人を楽しませてくれるのだが、

 父親に紹介しようと少年たちが、森へ父親を連れてきた時。

 その精霊は居なくなってしまうのだ。

 その森には住んでいるのかも知れなかったが、二人の前には二度と、姿を見せる事は無かった。

 途中プラチナ様はまた、考えているようだった。

 この人にはそう言うクセがある。

 サフィルスなんかは「本当に頭がいい」と褒め称えるが、別にこういう話はそのまま素直に、聞こえるまま、受け止めてしまってもいいと思う。

 どんなに考えたって、これは本の中の出来事なのだから。

 もう。

 もう、戻れやしないのだから。

「…お前は、その精霊は、何だったと思う?」

「え?…えーと、…何でしょうね。判りません。やっぱりサフィルスかなー、とかしか…」

 俺は本の挿絵を見直した。挿絵のほうも、本当に適当に描いてあるようにしか見えない。

 俺はもう、捻くれまくった性格だから。あなたみたいに美しい生き物ではないから。判らないんですよ、どうやったらあなたと同じ、綺麗な所に戻れるかなんて。

そう思いながら、自嘲の笑みを見られないよう、プラチナ様の髪を弄んでいると、

「…俺は、少年達の父親だったんだろうと思う」

 そっと、風に消えそうなほどの、静かな小さい声だった。

 ――… 眠いのだろうか。

 まぁ、この陽気で、本を朗読されていたら、あなただったらすぐ寝てしまうでしょうね。それが良い所でもあり…、悪い所でもあり。

「それは、面白いですね。父親は本当は、子供達と遊んであげたかったということですか」

「…父親には、父親の本当の姿は見えない…当り前だな。…俺にも、お前にも、自分自身の本当の姿は見えない」

 そう言って、ふうと息をついてから、ゆるゆると腕を俺の方へ、掲げていく。

「……本当に必要としている者には、近すぎて見えないのかもしれないな…」

 そうして、俺の首に腕を絡めて、自分の顔に引き寄せた。

 そっと、何かを俺に伝えるような、そんな口吻けだった。

 いつの間に、この人はこんなに慈しむような行動が、出来るようになったんだろう。

 ただ、嬉しくて、愛しくて、哀しくて、折れそうな身体を強く抱きしめた。

 この美しい穢れない魂に、跡が残ればいいと、思う。俺がこんなにこの人を愛しているのだと、どんなことになっても、誰が見ても判るように。

「…他の本を読んでくれ、ジェイド」

「ええ、いいですよ」

 本を読みながらプラチナ様の髪を触っていると、髪を手繰ってその指にプラチナ様の細い指が触れてきた。そのまま手を握り合い、お互いの顔を確認して、あんまり幸せだったから、ゆっくりと自然に二人とも微笑んだ。

 幸せすぎて、流す涙はもう無かったから。

 幸せすぎて、語る言葉をもう持たなかったから。

 ただ、静かに想いを込めて名前を呼んで、手を握り締め、二人して微笑んでいた。

 静かな中、微かな風が、プラチナ様の髪をあちらこちらに運んでゆく。

 穏やかな光も、少し眩しい木漏れ日も、プラチナ様の白い肌を更に透き通らせて。

 目を離せないほど、美しい人だと思う。

 本当に、暖かい日だった。

 …暫くして、気が付いてしまったが、もう少しこのままでいたくて。

 気付かないフリをして、そのまま一冊読み終えるまで、朗読を続けた。

 …それは、約束だったから。

――そして、二人はいつまでも…いつまでも、…幸せに…」

 手に握っていたぬくもりは、読み終える前に次第に失われてゆき、どんなに握り返しても、ゆっくりと手のひらから離れていって。

 本当に、今日は暖かい日だった。

 どんなに戻ろうとしても、

 こんなに幸せな日は、もう、二度と来ない。

end.