本当は、もうあまり目は見えていなかった。

「ジェイド。今日は、違う所に居たい」

 多分俺は、初めて我侭を言ったように思う。仕事についてはそれはジェイドも呆れるくらい、散々言ってきたが、自分については、初めてだった。

 体を起こすことも出来ない俺が、何を言い出すのかとさぞかしジェイドは怪しむだろう、そう思っていたのに、案外すんなりと許可が出た。やはり、俺を甘やかしてくれているのだろう。

「…うーん、まぁ、いいでしょう。今日は天気もいいですからね。毛布以外に、何かいりますか?」

「本だ」

「…本?どんな?」

「お前に任せる」

 本当に、何でも良かった。声が聴けるのなら。

「……は?」

「お前に任せると言ったんだ、ジェイド。朗読してもらう」

「朗読、ですか?」

「ああ、何だっていい。寓話でも、民話でも、序叙詩でも。今日は1日俺に付き合うのが、お前の仕事だ」

 そのまま、気が付かないでくれ。

 俺が、声を頼りにお前の位置を測っている事を。

 俺のただの我侭だと、思っていて欲しい。

* * *

 ジェイドは俺の身体を抱いて、東屋まで運んでいく。

「今日は本当にいい天気ですね」

「ああ…、風が心地いいな…」

 日差しは弱った目には厳しく、強く瞳を閉じた。胸にしがみ付いていると、ジェイドが「甘えん坊ですね」と囁いて来た。

「…落とされては困るからな」

「軽いからそんなことはありませんよ」

 そう言って、抱きしめている力を強くする。まるでジェイドも、俺の存在を確かめているように。

* * *

 暫くすると、鳥の囀りが聴こえてきた。そっと眼を開けると、いつもよりは幾分マシな状態で、視界が開ける。深い緑が頭上を覆っていて、そこからこぼれて来る木漏れ日が眩しい。

 俺を抱えたまま、ジェイドがメイドたちに指示を出している。今更ながらだが、メイドたちの前であんなに強くしがみ付いていたのは失敗だった。 …恥ずかしい。

 そっと、壊れ物のように横たえられて、ジェイドが俺の前髪をかきあげる。

「お辛くないですか?プラチナ様」

「ああ、大丈夫だ」

「俺はどこに座りますかね~…」

 どこか離れた所を選びそうなジェイドの言葉の雰囲気に、思わず服の裾を下から引っ張った。せっかくここに来たのだから、ジェイドにして欲しい事があった。

「朗読をしてくれるのだろう?それなら、俺に膝枕をしろ」

「…俺が鳥に餌をやったら、プラチナ様、襲撃されますよ?」

「それでも良い」

 少々戸惑ったようなジェイドの顔。

 …すまない、ジェイド。

 もし突然、完全に目が見えなくなった時、俺はお前を探して不安になりたくはないんだ…。

 ジェイドは俺に膝枕をし、柱に身体を預けて、そっと袋から餌を掌に載せて取り出した。先ほどから鳥の気配は多くあって、瞬く間にジェイドが鳥に囲まれる。俺の頭上も関係なく鳥達は行き交って、俺は鳥の羽毛と自分の髪で散々な目に合った。

 ジェイドがそんな俺を笑いながら、羽毛や髪の毛を払ってくれるのを、じっと見ていた。

 お前は本当に俺の髪が好きなんだな。

 それと同じ様に、俺も…

「鳥を呼ぶコツでもあるのか?」

「…鳥は…幸せだと、傍に来るものらしいですから」

「…? そういうものなのか?」

「白い…鳥は。幸せの、象徴なんだそうですよ」

 幸せ…目には見えないもの、形には出来ないもの、常にそこにあるとは言えないもの。

 それの象徴という事は、目に見える幸せとやらを人々は求めたのだろう。

 人は、目に見えるものを求めやすい。

 …俺も、そうなのかも知れない。

「…継承戦争の時も、お前は白い鳥に囲まれていたな」

「…少しだけ、幸せでしたから」

「そうなのか?」

「ええ。あなたが傍に居ましたから。それだけで、当時の俺は幸せでしたよ…もちろん、その頃の俺はそんな事言えなかったし、それより…ほんの少しの幸せの何倍も、苦しかったから」

 …そんな顔をするな。俺は、あの時少しでもお前が幸せだったのなら、それでいいと思っただけなんだ。俺だけが、幸せでなかったのなら…いいんだ。

「…今も、少しだけか?」

「いいえ、今は言葉が無いほど」

「そうか、……俺と同じだな」

 安心して、ふうと息をついた時、少し日が翳りジェイドの顔が見え難くなったような気がして、身体を少し動かして、よく見えるように顔の角度を変えた。

 柔らかく、優しく微笑むジェイドの瞳が、俺をじっと見つめている。俺の一挙一動を、見逃さないようにしているかのように。

「本を読んでくれ」

 ジェイドの腰を抱きしめて、子供のように強請った。

 どうかジェイド、お前は俺のように目に見えるものを求めたりしないでくれ…。

「お前の声を、ずっと聴いていたいんだ…」

 ジェイドが、俺を安心させるように瞼に、額に、頬に、唇に、思いを込めた口吻けをする。

 ジェイド、すまない。

 お前は本当は、どんなに泣きたいだろう。

 何の音もしない夜中、眠っていただろうジェイドが突然、俺を掻き抱くその腕の強さに、痛さに、何度俺自身誓いを破りそうになっただろう。

 何度、お前の約束に相応しい人間か、考えた事だろう。

 …こんなにも、お前から離れ難い……それでも。

 お前を残して逝く俺を、受け入れてくれたから。

 お前は嘆く事をやめたから、俺の謝る言葉を嫌がった。 感謝の言葉さえも。

『それを聞いたら、あなたはもう二度と、目覚めないような気がして』と。

 だから俺が次第に痩せていくだけでも、辛そうにしているお前を、もうこれ以上傷つけないように。

 お前が、笑っていてくれる。その笑顔がちゃんと、俺のその瞬間まで保つように。

 それが、お前の望みならば。

 俺はお前に酷くなろう。

「…あなたの為だったら、あなたが寝てしまっても、俺の声が潰れてしまっても、ずっと何かを話していますよ」

 俺の頭を撫でながら、ジェイドがそっと囁く。

「それは困るな…」

「どうしてですか?」

「声が潰れてしまったら、聴こえない。ずっと聴いて居たいんだ…」

 怒らないでくれ。

 多くの事を隠している俺を。

『あなたの事なら、どんな些細な事さえも俺にとっては重大なんです』

 そうお前は言うが、それでは。

 お前を些細な事で大きく傷つけてしまうだろう。

 ジェイドがサフィルスから借りてきた本は、

 精霊と少年二人の、微笑ましい日々の物話だった。

「…お前は、その精霊は、何だったと思う?」

「え?…えーと、…何でしょうね。判りません。やっぱりサフィルスかなー、とかしか…」

「…俺は、少年達の父親だったんだろうと思う」

 声が震えないように、そっと小さく呟いた。

 ――…許してくれ。 俺にもっと時間があったなら。

 お前とその物語のように過ごせる日が、いつかあったかも知れない。

 俺がいなくなった後のお前の時間を思うと、どんなに堪えても声が震えた。

 すまない、ジェイド。

 きっと、お前が思っているより早く、俺は逝ってしまう。

 今日は謝ってばかりだな。 

 だが、本当に俺はこの残酷な瞬間でさえ、お前が愛しく、そして幸せだ。

 本当はとても感謝しているのに、どんな言葉ならお前にこの気持ちが伝わるのか、判らないんだ。

 そう思って、ジェイドに口吻けをした。

 身体を動かすのは酷く苦しかったが、別にもう、体力を温存する理由が無かったから、今のうちに使い切っておいても構わなかったろう。

 ジェイドは一瞬泣きそうな顔をした。

 そしていつかの夜と同じくらい、力を込めて俺を抱きしめた。

 幸せだ。

 お前が傍にいて、こんなにも強く抱きしめていてくれる。

 お前に隠していることが少し心苦しいけれど、それでもお前が幸せなら、それでいい。

「…他の本を読んでくれ、ジェイド」

「ええ、いいですよ」

 本を読みながら、俺の髪を触っているジェイドの指を探した。とにかく触れていたかった。

 そのまま手を握り合い、お互いの顔を確認して、あんまり幸せだったから、ゆっくりと自然に二人とも微笑んだ。

 幸せすぎて、流す涙はもう無かったから。

 幸せすぎて、語る言葉をもう持たなかったから。

 ただ、静かに想いを込めて名前を呼んで、手を握り締め、二人して微笑んでいた。

 いつもは冷たい色を宿すそのアメジストの瞳も、今は今日の陽気のように暖かく、

 頭上を覆う木々の緑よりもお前の髪の色は深く、そして柔らかい。

 目を閉じても、その色が瞼に浮かぶくらいの強い印象で。

 …ああ、

 俺は見えなくても、お前に守られている。こんなにも。

 静かな中、ジェイドの声だけが響いている。

 少し疲れたような気がして、手を繋いだまま瞳を閉じた。

 ジェイド。

 お前の声は心地がいい。

 俺には判らないが、きっとゆりかごとはこんな感じなのだろう。

 安心する。

 お前の声が好きだ。

 おまえは俺がちゃんと起きている時には歌ってはくれないが、

 時々ふと、目が覚めた時に聴こえていた子守唄は、

 俺がこの世で聞いたどの音楽よりも、好きだ。

 お前が隠したいようだから、俺も聴いている事は隠しておいたが…

 …たぶん、こっそり聴くから好きなのかも知れないな…

 …ジェイド、

 そのままずっと、聴かせていてくれないか…

 ジェイド

 ジェイド

 ……すまない

 心地が良くて、俺は先に眠ってしまうけれど、

 どうか怒らないで欲しい

 …この瞬間は

 ……もっと、苦痛を伴うものかと思っていた…

end.