『月の光の下では、あらゆる生き物が生きるのをやめているそうです』
そんな話をジェイドとしたのは、月明かりだけが煌々と深い闇を照らしている夜だった。
ジェイドは俺を時にからかいながら、突き放しながら、
俺を通り過ぎて俺の向こうの何かを見ていることがある。
それを強く望んでいるように見える。
――でも、それは苦痛を伴う物であるかのように、
何でもないかのように微笑みながら、時折目を伏せる事も、漠然と気が付いていた。
奇妙な夜だった。
物音が全然しない。
いつもは遠くから聞こえてくる梟の鳴き声すら、このテントに響いてこない。
音を立てる傍から、何かに吸収されているかのように。
――まるで、世界自体がこの夜に物音を拒むかのように。
ベッドから身体を起した時は、自分も何故か物音を立てないように気をつけた。
…この世界に反しないように。
そっとテントの中から外の世界を窺う。
入り込んで来た外の空気は、いつもより寒いくらいだったが、それは不快な寒さではなく、肺の中まで清浄されるような心地よさで。
見上げると満月だった。月の周りだけ空の色は淡く色を変化させてはいるが、暗闇は頭上を占めている。
星一つすらなかった。
月だけが世界を支配している。月明かりがここまで届く、その音が存在するならそれすら聴こえそうなほど、静かな夜だった。
…物音を立ててはいけなかったけれど、月に誘われるように外に出た。
ひたすら歩き続けて、アプラサスが好みそうな森の中まで入って来ていた。
こんなに一人で遠出をする事に危機感がなかったわけではないが、それでも足は止まらない。
月だけをひたすら見上げて。
「探しましたよ」
突然背後から声を掛けられて、やっと我に返った。
「…なんだ、ジェイドか」
「なんだじゃありませんよ。あんなに単独行動はしないで下さいと、言ったじゃないですか」
「そんなにテントから離れていたか?」
「…自分がどのくらい歩いていたかも、判ってないんですか。何にそんなに集中していたんです?」
ジェイドが呆れてため息を吐きながら、俺を見た。
理由を答えれば、またため息を吐かれるだろうか。
「…月が」
「はい?」
「月が、綺麗だったから」
「え?ああ、そうですね」
俺の言葉に空を見上げて、それでも月を見つめているのは一瞬で。あんなに綺麗な月でも、ジェイドの視線を奪う事は出来ない。
ジェイドの行動をじっと見守っていると、ふと目が合った。
「…綺麗ですね」
目を細めて、ジェイドが俺を見つめながら、言う。
――…ジェイドが、俺を見ている。
ジェイドの真っ直ぐな視線が痛くて、ぎこちなく月を見上げた。
いつもジェイドは俺を見て、不意にそんな事を言う。
普段、俺を見るのはあまり好きではないようなのに。
時折そっと、視線を外すのを知っている。
…見てはならない何かのように。
それでも、時々禁忌を侵すかのように、じっと深く見つめては、約束事のように『綺麗だ』と言う。
何を考えているのか判らない奴だが、ジェイドにそう言われるのは、不快ではない。
ただ、鏡で何度見ても、俺は空を飛ぶ鳥のようには、今夜の月のようには、『綺麗』ではないと思う。
俺の判らない所に、ジェイドの言う『綺麗』というものは存在しているのだろうか。
それは鏡なんかには映らないのだろうか。
ジェイドは何を見ているのだろう。
俺はジェイドの言う『綺麗なもの』はまだ、見た事がない。
「月の光の下では、あらゆる生き物が生きるのをやめているそうです」
ジェイドの言葉は意外と近くから聞こえて、すぐ横に居る事に気付く。
手を伸ばせば簡単に触れられる位置に。
それに気が付いて、胸がどきりとした。
耳元で囁けるくらい、こんなに近くで時を過ごした事はない。
「そのときばかりは、太陽の時間は止まっているわけです。
日常とは、違う時間が流れているんですね。月の時間です。
そこだけが太陽の時間から切り離されて、月の時間を生きるものたちは命の呪縛というものから解放される」
「…解放されると、どうなるんだ?」
「そうですね。…いつもとは違う自分になれる、ということでしょう」
「いつもと違うというのは、どういうことなんだ」
「簡単に言ってしまえば。――…罪をね、犯しやすくなります」
「罪?魔人たちにとっては今更だろう」
「え え、なんでもありなのがこの奈落ですけど、それでもひとりひとり、自分に決めたルールがある。…それを、はみ出したくなるんでしょうね、こんな月の夜は。 ―――…ある意味、素直になれるということでしょうか。太陽は全てを眩しく照らして、あらゆることを見逃さない光ですけど、月は何もかもを優しく包ん で、静かに許しているかような光だからでしょう」
伝え聞きのように語るくせに、まるで経験をしたことがあるような響きがそこにはあった。 表情も、自嘲を含んでいるような笑みをしていて。
「…誰もがか?」
「ええ。どんな魔人であろうと、その可能性はあると言うことです。ああ…でも、プラチナ様には関係ないかもしれませんね」
「どんな魔人でも、なのだろう?」
「でも、あなたは特別な方ですから」
「…お前もか?罪を、犯したくなるのか?」
そんな顔をしているのだから、きっとそうなのだろうが…。
「――…そうですね」
ジェイドは少し目を見張り、そうしてまた、見てはならないものを見たかのように、そっと俺から視線を外した。
「帰りましょう。ここで風邪を引かれても困ります。明日は指揮を取って頂きますから」
「――ああ」
いつもよりジェイドとの距離が近くなった気がして、何だかこの時間は名残惜しかったが、明日に差し支えるのも良くないと思い、素直にジェイドの言葉に従う。
「…手」
「ん?」
「手を、繋ぎましょうか」
ジェイドは笑顔で自分の右手を差し出している。
手を繋ぐと言う行為は、街で見かけた幼い子供が母親に手を引かれている様子を思い出させ、何だか急に自分がそんな子供になったようで、気恥ずかしかった。
迷っていると、ジェイドがそっと囁いた。
「今は、月の時間ですから」
だったら今だけは、太陽も見ていないのだから。
俺達は月の時間に生きているのだから。
こんな風に甘えた仕草は、王の後継者としては罪だろうから。
そう思ってジェイドの掌に自分の左手を乗せた途端、思い切り引き寄せられてジェイドの腕の中に居た。
「ジェイ…っ」
力強く、ジェイドの腕がこの身体を抱きしめている。
こんなに力が強くては、自分の顔の横にある、ジェイドの顔を見る事も出来ない。
ジェイドの腕の中は暖かかったが、どんな表情をしているのか、何を見ているのかすら伝わらない。
「…ジェイド?」
「こんな、夜ですから…、私も罪を犯したくなるんですよ」
首筋に掛かる吐息。そっと囁かれる言葉。力強く抱きしめてくる腕。
それが物音一つしないこの夜の全てになっていて。
そのまま安心しそうになる。
こんなことでは、俺は戦えなくなるのに。ジェイド自身がそう言っているのに。
ずっとこのまま、月の時間が続けばいいと思ってしまう。
罪を犯し続けても構わないから。
暫くそのままで居たが、ふと腕の力が僅かに緩んで、ジェイドの顔が見えるようになる。
――…俺を、真っ直ぐに見つめていた。
苦しそうな、辛そうな…それでいて俺を気遣うような、何ともいえない瞳の色をしていて、いつもの皮肉気な笑みなど無く。
ジェイドらしくない様子にただただ視線を奪われる。
お前は俺の何を見ているんだ。
それは俺には教えられないものなのか、口にすれば失うようなものなのか?
そんな顔をするくらいなら、そんなもの忘れてしまえばいいだろうに。
そんな哀しい顔をするくらいなら。
――…重なったジェイドの唇は、冷たかった。
ジェイドに手を引かれながら、俯いて森の中を歩いた。
無言だった。
想いを言葉にしてはならなかった。
月が見ていたから。
…月さえもが許してくれないような気がした。
そんな夜のことだった。
end.