――…最近、ジェイドが変だ。

 いや、変というのは間違っている。

 どちらかと言うと、変なのは俺の方で、ジェイドは…優しくなった。

 あからさまに優しいという訳ではなくて…、ふと、気が付くとジェイドが俺を見ている。

 以前のような、自分自身も苦しめているような厳しさのある眼差しではなくて。

 少し、こちらが気恥ずかしくなる感じの、とても暖かい、眼で。

 優しい瞳で、見守っている。

 その視線に気付いた瞬間は、とても嬉しい。

 …嬉しい、と感じている自分に気付くと、落ち着かない気持ちになるが…。

 それでも、傍にいてくれることが嬉しい。

 当り前になっていることが、嬉しい。

 二人きりで過ごす時間が長くなればなるほど、その眼差しから眼を離すことが出来なくなる。

 もっと、見つめていて欲しい。

 優しい雰囲気にはまだ慣れないが、それでももっと長く続いて欲しい。

 相変わらず、表情の変化は俺自身でもどうにも出来ないが、いつかあの眼差しに微笑み返せたらと思う。

 ちゃんと、与えられた分の優しさを返せたら。

 そう、思っていたのに。

『優しいと、気持ち悪いですよ』

 この言葉を不意に思い出してしまった。

 ――…しまった。

 ジェイド俺にしてくれるように、同じ方法で返しては、ジェイドに怒られてしまうだろう。

 ジェイドは、俺に合わせていてくれているのかも知れないし。

 どうやって返せば、いいんだ。

 …何故こんなに人の心とは難しいのだろう。

 俺は生まれたばかりだから、本当に判らない事だらけだ。

 しかし、兄上は俺よりも判っているような気がする。

 …サフィルスが何か、教えているのかも知れない。

 それにサフィルスなら、ジェイドと長い付き合いになるのだろうから、ジェイドに優しさを返す方法を知っているかも知れない。

* * *

 城が「お茶の時間」と決めている時間には必ず、兄上達が部屋に揃って居る事は判っていたから、その時間を狙って兄上の執務室を訪れた。

 返事があってドアを開くと、中にはサフィルスが一人、バルコニーの方で仕度をしている。

「あれ?プラチナ様、お珍しいですね」

「…兄上は…?」

「プラムさんと、厨房の方へおやつを取りにいかれましたが…、プラチナ様もご一緒されます?」

「…茶なら、貰おう」

「はい。じゃあ、どうぞこちらへ」

 椅子を勧められて、素直にそこに腰をおろした。

 直接ジェイドの事を訊くのも躊躇われたから、天使の事について尋ねてみようと思う。

 天使は皆、あんな風に思うものかもしれないし、それに実際天使の事について、俺は本で得た知識以外、詳しい事を訊いた覚えはなかったから。

「お茶は何がお好きですか?これなんかベルガモットの香りが、他の同じ茶葉より良いんですよ」

「サフィルス」

「はい?」

 茶葉をあれこれと迷っていた手を止めて、サフィルスが顔を上げる。何だか楽しそうなその笑顔に、この話題を出すのは少々迷ったが、今更他の話題もないので、口にした。

「天使について、教えてくれないか」

「天使について…ですか?」

「ああ」

 驚いた顔をしているサフィルスの視線を何となく受け止められずに、顔を背けた。

「私なんかより、ジェイドの方が詳しいと思いますよ?」

「いや…ジェイドは…」

 口篭もっていると、サフィルスは突然あ、と呟いて、

「…もしかして、ジェイドが何か…?」

 恐る恐る尋ねてくる。まさかそんな事を言われるとは思っていなくて、慌てて首を振った。

「そうですか?それなら良いんですが…」

 サフィルスは安心したように微笑んでから、今度は困ったようにうーん、と唸る。

 …もしかしたら、兄上の表情が良く変わるのは、サフィルスのおかげかも知れないな。

 そんな事を思いながら見守っていると、

「ジェイドが渡す本の中に、殆どの事は書いてあったと思うんです。私からは特にお教え出来ることは、もう無さそうなんですが…。何が、お知りになりたいですか?」

 そう言って、サフィルスは柔らかく微笑んだ。

 その微笑みに少し気が楽になって、とりあえず知りたい事を口にする。

「天使達にとって…嫌なことはなんだ?」

「それは――…それぞれですよ。魔人と一緒です。嬉しいことも、悲しいことも。でも、嫌な事と言うか…一番恐れている事は、やはり堕とされる事でしょうね」

 そのことを思い出したのか、サフィルスは少し瞳を伏せる。

 天から堕とされるという行為が、俺には判らない。

 天上には、そんな奈落へ通じる穴が幾つも開いているのだろうか。水の無い水溜りのように。翼を折られて下に落ちるという恐怖は、俺には想像が出来ない。

 例えば俺がとてつもなく高い崖から落ちるのとでは、きっと感覚が違うのだろう。

 ――…だからジェイドのことも、判らないのだろうか。

「理由を訊くのは…やはり駄目だろうな…」

「…私の、堕とされた理由ですか?――…いいですよ」

 思わず呟いた言葉に、快諾されるとは思ってなくて、俯いていた顔を上げる。傍に立つサフィルスの顔は見たところ、無理をしているようには見えない。

「構わないのか?無理には…」

「ええ。もう私の中では、一応終っている事なんですよ。だから平気です」

 もう、顔も思い出せないんですけれど。そう言って、サフィルスは言葉を続ける。

「好きな人がいました。…だからです」

「…それは、許されないことなのか?」

 少し困ったように笑うサフィルスの言葉に、正直驚いた。

 天使とは、他人を好きにならない生き物なのか?

「天上では、天使は神以外を好きになることは、許されないことなんですよ」

「だから、お前は堕とされたのか?」

――…ええ」

 ふと、サフィルスが顔を上げ、天気のいい空を見上げる。つられて俺も青い空を見た。

「本当に…奈落では、誰か一人を好きになるなんて、なんでもないことなんですけど…」

 そうして、サフィルスは顔をこちらに向けて、そっと、目を伏せる。

「天使達が愛していいのは、神様だけですから…他の『特別』を持つことは、禁忌だったんですよ…」

「プラチナ、大丈夫?」

「どうして僕のケーキを食べると、いつも具合が悪くなるですか~?」

「…これは…ちょっと…。誰でもそうなると思いますよ、私は…」

 サフィルスがそっと、プラムに聴こえないように外の景色を見ながら呟いたが、アプラサスなのだから耳聡くプラムにも聴こえたのだろう。サフィルスがプラムに睨まれて、慌てて笑って誤魔化した。

 兄上が心配そうに覗き込んで来るのに何とか、大丈夫だ、と返す。

「顔色悪いよ?外の空気吸ってきたら?」

「そうした方が、いいかもしれませんね…下手に横になるよりは」

「悪いが、そうさせてもらう…」

 この甘い匂いが頭痛を起こさせる。どうしてプラムはこんな匂いが好きなんだ。そして何故、兄上の方は何とも無いんだ…?

「プラチナ、送っていこうか?」

「いや、いい。茶が冷めてしまうだろうから…邪魔して悪かった、兄上」

「無茶するなよ、プラチナ。無理だったら、戻ってこいよ?」

「…ああ…」

 そうして甘い匂いに包まれた、その部屋を脱出した。

 部屋を出てすぐに、新鮮な空気を吸い込む。気分の問題だろうが、少し頭痛が消えたような気がした。

 考え事ばかりしていたから、あまり動く気力も無くて、部屋を出た廊下の突き当たりから、中庭に続くドアを潜り抜けて、暫く中庭を進む。

 少し木が茂っている部分の、一番大きな木の根元に腰を下ろした。

 頭を預けて目を閉じていると、鼻の奥まで残っていたような甘い匂いが薄れる気がする。

 そのまま木陰で休んでいると、ジェイドがこちらに近づいてくるのに気が付いた。

 ――…そういえば、今日は朝、髪を結った時に会ったきりだ。

「プラチナ様、こんな所で何してるんです?…――どうしました?」

 話し掛けてきてすぐに、ジェイドは俺の様子に気が付いて顔を覗き込んで来る。思わず視線を逸らして、俯いた。

「いや…たいした事は無い」

「そうですか?」

「ああ。少し疲れただけだ。…お前こそ、どうした?」

 こんな所でジェイドに偶然会うなんて事は無いだろうから、きっと俺を探しに来たんだろうが…、何か急ぎの仕事でも入ったのだろうか。

「お茶の時間にお伺いしたら、あなたがいらっしゃらなかったので、探してました」

「そうか、すまない。兄上の所に行っていた」

――…何か、問題でも?」

「…別に、何も無い」

 問題、という程のものではない。それは本当だったから、そう否定したのに。

 ジェイドはちらりと俺を横目で見て。

「嘘、下手ですよね、プラチナ様って」

「……嘘ではない」

「そうですか?俺の目見てそれ言えます?」

「…何故そんな事をしなくてはならん」

 何故だかしつこく尋ねられて、顔を上げて睨みつけた。

 それを見たジェイドがおどけておおっと、と声を上げる。

「怖いですねぇ、そんなにすぐ怒らなくても良いじゃないですか」

「…うるさい」

 こっちは真剣に考えているのに。何て奴だ。

 本当は俺を怒らせて、口を滑らせようとしているのだろうが、その手には乗らない。

 ――…迂闊に口を滑らせて、お前に嫌われる訳には、いかないから。

「それにしても、プラチナ様はすぐ怒り過ぎですよ。せっかく綺麗な顔をしてるんですから、もっと愛想良くしてくれませんかねぇ」

 特に俺に、と笑顔で言うジェイドの言葉に、腹も立ったが、それは常々考えている事でもあって。

――兄上の様に、笑えればいいのだろうな」

 ため息をついて、ジェイドから視線を外した。

 兄上のように、屈託無く。笑えたなら…笑えていたなら、もう少し違っていたのか。

 人の心が判らないと、こんな風に悩む事も無かっただろうか。

「まぁ、笑顔は社交の手段ですからね。円滑に事を運ぶ際には、嫌でも笑うのが良いんです。でも、あなたにそれは必要ありませんよ。周りがあなたに合わせますから」

 でも皆が皆、無表情で仏頂面なのも、怖いですけどねえ。

 ジェイドの言葉にまた腹が立って顔を上げると、ジェイドは意外にもいつものような、俺をからかっている時のような顔はしていなくて。

――…良いんですよ、あなたは嫌な事はしなくても。俺が全部しますから、気にしなくて良いんです。あなたは前だけ見てくだされば…それで、良いんですよ」

 真っ直ぐに見つめてくるその紫の柔らかい眼差しから、目を離す事が出来ない。

「…お前ばかりに、そんなことをさせる訳には…」

「させて下さいよ。その為に、傍に居るんですから」

 ジェイドがそっと、目を細めて右手で俺の頬を撫でる。

 いろんな言葉を俺に向けて、俺をからかって、それでもお前は俺の一つ一つを見守ってくれている。

 こうして、優しく。

「ああ…こんなところにいるから、髪に枯葉が付いてますよ」

 そう言ってジェイドは長い髪の中に指を入れ、そっと枯葉を取る。そのまま、慣れた手つきで何度も髪を手櫛で梳いていく。

 こういうふとした仕草に、ジェイドが好きだと感じる。

 もっと、傍に居たい。もっと、触れて欲しい。

 …俺はこんなに、欲張りだっただろうか。

「風が冷たくなってきましたね。お部屋に戻りましょうか」

 ジェイドがそう言って、座り込んでいる俺の両腕を掴んで立たせる。反動でジェイドの胸に飛び込む姿勢になって、驚いて顔を上げるとジェイドが微笑んでいた。

 ――…ジェイドが、好きだ。

 ジェイドがこんな風に他人に優しく微笑むのは嫌だ。たとえそれが社交であっても。

 あまり自分の気持ちを話すのは得意ではないが、それを伝える言葉を一つだけ、俺は知っている。

 こうして二人きりでいる時などは、危うく自分の意志とは関係無しに、無意識にそれを口にしそうになる。

 しかし、天使には神以外の「特別」は許されないらしいし、他の誰も好きにはならないらしいから、俺の伝えたい言葉は、嫌な事になるだろう。

 嫌がらせをしたいわけではないから、それだけは絶対に言うことは出来ない。

 ジェイドに優しさを返す方法も、どんなに本を読んでも未だに判らない。

 下手な事を言って、ジェイドに呆れられたり、怒られたり、嫌われたりするのは嫌だ。

 どうしたらいいんだろう。

 この気持ちのまま、二人きりで居る事が出来ない。

 二人きりで居れば、俺は口を滑らせてしまうかもしれない。

 少し離れてみれば、少し時間がたてば、何ともなくなるのだろうか。

 あの優しい眼差しに慣れることが出来るのだろうか。

 返し方も、判る日が来るのだろうか。

 ジェイドの眼差しが傍に無いのは嫌だが、それでも、嫌われるよりはマシだろうから…

 少し、離れてみることに、決めた。

end.