先ほど興味本位で揮った石の力で山が燃えているのを、魅入られたようにサフィルスは見つめていたが、俺が煙草に火をつけると、その煙でふと何かを思い出したように顔を背ける。

――少し、外の空気を吸ってきます…」

「…ああ」

 敢えて止めずに、そのまま外へと向かうサフィルスの足音が消えるまで、じっと燃える山を見つめていた。

 これだけ派手なことをしたら、赤の王子は必死でここまでやって来るだろう。

 目の前には天へ帰れる道がある。

 漸く辿り着いた。

 これまでのことを、思い返すのは馬鹿馬鹿しいし、今更後戻りも出来ない。いくらサフィルスでも、それくらいのことは判っているだろうから。

 いい加減、覚悟をするために独りになりたいのだろう。

 本当に、長い道のりだった。いくら寿命が長いとは言え、時間をかなり無駄にした。

 サフィルスとも、やっと縁が切れる。

(…それとも、帰ったら帰ったでまた不安定になるのか、あのお坊ちゃんは…)

 笑顔で壊れる事が出来る。いや、壊れていると自覚していないから、笑むことが出来たのか。

 壊れないと、正気を失わないと、この奈落で生きていけない同胞達のように。

 誰にも言わないと約束した事や、初恋はいつかと訊いて来た日のことを、あいつは覚えているだろうか。

 そんなことを思いながら、煙草の吸殻を床に捨てる。

 石畳の床で頼りなく消えていく赤い煙草の火を見つめて。

 ふと。

 死んでしまった、プラチナのことを思い出す。

 床に血溜まりを作るほどの血が身体から流れ出て行く様を見ても、後悔なんてしなかった。

 天に帰れる喜びの方が勝っていて。

 達成感もあった。

 銀の髪が血に染まるのを、美しいとすら思って見つめていた。

 気高く賢い、王子様。

 誰もが幸せになんてなれないのに。

 幸せなんてものは、他人を犠牲にしないと得られない。

 そう、わざわざ教えてやったのに。

 言葉では肯定しながらも、納得しようとしなかった。

 自分が犠牲に含まれていると、あの王子様は死ぬまでに考えたことはあったのだろうか。

 教えた事は無かったが。

 死の瞬間に、あの王子が何を感じそして思ったのか、それを知る術はもう、無い。

 綺麗な綺麗な、生まれたばかりの王子様。

 心の中まで真っ白で。

 言葉でどんなに汚そうとしても、どこからか光を見出して。

 奈落と言う名の世界を治める者には、到底相応しく無かった。

 憎む必要など無かったのに、それでも確かに憎んでいたのは天使である俺よりも、綺麗だったからか。

 美しかったからか。

 この、どうしようもない奈落という世界で。

 一つ一つに傷ついたり、苦しんだりしていた。…俺よりも。

 それでも、魔人という生き物に絶望する事はなかった。

 誰も頼んでないのに、命乞いまでして。

 そんなに死にたいなら殺してやろうと、その時思った。

 殺さなくても計画には支障は無かったが、ずっとセレスに煩く言われてもいたし。

 だからあの時、手加減をしなかった。

 ――…プラチナに揮った暴力は、とても気持ちが良くて。

 同時に何故だか吐きそうになった。

 どんなに天使や魔人を殺しても、こんな気持ちになったことは無い。

 あの王子の、綺麗な顔とか。

 長い銀の髪とか、俺を呼ぶ時の声とか、瞳の色や伏せた時の睫毛の長さとか…

 嫌いじゃなかった。

 気が付くと、見つめていた。

 目を離すのを、忘れるくらい。

 ぽたり、と。

 最初はそれが何なのか、理解出来なかった。

 それが自分の瞳から溢れて頬を伝っていることに気が付くまで、何度かそれは手の甲に落ちた。

 愕然として頬に触れ、震える指がその濡れた感触を確かめる。

 とうに失ったと思っていたもの。

 堕ちた時ですら、流さなかった。

 …違う。

 俺の知っている、涙ではない。

 こんな風に泣いた事は一度も無い。

 意思とは関係なく、止め様が無い涙。

 何故か、プラチナの姿を思い出す。

 …自覚すれば、それは狂おしいほど胸を締め付けて。

 サフィルスがこの場にいないことに感謝するくらい、長いこと泣き続けた。

 折れそうな細い身体、風に流される髪を手で押さえる仕草、時折目にした、ぎこちない淡い微笑み。

 天然で、素直で、面倒臭がりで。体力が無くて本当に手間を掛けさせられた。

 少し短気で、からかうとすぐに剣に手をかけて。

 顔を顰めて、ため息を吐きながら。

 言葉を待っていた。

 ずっと。

 ――…俺がその言葉を決して与えないと、理解していたくせに、それでも待っていた。

 …殺した。

 俺が、この手で。

 花を枝から手折るように容易く、奪った。

 後悔とか、そんなものではなくて。

 喪失感。

 もう、二度と逢えない。

 どんなに手を伸ばしても、触れることが出来ない。声も聴こえない。

 後悔はしない。懺悔もしない。

 ただ、あなただけがもう、何処にもいない。

 …俺が殺したから。

 最期に何の言葉も残さなかった。

 恨みも、憎しみも、嘆きも。

 この世の何も、未練など無いように。

 最期に何も、瞳に映さなかった。

 ――…あなたを殺した、俺の顔すらも。

 恨むという感情でも、あなたの心に留まることは出来なくて。

 綺麗な穢れない心のまま、死んでいった。

 …願わくば。

 あなたの最期に訪れたものが、苦痛ではなく安息でありますように。

 殺した俺が、誰に願うというのだろう。

 それでも思わずにはいられなかった。

 気付いてしまったから。

 今ごろ気付くくらいなら、永遠に気付かなくて良かったのに。

 帰ってもあなたを思い出しては、また俺はこうして泣くのだろう。

 …いつまでも。

 あなたの息が止まる瞬間、抱き締められたら良かった。

 あなたを想って、ただ、こんな風に涙が流れるから。

 ――…きっとあなたが、俺の初恋。

 …あなたが、とても…好きでした…

end.