『目を醒ましたのなら、その蒼い瞳を開いて、よく見て御覧なさい』

 声に促され、初めて世界を知った。

 色や、形や、温度や、匂い。

 それらは全てが移ろいやすく、永遠など存在しない。

 永遠と言うものは

 俺の中に存在するのだと…知った。

 『その蒼い瞳を開いて…よく見て御覧なさい。

 世界がどんな形をしているか、どんなものなのか』

 開いた先に、お前の微笑みがある。

 優しく包み込む声が、腕がある。

 頬を、髪を撫でる指がある。

 お前が居る。

 俺の世界は、お前だ。

 目覚めた時から、俺の『世界』を構成している全ては、お前だ。

 ――…ジェイド。

* * *

  抱き締めてくれる腕が欲しくて、先に手を伸ばした。

「…駄目ですよ、プラチナ様。まだお仕事中ですから」

 そう呆れたように言いつつも、優しく微笑みながらまるで俺が寒がっているかのように、ジェイドは身体を包み込んで、俺が望んだ通りに強く抱き締めてくれる。

 温かい腕。

 こんなに欲しいと思ったものはなかったし、これからも無いように思う。

 ジェイドが居ればいい。

 この温かい腕で、包み込んでくれるジェイドの存在が傍にずっと在ればいい。

「どうしました?…何か、不安な事でも?」

 伺うようにそっと、優しい声音で問い掛けてくる。

 何でもない。

 お前が心配するようなことは、何も。

 …ただ、お前を好きなだけだ。

「それとも、お仕事中なのにしたくなっちゃいました?」

 冗談なのか、本気なのか、相変わらず判らないような言葉。

 からかうように微笑んで、耳に悪戯を吹き込むように囁く。

「プラチナ様?お返事が無いと、本当にやっちゃいますよ?」

「…仕事中、なのにか?」

 少し笑って、胸に埋めていた顔を上げてジェイドの表情を見れば、ジェイドもにこりと笑っていて。

「ええ。俺はいつでも、その気ですから」

 そっと、啄ばむように口吻けられる。

「…俺には駄目だと言ったくせに」

 やわらかく微笑む紫の瞳を軽く睨めば、ジェイドは悠然とそれを流し、睨む俺の瞳を閉ざす様に更に深く、唇を重ねてくる。

 コントロールしていたのだと、ジェイドは言った。

 自分が操りやすいように、俺の『世界』を作りあげたのだと。

 だから、ジェイドは俺の『世界』を否定する。

『世界』からの解放を望む。

 何故だろう。

 この『世界』はそんなに醜くも、酷くも無いのに。

 時折、はっとするほど美しい瞬間も、確かにあるのに。

 突き放すような厳しい言葉の中の、

 時折雨のように訪れる、気紛れのような、

 万人に理解されるものでは決して無いが、

 だが、確かにそこに優しさはあった。

 手を、差し伸べることも、差し伸べられることも、

 その意味を

 その先を

 お前は知っていた。

 俺はこの『世界』から、解放されたくは無い。

 扉からノックの音がして、控えめなメイドの声が届く。

「ジェイド様は、こちらにいらっしゃいますでしょうか…」

「…はい?」

 返事だけはするものの扉に近づく事もせず、抱き締めたまま、俺の髪を梳いては指に絡ませている。

「西の領主様が、先日の件で直に奈落王に申し開きをしたいと、お出でになっておられますが…」

 メイドの言葉にジェイドはじっと俺を見て。

「…お仕事中、でしたね」

 メイドには決して聴こえない、小さな囁きを耳に落とし、体を離して扉の方へ向かう。

 腕が、離れていく。

 離れたくない。

 離したくは無い、のに。

 そう思いながらジェイドの背中を見つめていると、途端に体を脱力感が襲って、横にあったソファーに深く身を沈めた。

 俯いて、そのまま去っていくであろうジェイドのことを考える。

 いつ戻ってくるだろうか。

 このまま、一人で待つことが出来るだろうか…。

 扉を薄く開き、小声で何事かメイドと会話を交わしているジェイドの声が途切れ、扉の閉まる重い音がする。そのまま足音がこちらに近づいてくる気配に、顔を上げた。

「…ジェイド?」

「お休みにしました」

 まるで何でもないかのように、平然とした顔で言ってのける。

 そんなに容易く無視出来る、身分のものではないのに。

 俺の表情を読んでか、にこりと笑んで見せて。

「たまには、いいでしょう?何だか今日のプラチナ様は、お仕事したくないみたいですし」

 その通りだったから、否定はしない。

 しかし、こんな事は初めてで、自分自身戸惑う。

 酷く、周りに申し訳無い気持ちになる。

「俺の我侭で…仕事をしないわけにはいかないだろう…」

「いつもそうなら、困りますが。たまに、ですから。それに俺もサボれますしね」

 それに。

 俺の頬を両手で包むと、額が合わさりそうなくらい顔を近づけて、正面から見つめてくる。

「あなたにそんな表情をさせたままでいるなんて、仕事なんか手につきませんからね」

「…どんな表情だ」

 いつも『無表情』だとか言っているくせに。

 それでも、一番俺の僅かな感情の動きに聡いのは、ジェイドで。

 こうやって本来ならば許さない仕事中でも、呆れた声を出しながら、それでも突き放さず優しく触れてくれる。

「そうですね…」

 じっと、暫く無言になって凝視する。無遠慮なまでに顔を見つめて、こっちの方が目のやり場に困った。そんなことをしなくても、とっくに判っているのだろうに。

「俺を好き、って表情です」

 ジェイドの楽しそうな声音を聞いて、瞬時に顔の体温だけ、上がった気がした。

 逸らしていた視線をジェイドに向けると、人の悪い笑みをしていて、反応を楽しんでいるのが判る。

 それでも紫の瞳から目を離せずにいると、そのまま最初はそっと、それから次第に深く口吻けられる。

 頬を包むジェイドの手に指を伸ばし上に重ねると、指を逆に包みこんでしまう。

「…今日はずっと、あなたの気が済むまで、こうしていますよ」

 唇が離れて、温かい腕が身体を包み込む。

 瞼を開いた先には、ジェイドの微笑みがあって。

「あなたが安心出来るように…ずっと、こうして過ごしますから…」

 ジェイドの腕の中には、安らぎと束縛が同時に在り、

 そして俺は、この腕を求めるたびに、それらから逃れる事は出来ない。

 もっと、強く。

 …もっと、強く。

 俺はこの『世界』の中でのみ、

 怒ることを覚え、微笑む事を覚え、痛みを覚え、涙を知り、愛することを知り、

 生き続ける。

 出来るなら、ずっとこのままで。

 この温かい腕の中で。

 寝る時も。

 ――…この腕に促され、

 奈落という世界を終らせる、その瞬間も。

end.