…それは寓話の世界のおはなし。
"そのお姫様は
悪い魔法使いから逃げる為に
魔法の掛かった自分の長い長い髪を伝って
高い塔の最上階から、抜け出したのです…"
「プラチナ様、おはようございます」
ジェイドが挨拶をしながらテントの中に立ち入れば、とうに目覚めていて着替えも済んでいる様子のプラチナが、長い髪はそのままで機嫌も悪くこちらを向く。
どうやら昨日寝坊をした際に髪の事をいろいろ言った所為か、自分で一応手入れなどをやろうとは思ったようだが、やはり途中で面倒になったらしい。
普通の長さ以上に長い髪だから、洗うにしても纏めるにしても大変なのは判らなくも無いが。
「面倒だ。…切る」
「ああっ、ちょっと待って下さいよ!!プラチナ様!」
あっさりと項の辺りで大まかに髪を掴んで、剣で切ろうとするのを慌ててジェイドは止めた。
「もう、何でそんなに短気なんですか…!髪を切るのは駄目ですよ」
剣を取り上げて、鞘へ戻す。不貞腐れた態のプラチナが乱暴に椅子に座って、ジェイドをじろりと睨んだ。
「お前の好みというのだろう」
「…ええ」
「それなら、やはりお前がやれ。俺は知らん」
ぷいと顔を背けてしまう。
その子供のような幼い行動を自覚もせずにしているのだろう、彼に気付かれないように、くすりと小さく笑ってジェイドは美しい銀の髪へと手を伸ばした。
この髪が好きな事は、嘘ではない。
…唯一、嘘を言わなくても良い、もの。
自分の言葉の殆どが嘘でも…これだけは、偽らない本心から、言うことが可能なもの。
悪い魔法使いから、逃げられるように。
その長い髪を伝って、逃げられるように。
それは、あなたが自由になる為の、手段だから。
誰も気付かない、あなた自身さえ気付かない。
唯一の…ジェイドが彼のために用意出来る、逃げ道のように見えていた。
そんなもので、この運命から本当に逃げられる事など出来はしないし、たとえこの王子がどんなものが相手でも、逃げるなどという行為は絶対にしないだろうということも、充分に理解していた。
だから、これは本当に馬鹿げた行為。
ジェイド自身の、精神を安定させているだけの、行為。
…サフィルスを馬鹿には出来ない、とは思うが。
「…はい、出来ましたよ」
結い終われば、プラチナは一応機嫌が悪いのが治まったのか、こくりと頷いて椅子から立ち上がる。マントを身に付け、帯剣しながらジェイドを振り返った。
「今日は、天使の情報があるなら、戦いに行くぞ」
深い色の瞳が、迷い無くジェイドを見つめる。
プラチナの強い瞳を前に、何故だか受け止められずに伏せ眼がちになる。
ジェイドが、この無垢な生き物に対して用意した道。
…それは、後でどんなに修正しようとしても、始めてしまったら…――
途中にどんな事があっても、何があっても…最後まで、進まなくてはならない。
…それが、どんなものでも…。
眼を、逸らさずに。
息も止めずに、振り返らずに、何も考えず。ただ、正面だけを見つめながら。
その迷い無い瞳に映るのは、自分だけ。
そうするように仕向けているはずなのに。
…時折…、酷く胸が痛む。
今ならまだ…間に合うから、と。
その、瞳に映る自分が伝えてくるようで…あまり、気分がいいものではない。
「そうですね、このテントにほど近い集落で、天使に襲撃されたとの情報があります。そこが宜しいかと…」
「そうか」
ばさりとテントの入り口を覆う布を払って、プラチナが出て行こうとする。
見送ろうとして、ジェイドが徐に顔を上げた時。
プラチナの風に靡くマントの様子が、逆光の所為もあるのか羽根のように見えて、暫く動けなかった。
「何してる?行くぞ、ジェイド」
「え? 私が…ですか?」
固まっているジェイドの顔を不思議そうに見ているプラチナの様子に、我に返る。
「何を驚いている。お前以外に、ここに誰が居る?…それとも、具合でも悪いのか?」
「いいえ…。 …ただ、最近、人間も増えて仕事も多いのに、戦闘も多くて辛いなあ…、と」
にこり、と微笑んで見せれば、顔を顰めて。
「何を言っている。サボってばかりの癖に」
「おや。ばれてましたか」
軽く笑うと、ため息を吐くのが聞こえた。 後に従ってテントの外に出、煽られるプラチナの髪に視線が行く。
陽の光を浴びて、きらきらと輝くもの。
…合わないモノクルを嵌めた眼には、痛い。
だからだ、と理由付けた。
だから…涙が出そうになるのだ、と。
こんなにも。
曇った視界で、曇った瞳で見ていても。
あなたは美しい。
――…どんなものよりも、綺麗だ。
「―――も…いいですよ」
ポツリと、聞かせるつもりは毛頭ない呟きが漏れる。
だかそれは、声が頼り無く小さかったのと、強い風によってかき消されてしまう。
「…何か言ったか?」
振り返ったプラチナの視線には、淡く笑んだまま、首を振って見せた。
「いいえ。今日は風が強いですね」
「そうだな。こう強くては、髪が乱れて適わんな…」
自由になれた時、その長い髪は今度はあなたを留める為の戒めに変わり、きっと邪魔になることでしょう。
その時は、何もかもを忘れて、迷わず断ち切ってしまいなさい。
俺があなたを傷付けた事も。
俺が、これからあなたを裏切る事も。
…俺が、あなたに本当の言葉を、伝えられなかった事も。
全て、忘れてしまうために、切ってしまいなさい。
俺の事は…本当のことは何一つ、言えなかったけれど…
それでも…
あなたはそのままで、何一つ、俺の事は知らないままで…良いんですよ。
俺にだって…傷付くという感情は、ありますから。…プラチナ様。
* * *
どんなに好きだとか、どれくらい大切だとか。
言葉にしようとすればするほど、それは空回りする。
想いが溢れ過ぎて、感情が先走って。
だから言わない。
言わなくても伝わっているとか、そんな傲慢なことも考えない。
…ただ。
傍に居て、誰よりも近くに居て。
これ以上の幸せなど…
望まない。
* * *
「おはようございます」
昔と同じ様に挨拶をしながら寝室の扉を開ければ、今日は珍しく寝坊をしているようで、まだベッドの中で眠っている主の姿を見つける。
銀の髪は、一度も切られることなく、陽の光にきらきらと輝いていて。
ベッドに腰掛けそっと、髪を一房指に絡ませた。そのまま唇に、癖の無い髪を当てその感触を楽しむ。
…彼は用意されている逃げ道に気付かない。
――…気付かない振りをしているのかも、知れない。
そして、ジェイドはそのことに気付かない振りをしたまま、こうして長い月日を共に過ごす。
もう、離れることはとても出来ないのだから、気付かないでいるしかない。
彼が気付いて逃げていく日まで、こうして。
…いつまで、傍に居ていいのだろう。
いつまで、幸せでいていいのだろう…。
「…ん…?ジェイド…?」
散々髪を弄ってから、漸く主のお目覚めにジェイドはベッドに腰掛けていた状態から立ち上がった。
微笑んでまだ寝惚けている様子の彼の言葉に、返事をする。
「はい。おはようございます。寝坊ですよ、プラチナ様」
「…ねむい…」
そう言って、折角開いた瞼がまたも閉じようとしている様に、慌てて上半身を抱き上げる。
「ああっ、二度寝はよしましょうよ!今日は朝から謁見や会議で詰まってるんですから、どうしても遅れるわけにはいかないんですよ!」
体を揺するだけでは見込みが無く、やむを得ず頬を軽く叩けば、幼い子供のようにイヤイヤと首を振り、ジェイドの手から逃れようとする。
その姿が可愛くて、思わず叩く手を止めてしまった。抱きとめたまま、寝息を立て始めるプラチナをそのままじっと見守る。
枕元を見れば、テント生活の際につけてしまった悪い癖の一つである、本が置いてあって。
また寝るのを忘れて、読んでいたのだろう事は、想像する必要すらなかった。
「…本当に、このまま寝かせて差し上げたい所ですが…」
腕の中で、無防備にも眠るプラチナを、自覚無しに微笑みながら見る。
仕 方無く、着替えさせる為に夜着を剥いで行くと、白い肌の胸が曝け出されていく。それをあまり意識しないように、手早く夜着の釦を外していくと、冷たい外気 を直に肌で感じた為か、ふ、と瞳が開いた。心地良い眠りを邪魔され続けた所為か、容赦なく機嫌が悪いのを伝える表情で、一言ぼそりと呟く。
「…寒い」
「そうでしょうね。風邪をひかないうちに、さっさと服を着て下さい」
容 赦無く服を脱がせば寒さに目を醒まし、次第に覚醒している様子だった。それでも完全に目を醒ますまでには時間が掛かる。ベッドに起き上がったまま、ぼーっ としているのを放置し、ジェイドはその間にクローゼットから今日着るべき服を持って来る。ジェイドが一つずつ手渡すと、ゆっくりとだがプラチナは無意識の 態で身に付けていく。
「さて、と。終りましたか?」
こくり、と頷いたのを見て、ジェイドはプラチナを横抱きにし、鏡台の前へと運んだ。プラチナも慣れたもので、寝惚けたまま落ちないようにしがみ付いている。
甘やかしているとは思うが、ジェイドはこの時の甘えた仕草を見るのが好きだ。
正気のプラチナでは、到底見ることが出来そうに無い、貴重な時間だと思う。
以前、この状態のプラチナの手を引いて移動させたら、あちこちに足を取られてかなり危険だった。歩みも遅いし、運んだ方が早かったから、プラチナが嫌がるのを覚悟でやってみたら、意外とプラチナは大人しく運ばれていた。
…自分で歩かなくていいから、楽だと思っているのかも知れなかったが。
鏡台の前に座らされて、漸く覚醒に近づいてきたのか、髪を梳く間に何度か鏡越しに瞳が合う。
「おはようございます、プラチナ様」
今日何度目かの挨拶をすると、漸くプラチナからも、「おはよう」と眠そうな返事が返って来た。
「御髪のお世話が無ければ、もう少し寝ていられたかも知れませんね」
「ん…」
伏せ目がちな様子が、あどけない印象を与える。その様子に少し微笑んで、ジェイドは言葉を続けた。
「でも実際、プラチナ様、何時もこの状態で寝てますよね」
「それは…」
暫くジェイドはプラチナの口から言葉の続きを待っていたが、何故だか俯いてしまって、何時まで経っても得られない。
そのまま、言葉も無く長い美しい銀の髪を梳いていく。
何度も何度も、感触を確かめるように、櫛で梳きながら指に絡める。
するりと、艶やかなそれは、絡まることなく指の間を抜けて行く。
「――…切っても良いですよ」
あの時、伝えられなかった言葉を言った。
ジェイドの言葉に、プラチナが不思議そうな顔をする。
何を今更、と思ったのだろう。
「お邪魔でしょう?あなたは奈落王ですし、…俺の好みに合わせて頂かなくても、良いんですよ。…もう」
逃げても、良いんですよ。
作った微笑みの裏に、その言葉を隠して言ったつもりだった。
鏡の中のプラチナはジェイドの顔をじっと見つめていたが、何時もと変わりない声で問い掛けて来る。
「…お前は、俺の髪が好きか?」
「ええ、好きですよ」
その気持ちは、以前と変わりなかったから、ジェイドは即答した。
――…今では、前以上、かもしれない。
「…それなら、良い…」
ふわりとプラチナが微笑む、その艶やかさに目だけでなく心も奪われる。
そんな風に笑んで貰えるとは思っていなくて、どきりとした。
「……良い…んですか?」
問い掛ける声も、掠れて震えていなかったかと思うほど。
「ああ」
他の言葉も無く、まだ眠そうに瞼を閉じてしまう。
継ぐ言葉が見つからなかった。
伝えたい言葉は沢山あると言うのに、どれも相応しくなくて。
柄にも無く、言葉に詰まる。
髪を結い終わり、不意に鏡の中のプラチナと瞳が合う。
…その迷い無い深い色の碧眼は、ジェイドだけを見つめていた。
その瞳に促されるように見つめられながら、いつかの夜のように、背後から腕を伸ばして。
「有り難う…ございます…」
愛しい、細くしなやかな身体を強く抱きしめ、腕の中の存在に全ての気持ちを伝える言葉を、心から囁き掛けた。
* * *
…ジェイドは気付かない。
プラチナがめったに本心を見せないジェイドの、その言葉が聴きたいが為に、髪を伸ばし続けるのだということを。
プラチナがその手段である長い髪を、切るはずが無いのだ。
――…その長い銀の髪は、ただ一人の堕天使の為だけに、存在し続ける。
end.