ざくざくと、雪が降る中、雪をかき分け踏締める足音だけがする。

 雪が降っている間、細かな音は雪が全て吸収しているかのように思えた。

(…一体、何処に行くのだろう…)

 心でそう呟いたのは、何度目か、プラチナ自身すら判らなくなっていた。

 もう、ニ刻は悠に歩いているだろうと思うが、見渡す限り、一昼夜降り続けた雪が作り出した銀世界で包まれていて、今現在何処に居るのか、見当すらつかない。

 手を引いて前を歩く、ジェイドには何も教えて貰っていない。

 会話も無い。

 冬用に誂えられたマントの内側には毛皮が入っていたし、ジェイドが出かける前に、器用にマントの内側を炎の魔法で防護してくれていたから、プラチナはそれ程の苦痛は感じずにいられるのだが、それでも爪先や剥き出しの頬の感覚は既に無い。

 城を出てくる前には夜明け前で暗闇だった空が、今はすっかり色が変わって、もう直ぐ夜が明ける事を知らせている。

 その所為か、ジェイドの周りをちらついていた、道を示す小さな魔法の光は、何時の間にやら消えてしまっていた。

* * *

 ここ連日の激務が漸く終了し、その日は夕方から夢も見ないような眠りにプラチナがついていた時、外では雪が降っていて、暖炉の甲斐なく酷く冷えていた。

 眠りについた時は、本当に眠くて眠くて、そんな事を気にする間もなく熟睡してしまったが。

 最初に目が覚めた時、恐らくその所為でこんなに眠いのに目が醒めたのだとプラチナは思ったのだが、実際はそうではなかったらしい。

 灯り一つ無い部屋の、ベッドの脇から見知った気配がする。

「漸く、起きて頂けましたか?」

――…ジェイド…?」

「はい、さっさと着替えて下さいね」

 問いかけは見事無視されて、横になっているプラチナの体の上に、次々に服を乗せられる。

 突然の事で、事態が飲み込めない。

 部屋は暗くて、ジェイドの声は判るものの、ジェイドがどんな表情で何をしているのか、暗闇に慣れなくては判別さえ出来なかった。

「……今…、何時だ……?」

 どうやら起きなくてはならないらしい。仕事にミスでもあったのだろうか。

 そう思いながら緩々と身体を起し、掠れた声で疑問を発すれば、部屋の空気の寒さに体が震える。

「そうですね、まだ夜明け前です」

「何!?」

 そこまで寝ていた自分自身にも驚いたし、更に夜明け前という中途半端な時間に起されたことに、プラチナは声を上げた。暗闇に慣れた目でジェイドを見れば、今に始まった事ではないが、プラチナの部屋のクローゼットの中を勝手に扱って何やら纏めている。

 気の所為でなければ、どこかに出かけるという約束もしていないのに、荷造りをしているようだ。

「はい、ぼさっとしない。早く早く」

 急き立てられ、ジェイドの行動に疑問に思いつつも、着替える為に身に纏っている夜着の釦を外す。よりいっそう、寒さを感じて思わず呟いた。

「寒い…」

「お部屋を暖めて差し上げたい所ですけど、時間が無いんですよ。すみませんが、お早く、お願いします」

 後で好きなだけ温めて差し上げますから、というジェイドの言葉は聞き流し、着替えながらジェイドを睨んで。

「後でちゃんと説明しろ」

 そう言えば、ジェイドは飄々とした態度で、「ええ、いくらでも」と頷いた。

* * *

 それから、説明も無しに城から只管歩き続けている。

 夜 が明ける前で、更に守衛の交代の時間だったのか、誰にも会わずに城の小さな通用門から外に出てきた。プラチナがそんな時間に城の外に出たことは勿論無く て、最初は少しだけ新鮮で楽しいような気もしたが、手を引いていてはくれるものの、ジェイドは口もきかないし、振り返りもしない。

――…ジェイド」

 久しぶりに口を開いたら、この寒さの所為か言葉の発音が変だった。

 冷え切った空気を改めて吸い込めば、身体中に染み込む。

「何です?」

 振り返らずに答えるジェイドの声は、何故だか上機嫌で。それを訝しく思いつつも、プラチナは言葉を続けた。

「何処に行くんだ?随分歩いたが…」

「遠く、ですよ」

「遠く?」

「ええ、ここよりずっと、もっと遠くに、ね」

 曖昧なジェイドの言葉に首を傾げながら、具体的な言葉を引き出そうと言葉を重ねる。

――どのくらい?」

 プラチナの声に、ジェイドは漸く振り返って微笑んで見せた。吐く息は白い。

「もっと遠く、ですよ。これ、駆け落ちなんですから」

 駆け落ち、という言葉は辞書で見たことがある。

 …確か、恋人同士がこっそりと、現在居る場所ではない、違う土地へと逃げること…だった筈だ。

「…お前の冗談は、笑えない」

 不思議な事を言うジェイドにプラチナがそう言うと、少し真面目な声が返って来る。

「冗談なんかじゃ、無いですよ。本気です」

「本気なら尚悪い。俺は疲れて寝てたのに、突然起こされて、そんな事でこの寒い中延々歩き続けて来たのか!」

 怒りと言うより呆れて声を強くすると、ジェイドがまた背後のプラチナを振り返る。

「そんなこと…って、酷いですね」

 如何にも心外そうに…ため息をつきながら、ジェイドはプラチナをじっと見つめて。

「俺と、永遠に二人だけで居られるんですよ?素晴らしい事じゃないですか。…それとも…まさか俺とじゃ、不満なんですか?」

 ジェイドの言葉に首を振る。

 不満なんて、一つも無い。

 それについては全く無いが、他の事では沢山あった。

「よりにもよって、奈落王がする事じゃないだろう!」

「良いじゃないですか、そんな王様が歴代の中一人は居ても。何事にも初めてはつきものです。…それに今は城の外ですから、あなたはただのプラチナ様ですよ」

 既に『様』という敬称がついている辺り、『ただの』では無いとも思うが、ジェイドはそんな事は気にもしていないようだ。これ以上、奈落王としての責務だとかを言っても、まともに聞きそうに無い。

 プラチナは深いため息をついて、小降りだった雪が止んだ事を確認し、邪魔なフードを取る。

「…こういうことは、俺にも一言あって然るべきだ」

 それに、突然居なくなって、兄や部下達が心配しているだろうと思う。

 そう言うと、ジェイドは薄く微笑んで。

「そんなに心配でしたら、落ち着いたら城に宛てて、お手紙でも書いて下さい。『幸せだから心配するな』って。それが駆け落ちのセオリーですから」

「…何だそれは…」

 呆れて二の句が継げない。

 それでも足は止まらずに先へと進んでいく。この寒い中、立ち止まっているのも大変だから、手を引かれるまま歩いていたが、やはり頭の中ではいろいろと考えてしまって。

「…大体な、途中で吹雪いて遭難するとか、思わなかったのか」

「それくらいじゃ、死なないでしょう?俺達」

 死ななくても、嫌なものは嫌だ。 そういう視線でジェイドの後頭部を睨んでやる。

 それでも、強引過ぎるものの、プラチナはジェイドを責めるつもりはなかった。

 この『駆け落ち』だって、多分ジェイドの性質の悪い冗談だろうと思う。

 …この髪では、何処に行っても目立つ。今や奈落の何処でも、「奈落王は銀の長い髪」なのを知らないのは赤子くらいなものだから、『駆け落ち』などしても、直ぐに見つかって連れ戻されてしまう。

 きっと、ジェイドが強引に作ってくれた休暇なのだろう。

 城とは違って、何も考えずに過ごせる時間が、取れるように。

 何度も体の為に休暇を取れと進言したジェイドの言葉を、頷きつつも実行しなかったプラチナに我慢が出来ずに、こんな行動に出たのだろう。

 ジェイド自身も、この休暇を取る為に多少どころではない苦労をした筈だ。

 奈落王と、その参謀が同時に休みが取れたことなど、ここ二年程なかった。

 どこかに行きたいだとか、何かをしたいだとか、ジェイドがそう誘うのを、「暇になったら」と言って、随分と先延ばしにして来たように思う。

 永遠に二人だけ、というのは幸せだと、プラチナは口には出さないが、そう思う。

 だが、それはまだ…ずっと先のことでいい。

 いずれ望まなくても、そんな日は来てしまうのだし、きっと、今はそんな幸せな永遠は…淋しくて退屈だろうと思う。退屈で、淋しい理由を相手の所為にして、疑い深くなったり、いがみ合ったり後悔したり罵ったり…そのどれも、したくはなかった。

 だから、まだそんな幸せは要らない。

――もう少し…経験と言う奴を積んでから、な…)

 それに、まだジェイドを乗りこなせずに居るようだし。それはまだ一人前ではない、ということだろうから。

 もう少し自分が成長して、ジェイドと静かに過ごせるようになるまで、要らない。

 …本当は、もう、世界に二人きりなのは知っていたけれど、それを言うとジェイドが付け上がるような気がしたから、プラチナは黙って足を進めた。

 前後に歩くから、時折一つになる足跡。

 ――…この銀世界には、二人だけしか居ない。

「それにしても残念なのは、残されたあの人たちがうろたえる様を、見ることが出来ないことですね」

 可笑しそうな響きを含んだ声で言うジェイドの言葉に、全員から説教されるのを想像し、プラチナはまだ説教される前からうんざりする。

「怒るだろうな…」

「大丈夫ですよ、目の前にいなければ、あの人たちも怒りようがありませんから」

 ジェイドらしい言い様に、もう考えていても無駄だと感じた。ジェイドが用意してくれた休暇なのだから、ならば望み通り全てを忘れて楽しんでやろうとさえ、思ってしまう。

 …また暫く、こんな日が来ない事は漠然とだが、感じていたから。

 手を繋いだまま、前を歩くジェイドとの距離を縮め、顔を寄せて問い掛ける。

――…それで、ジェイド。本当に、いつまで歩かせるつもりなんだ」

「もうすぐ、ですから」

 紫の瞳が、プラチナを優しく見つめ返して来る。

 やっと、少しだけ具体的な言葉が聞けた。

 夜が明ける。

 太陽というものは昇り始めたら早くて、ため息をつく間もなく姿を表していく。

 太陽の光が銀世界を包み込んで、その反射した光で視界の全てが覆われてしまう。

 眩しくて、何も見えない。何も判らない。

 ジェイドと繋いだ手だけが頼りだった。

 それでも今だけは、その手に頼っていればいいことだけ判っていたから。

 その手が何があっても離れないように、強く握り締めた。

 確かな力で、ジェイドが握り返してくれるのを感じる。

 これから何度となく、こんな景色を見ていくのだろうけれど、今日のこの日のことを忘れないだろうと思う。

 強引で自分勝手な…それでもこの男の見せた、優しさのことは。

 何度、目にしても…全て忘れることなく、この身に刻むように覚えていくのだろう。

 それはいい、とふと思った。

 そうやって、永い時を生きていくのも悪くないだろうと、そんな事を考えながら、下を向き雪を踏む足音だけ聞き取って歩いていく。

 ジェイドが立ち止まった事にも気付かないで、そのままニ、三歩進むと待ち受けていたジェイドの腕の中に包まれ、驚いた。

 顔を上げジェイドを見つめると、何も言わずにただ、そっとジェイドが唇を重ねてくる。

 その唇は冷たくて、きっと自分のもそうだろうとプラチナが思っていると、唇を離してジェイドが暖かい掌で感覚の薄れた頬に触れた。

 ジェイドが優しく微笑みながら、やんわりと冷え切った頬を暖めるように、両手で包み込む。

「…すっかり、冷たくなってますね」

「誰かが、こんな中を長時間歩かせるからだ」

「そうですね、でも、俺は言った事は守りますから」

 あて付けるように言ったプラチナの言葉に対し、思い掛けず真摯に帰ってきたその言葉には、言わないけれど勿論、あの約束も入っているのだろう。

 ――…『傍に』と願った、あの約束も。

 それはこれから…どんなに耐え難い事が起こっても、傍を離れないと言ってくれているようで。

 ただただ、プラチナがジェイドを無言で見つめていると、ジェイドはもう一度、軽く触れるだけの口吻けをする。

「着いたら、お約束した通り好きなだけ温めてあげます。――ああ、一緒にお風呂に入っても良いですねぇ」

「…本当に、お前は一体、俺を何処に連れて行くつもりなんだ…」

 楽しげなジェイドの声に、呆れ混じりの言葉を掛ければ、ただ笑んでみせる。

 その顔をプラチナが睨めば、ジェイドは慌てて言葉を継いで。

「やですねえ、変な所にはお連れしませんよ」

「…………」

「あ、疑ってますね」

「…まあ、いい…」

 ジェイドの反応にため息を吐いて、言葉を続ける。

――そこがどんな所だろうが、お前が傍に居るのなら…好きにしろ」

 例え本の中に書かれているような、楽園に辿り着くとしても。ジェイドが居ないのであれば意味が無い。

 永遠も、ジェイドが居てこそだから。

 ジェイドは何故か驚いたように目を見張っていたが、力が抜けたように破願して。

「…はい、そうします。あなたが望むように…」

 そっと耳に囁くジェイドの言葉と腕に包まれながら、また雪が降り出したこの世界から自分を切り離すように、プラチナは目を閉じた。

 生まれてから、両手の指で足りる程しか見たことの無い銀世界も。

 雪が降りてくる、曇った奈落の空も。

 世界を覆い尽くす、眩しい光も。

 もう、何も見えない。

 ――…傍に居る、ジェイド以外は、もう…何も。

end.