ふと、目の前で黙々と書類を片付けているプラチナを見て、ジェイドは気付いてしまった。

 いや、そんな事は随分と前から理解していたつもりだったが、先程アレクが雪塗れになって帰って来た姿を見た際、呆れた感情とは別に、何だか変な感情が胸に燻っているとは思っていたのだが、不意に実感した。

 無邪気なアレクとは違って、姿も青年で、仕事をするのが当り前になっているプラチナは、子供らしい反応というものは皆無で。

 生まれた時からそうだったし、それがあまりにも当然だったから。

 …それが不自然だと受け止めている自分に、酷く驚いて…そして実感した。

 子供らしくとは言わないが、それなりに甘えられた事が無い。

 ベッドで共に眠るようになった、今でさえも。

 恋愛に疎いプラチナから、漸くの事で先日手に入れた特権だから、まだ、もう少し待つつもりで何もしてはいないが。

 勿論今更甘えていいと言った所で、プラチナは素直に甘える性格には程遠い。

 生来の気性もあるし、そんな風に教育してしまったから、当然と言えば当然過ぎる。今更甘えろという方が、虫のいい話だという気がした。

 …実感した瞬間に、突然甘えて欲しくなり、甘やかしてみたくなる。

 べたべたに、砂糖菓子よりも蜂蜜よりも、甘く。

 しかし、考えてみれば、ジェイド自身そんな甘やかし方は知らない。

 サフィルスのアレクに対する様子を思い出し…途端にぞっと背筋に悪寒が走る。

 勿論、あのような触れ合いよりも、自分的には…唯一の、特別な相手にする甘やかし方をしたいと思うが、突然そんな甘やかし方をすれば、疎い上に慣れてないプラチナは逆に退いてしまうだろうから、少しずつ慣らしていかなくては…と考えて。

 一番、手っ取り早い方法を口にした。

「…何か、欲しい物はありませんか」

 …少々、唐突過ぎたかも知れない。

 書類を手繰っていたプラチナが何度か瞬きした後顔を上げ、訝しんだように凝視する。その視線を受け止めて、ジェイドは微笑んで見せるが、よりいっそう警戒心を抱かせたようだった。

「……どうした、突然?」

 少々の沈黙は、恐らく性能の良い耳を疑っていたのだろう。

 …確かにジェイドは金勘定に煩いが、それはこれとは話が別だ。

 恐る恐る、という感じで問い掛けて来るプラチナに、作ったものではなく本当に心から微笑む。

「いえ、もうすぐ即位されて一年が経ちますから、そのお祝いに何か…贈らせて頂きたいと、思いまして」

 特に用意した言葉ではないが、プラチナは少し警戒を解いて、視線を書類に戻す。

「…別に、気を遣わなくていいぞ」

 形の良い唇からため息の様に、その言葉が零れることは予想済みで。

「これは、俺の個人的な気持ちですから。ほら、何か欲しいものの一つや二つ、あるでしょう?」

 急かすように言えば、控えめな反応が返ってくる。

「…あるには、あるが…」

「どうぞ、遠慮なく言って下さい」

 にこりと極上の微笑みを見せ、言葉を促す。

 プラチナの為だったらどんな無理な要求も、叶えようと思っていた。

 手に入り難い物でも、多少値が張るものでも、時間が掛かっても、必ず手に入れる。今の自分には、それは充分可能な事だった。

 何より、甘やかすと決めたのだし。

 プラチナは、じっとそんな独り上機嫌のジェイドを見つめていたが、ポツリと真面目な表情のまま、欲しい物の名前を呟いた。

――…抱きまくら」

 …ただ、それは予想の範疇をはるかに超えていたが。

 まさかそんなものを欲しがっているとは、思ってもいなかった。

 …ある意味、睡眠はプラチナの唯一の楽しみといってもいいものだから、枕を欲しがるのは妥当なのかも知れないが。

「抱きまくら…って、アレですか」

「そうだ」

 その言葉を聞いて、目を見張り確認するように言うジェイドに、こくりと頷いてプラチナが答える。

 枕が抱きつけるようになったもの。

 ジェイドも以前街角で、その姿を見たことはある。

 誰が使ってもいいものなのだろうが、幼い子供が使う印象が強い。何故ならそう言うものは大抵、縫ぐるみの形をしていて、胴部分が長くなっていることが多いからだ。

 ただ、そんなものを好むのは、少々生活に余裕のある上流階級の者達に限られていたが。

「…兄上の所にあって…、気持ち良かった…から」

 つい先日アレクの所で、昼寝をした時の事を言っているのだろう。

 確かにジェイドがプラチナを迎えに行った時、アレクのベッドに茶色いクマの形をした、そんなものがあったように思う。

 ジェイドの考え込む様子に、プラチナはジェイドが困っていると思ったのか、そっと言葉を継ぐ。

「…駄目なら…」

 いい、という言葉を遮って、ジェイドは安心させるように笑んで見せた。

 抱きまくらの一つや二つ、用意出来ない筈が無い。

 愛しいプラチナの為ならば、更に。

* * *

 その日のうちに注文は済ませておこうと、ジェイドは空いた時間を使って、城下町へ行くことにした。

 時間や手間を惜しんで、適当に城の者に任せる訳にはいかない。

 慣れた足取りで街を移動し、何軒か心当たりの店を回り、色使いや仕立て具合の気に入った仕立て屋を選んだ。

 そこには縫いぐるみの形をしていない抱きまくらもあったが、プラチナが気に入っているのはどうやらあの状態のもののようだから、そちらを指定する。

 折角の希望だし、何よりプラチナが使うものだから…と布地から中身のものまで、細部に渡って特注した。プラチナがどういうものを好むかは熟知していたし、仕立て屋任せにして、気に入られなかったら話にならない。

「お客様、これは贈り物で?」

 仕立て屋に問われて、頷いた。ジェイドの金を惜しむ様子の無い細かな注文に、仕立て屋は勝手に客が身分の高いものと決め込んでいるような接し方だったが、敢えて否定する事も無い。

「これを使われる方は、お幾つですか?」

 その問いには、苦笑した。よもや、奈落王が使うとは夢にも思わないだろう。

「そうだな…もうすぐ3歳、かな」

 嘘は言ってはいない。ただ、姿が大人なだけで、実際に目覚めてからはその位しか経っていない。ジェイドの曖昧な返答に特に気にした様子も無く、仕立て屋は質問を続ける。

「男女どちらです?」

「男」

「それでは、布地は青い色に致しましょうか。形は…こういうのは如何です?」

 熱心な仕立て屋の思案図をぼんやりと見ているうちに、悪戯心が働いてしまう。その思いつきは悪くない気がして、思わずその時を想像し、顔が綻びそうになるのを何とか堪え、ジェイドは口を開いた。

「…いや、色は…」

* * *

 プラチナの寝室に訪れた時、とうに湯浴みも済んでいる様子のプラチナが、ベッドの上に横にならずに座り込んでいて、目の前のそれをずっと見つめていたようだった。

 ベッドの枕もとに置いてあるそれから目を離し、プラチナが不思議そうにジェイドを見つめて来る。

「…何だこれは?」

「え?ご希望の抱きまくら…ですけど?」

 笑いを堪えながら言えば、プラチナは「それは判っている」と短く答えてまた視線をそれに戻す。

 白いシーツの波間から顔を出しているのは、淡いピンク色の布地で出来た、ウサギの抱きまくら。

 注文から一週間程で、それは出来上がって来た。

 受け取りに行った店で少し触れてみたが、その出来上がりの良さに、大変満足して料金を弾んだくらいだったのだが、プラチナはどうやら突然現れたそれと、一緒に寝ていいものかどうか悩んでいたらしい。

 ジェイドが近づきベッドに腰掛け、ある程度渇いた髪に適当に絡められているタオルを取り払い、髪を痛めないように丁寧に櫛で梳いていても、触りもしないでじっと凝視している。

「…何でウサギなんだ」

 そう言いながらジェイドに見せる表情は、ただ不思議という様子で。別に抵抗はないようだった。

「可愛いでしょ?」

 それを引き寄せプラチナの頬に当てると、プラチナは押し付けられた抱きまくらにそっと手を伸ばし抱いて、感触を確かめるように頬を摺り寄せる。

 …その姿は、ジェイドが予想していた以上に、凶悪なくらい可愛らしかった。

 幼い子供の姿であれば、それも大変微笑ましいと思う。だが、プラチナの美しい顔と姿で、そんなことをされるから堪らない。

 そのアンバランスさが可愛らしいのだ。

 それに予想以上に似合っていて、顔に掛かる髪を指で払ってやりながら、思わず顔が綻ぶのは、許して欲しいと思う。

「折角のプレゼントですから、布地も中身も、本当にいいものばかりで仕立てたんですよ?」

 中には、良く眠れるようにブレンドされたハーブも入っている。

 気持ちいいでしょう?と表情を覗き込みながら問うジェイドに、枕を抱いたまま気持ちいいのだろう、自覚はしていない様子で淡く微笑みながら、プラチナはこくりと頷く。

 その様子に、ジェイドも満足して微笑んだ。

 本当に他愛ない事だが、それでもプラチナが喜んでくれれば、いい。

 こういうことを続けていって、そのうちプラチナの方から甘えて来てくれるようになれば、もっと良いと思う。

 こんな他愛ない事で、幸せになれる自分自身にも驚いているが、仕方が無い。

 恋愛なんて、馬鹿で暇な奴しかしないと思っていたのに。逆だった。

 恋愛が、ジェイドを馬鹿な生き物に変えてしまうのだ。

「気に入って下さいました?」

「……ん…」

 しかしプラチナはウサギから頬を離し、それを抱いたまま身体をずらすと、唐突にジェイドの胸に顔を埋めて頬を摺り寄せる。

 突然の事に、ジェイドは髪を梳く動きを止め、プラチナを見つめた。

「…プラチナ…様?」

 ゆっくりと紡がれたジェイドの言葉に、プラチナは何度も感触を確かめるように頬で触れていたが、徐に顔を上げ、ふわりと微笑む。

「これも気持ち良いが、やっぱりお前が一番気持ちが良い…」

 そう言うと、プラチナはもう一度ジェイドの胸に頬を寄せ、ぎゅ、と抱きつく。言葉通りに、気持ちが良いといわんばかりに。

 その仕草に、不意打ちで嬉しいのに、らしくもなく緊張している自分がいて、ジェイドはプラチナに悟られないようになるべくその緊張を隠そうと、努力した。

 抱きついてくるプラチナを、そっと抱き返す。

「そう…ですか?」

「ああ。それに…お前の匂いは落ち着くし…、良く眠れる」

 気持ち良さそうに微笑みながら、見上げて。

「これはお前がいない時に使うことにする」

 そう宣言すると、抱きついた形のまま、ジェイドの首筋に顔を安定してしまう。

 どうやら、この不自然な体勢のまま、眠ってしまうつもりらしい。

 ジェイドの心を見透かしたように、突然のプラチナの甘えた行動に苦笑しつつも、そっと、ジェイドは抱きついたプラチナが寝やすいようにプラチナの体を支え、自分の身体をベッドの枕に埋もれるように横に倒していく。

 プラチナは抱き締められたまま、大人しくしていた。

 先程まで櫛で手入れをしていたプラチナの髪に手を伸ばして、プラチナが眠りにつくまでこのままでいようと思い、手にくるくると絡ませて弄ぶ。

「……ジェイド」

 顔は上げないまま、プラチナが声を掛けてくるが、早くもうとうととし始めたらしく、言葉も囁くようなものになる。それに答えるジェイドの声も、プラチナの耳に囁くものになって。

「はい?」

「ありがとう…」

 どういたしまして、と答えれば、プラチナはまた頬を摺り寄せて来る。

「ジェイド…」

「何ですか?」

「…大好きだ」

――…えっ」

 プラチナが、ジェイドにこうもはっきりとそう言ってくれる事は滅多に無い。

 何か他の言葉と聞き間違えたかと、慌てて身体を起こしプラチナの顔を見るが、囁きながら瞼も次第に下りてしまって、プラチナはジェイドの腕の中で、あっという間に眠ってしまった。

 言葉の余韻も、何も無く。

「プラチナ…様?」

 軽く頬を突いても、一向に起きる気配の無いプラチナに、ため息を一つ吐いて。

「…はあ、俺って抱きまくら位の価値しか、ないんですかねえ?」

 腕の中で、すやすやと眠るプラチナの髪を手櫛で梳きながら呟いた声は、不満気だったものの。

 それでもこうして甘えてくれた事に、確かに幸せを感じ、知らず微笑んでいる自分の顔を、ジェイドは自覚していた。

end.