『お前の記憶を持っていけたら良いのにな…』

 そう言った、あなたを忘れている訳ではないけれど、ことあるごとに思い出す。

 目を閉じても

 本を読んでいても

 呼吸する瞬間さえ

 あなたを思い出しては、何も出来なくなる。

 美味くも無い食事を無理に飲み込めば、異物が喉を通り過ぎる感触がする。

 目を閉じれば夢を見た。目を開けて、隣を探った指先に何も感じないことを確認した。

 一緒に読む約束をした、あの本は開く事も出来ずに、でも捨てる事も出来ずに引き出しに仕舞い込んで鍵を掛けてしまった。

 風が凪げば、長い銀の髪を押さえる仕草を、顔を上げてあても無く探してしまう。

 無意識に、距離を取って見えない背中を見ながら、歩く。

 ふと、息を吐いたその瞬間に、この寒々しい部屋の何処にもあなたがいないことを実感する。

 その度に、セレスの嘘には少し感謝する。

 …もし本当に天へ還れていたなら、俺はきっと一年と生きていられなかった。

 ――…ただ、結局俺の寿命を数年延ばしただけになりそうだが。

 生きるための何かしらの行動が、全てぎこちない。

 酷い生活をしている割には、体の方は別に以前と変わらないように思えるが、

 あのお節介なお坊ちゃんが、最近わざわざ朝、声を掛けてくることを考えると、

 あなたは俺が後を追う事は望まなかったけれど、

 それも遠くは無いだろうと思う。

 あんなに別れを惜しんで、気持ちを何度も確かめて、毎日がとても幸せだと思っていたのに。

 それでも足りない。

 何度も何度も抱き締めて、もう大丈夫だとお互いに涙も流し尽くしたのに。

 想像した事が無かった。

 …本当に、あなたが居なくなる日のことなど…

 あなたが居ない毎日のことなど。

 俺が一番、耐えられなかったから、想像出来なかった。

 平気な顔をして作った笑顔で表面を取り繕い、心を隠すことで、精一杯で。

 あれは泣き顔を見せたくないという、ただの馬鹿な見栄だったのか、それともあなたのことを想ってだったのか…。

 現実に訪れたこの時間の中で今でも、あの時の事はよく判らない。

 ただ、必死だったと思う。

 離れたくない気持ちと、離れなくてはならない気持ちの狭間で。

 あなたに例え憎まれてもいいから…生きていて欲しいという気持ちと、自分だけのものに出来ると錯覚するかのような、甘い死を看取る中で。

 あなただけを見ていた。

 どの瞬間のどの仕草も愛しく、あなたを包む空気すらも自分のものにするつもりで、傍に居た。

 細く、冷え切った指先で俺の腕を探り、てのひらを重ね美しく微笑みながら、それでももう自力で体を起こすことは出来なくて。

『この奈落に堕ちたことも…。…俺の事も…全て。…お前の記憶を持っていけたら良いのに…』

 声にも張りは無く、囁く声を聞き取る部屋のその静けさとか、部屋に訪れた深い空気の重さとか。

 どの瞬間も、あなたに関わるすべての記憶は、痛々しいほど体の感覚に残っている。

 …あの時から俺の時間は、止まっているのだと思う。

『そう出来たら…お前はここで、幸せに暮らせるだろう?』

 潤んだ碧眼の眼差しは、直向に…俺だけを映していて。

 その姿は死に行く者しか持ち得ない、ぞっとするような美しさだった。

 今まで何人もの天使や魔人を殺しても…、最期があんなに美しいと思えた者はいない。

 目を離せなくて、その視線を独占していることも感じていて。

『…全部、持っていくから。だから…全て忘れて思い出すな。何も…』

 そう言いながら、冷たい指先は何度も俺の頬を辿って。

 愛撫するように。

 …まるで、俺が泣いていたかのように。

 あれから何度も、考える。

 あなたの居ない世界。

 あなたが、俺にそう望んだ世界。

 ――…その世界で、俺は幸せに…

 …出来ない。

 出来ない。

 奈落に堕ちたことも。裏切った事も。

 あなたに繋がる全てを…どんな酷いことの一筋さえも忘れることは出来ない。

 俺があなたを忘れることなんて、出来ない。

 あなたとした約束はどれも叶えられない。

 全てを忘れて、思い出さない約束も破った。

 生まれ変わるだろう、あなたを待つことも出来ない。

 …幸せになんてなれない。

 俺には、あなたを何度も思い出して…思い返して、愛することしか…出来ない。

 それ以外の何も…

 出来ない。

 あなたの持っていった記憶は、何処に行きましたか?

 それは、今でもあなたのものですか?

 …美しいような記憶と共に、俺もまた

end.