雪融けのとき、と言うのかもしれなかった。
* * *
「花の開くおとというのを、お前は聴いたことがあるか」
「いいえ?」
誰から聞いたのか執務室へ戻ってきたプラチナが、ジェイドの顔を見るなり突然そんなことを問い掛けて来た。
プラチナのそういう行動にはとっくに慣れていたから、正直に答える。
表情にはそんなに強く出さないが、好奇心とも取れる知的探求心が強い彼は、知らないことなどもう何もないのではと思うジェイドの考えを時折否定するように、何か新しいことを知れば必ずこうして訊いて来た。
短気な面もあるから答えはすぐさま自分で出してしまうが、その中でも気になることは周囲の人間へ必ず問う。
主に、こころの話などは。
人を選んで問うのだとは思うが基本的にその役目はジェイドで、彼のその行動は、彼が無意識にでもジェイドのことを知りたいと思っているのだと、言葉以外の部分で知らせてくれていて、だからこそどの質問にも基本的に正直に答えることにしている。
時折、正直に答えるには少々詰まることを訊かれるのには、困るけれど。
「音がするそうだ」
「へぇ、そうなんですか」
プラチナが、部屋の隅の花瓶に飾ってある白い花を見ながら言うのを聞いて、ジェイドはその様を想像してみるが、生憎と聴いたことが無いのでよく判らない。
恐らく、通常では気付かないような、とても密やかな音なのだろうと思う。
「ああでもきっと、あなたのその性能の良い耳なら、聞こえるかもしれませんね」
漸く椅子へと座ったプラチナへ、でも早起きしないと駄目でしょうねぇ、頑張って下さいとからかいを込めて言えば、お前は聞かないのか、と返って来て、思わずは?と訊き返してしまった。
逆に不思議そうにジェイドを見詰めるプラチナの表情に他意は無く、ただひたすらに無垢だ。
「ええ?俺には聞こえないかもしれないのに、早起きに付き合えって言うんですかぁ?」
「ああ」
「…プラチナ様、俺に起こして貰おうとか思ってません?」
プラチナのことだ、その可能性は否定できない。
本当は早起きなどしたくないだろうに。
そう疑いを持ちながら問えば、プラチナは詰まることなく答える。
「あほう。俺一人だったら誰も信じないだろう」
「――…うーん、まあ、そうですけど…」
「それに、いつもお前が起こしに来るということは、俺より早く起きてるんだろう?何か問題があるのか?」
プラチナにそう続けられれば、ジェイドとしては両手を顔の横に挙げて降参するしかない。
「何も問題ありません、陛下。仰せのままに」
* * *
早朝の空気は冷たい。
けれど、昇ったばかりの陽の光に晒され僅かに匂い立つその空気は、清浄だ。
「寒いな」
「そうですね」
暦上では春だと言うのに、先日まだ未練がましく雪が降った空を眺める。
さすがに積もることは無かったが、温度を幾らか下げたのは事実で、プラチナの体調を常に気にしているジェイドには、全くもって憂鬱な存在だ。
奈落の冬は長い、とジェイドは思う。
もしかしたら、奈落での雪の時間が長い気がするのは、あの継承戦争の時のことが体にいつまでも染み込んでいるからかも知れない。
時間が止まったら、と思っていた感情が強く、心の奥底に未だ残っている気がする。
当時、危い均衡の上に齎されていた二人の微妙な関係を、周囲がどのように見ていたとしても。
ジェイドがプラチナを思うとき、それはいつまでも、雪の降る閉ざされた世界だ。
その世界は当然プラチナに温かくは無く、ほんとうの笑みなどけして得られはしない。
プラチナの『世界』に、雪融けのときが訪れるのは、いつのことだろうと思う。
早く、ほんとうのしあわせを、彼に。
そんなことを自分が願うのは、不相応だろうか。
中庭にある池の周囲に用意された散歩道をプラチナと歩きながら、花の開く音はともかく、こういう朝も良いかもしれない、と思った。
普段は興味も持たない中庭の様子を眺めながらただ、何も考えずに歩くのも、穏やかに短い会話をするのも、プラチナには今まで有り得なかったもの、彼に足りないものだ。
少しずつでも、こんな風に過ごしていったら。
…いつか。
プラチナに、ほんとうのしあわせが訪れるかもしれない。
それはジェイドの作り上げた『世界』を壊すことを意味しているが、プラチナにジェイドの作った小さな世界など、元から必要無いのだ。
たとえば、それが、プラチナとの新たな別離になるかもしれなくても。
いずれプラチナにジェイドが必要なくなることは、そう遠い未来ではないだろうと思う。
プラチナに雪融けのときが訪れるのならば、それでいい。
ジェイド自身に雪融けのときが訪れなくても、それは自業自得といえるものだから。
それが、贖いといえるものだろうから。
ひそ、と空気が動いた気がしてふとそちらへと視線を遣る。
次にはぱちり、という音。
いつもなら葉の揺れが起こす摩擦の音だと思い、そのまま無視するようなその細やかな音は、目の前で花が緩々と時間を掛けて開いていく様を目にして、漸く花の開く音だと認識される。
「…ほんとうだ」
小さく呟いた声がジェイドの耳に届いて、プラチナを覗い見れば。
プラチナが、笑んでいる。
その笑みに何か特別なことがあった訳ではない。
それはいつもの彼らしい、僅かな微笑だった。
それでも、ジェイドはただ見詰めることしか出来ない。
プラチナの微笑みに対して、こうも心の震えに動揺し動きが止まったのは、きっとあれが、
――…プラチナのこころからの笑みだったからだ、と思ったときには、振り返った彼は相変わらずの表情であったから、あの笑みはどれくらいこの世界に存在したのかと思う。
この世界の時間を思えば、ほんの瞬きの間の出来事。
(――ああ、彼は、彼には……)
言葉にならない感情が、ジェイドの胸に訪れる。
もしかしたら、自分は今この瞬間を待っていたのかもしれない、とジェイドは思う。
たとえ、その瞬間は誰にとっても些細で不確かな一瞬であったに違いなくても。
ジェイドの心に残る何かを奪い、そして綺麗な別の何かで満たしたその短い時間の名前を、
end.