夕刻時間を知らせる鐘の音が、城の少し外れにある塔から響いてくる。
その音につられるようにして、ふと窓の外を眺めて動きが止まった。
――…ああ、何て色の空だろう。
既に日は落ちているのに、その色は今だ空を染める。
濃い赤とも思える橙色が、空を埋め尽くしている。
さっきまではくすんでいても確かに青だったと言うのに。
「今日の夕焼けは一段と、鮮やかですね」
思いがけない背後からの声に、空に見入っていたプラチナの肩がびくりと震えた。
気配もなく自分の背後に立てるのは、そこまで許しているのはジェイドだけだと判っているのに、余りの不意打ちに、心まで震えた気がした。
こんなことは初めてで、またどきりとした。
振返ることも出来ない、そんなプラチナの様子を見て、ジェイドは微かに微笑む。
「……怖いんですか?」
「怖い?」
怖い?
何が。
どう反応していいのか、判らずにそのまま隣に立ったジェイドを見返すと、ジェイドは淡く微笑んだまま、重ねて問う。
「じゃあ、寂しい?」
寂しい?
…いや、寂しいと言うより…
「…判らん」
自分の心が感じたことを、言葉で表現するのは難しい。
特に、この何とも表し難いものであれば。
ふと、身体の横におろした状態の右手の先に、触れる物があった。
何かと認識する間もなく、それに指が絡め取られる。――ジェイドの掌に。
「この季節の夕暮れは、特にそんな気持ちにさせるものですよ」
空気が冷たいからでしょうか、と言うジェイドの握る手の力は、強くもなければ弱くも無い。
だが、確かに繋がっている。
…共有しているのだろうか。
隣に立つジェイドも、同じ気持ちなのだろうか。
生憎それは、手を繋いだ程度では、判らないけれど。
それは、言葉で伝え合っても、本当は判らないけれど…
「俺はね、あの辺の色が好きですよ」
青色と、淡く薄い橙色と虹色の交差した、柔らかい色を指して言う。
「何だかキレイでしょ」
そうだな、と頷いた。
濃い赤のような橙色の端に残る、優しい色。
いずれは、空のあの部分も赤い色に染まる。
「これからもっと寒くなりますね」
「…ああ」
どこか上の空、という感の否めない返答をしてしまう。
それを打ち消すように、なるべくいつもの声音になるように意識しながら、言葉を継いだ。
「また、雪が降るだろうな。酷い災害にならないといいが」
「そうですね」
ジェイドの返事もまた、どこか上の空だ。
ジェイドと自分は決して同じ気持ちを共有できない。
同じ人物ではないから、言葉で伝え合って確認したとしても、同じものを思っていても、その度合いとか深刻さとか、それは決して同一にはならない。
信じるしかないのだ。
例え同じモノを同じように感じることはなくても、お互いに互いを信じている限り、お互いを想う気持ちが傍を離れることは無いのだと。
…何故。
何故、こんな事を考えたのだろう。
迷ってはいない、疑ってもいない。
とっくの昔に、理解していたことだ。
どんなに長い年月が経とうとも、その中でもしかしたら遠い場所へ離れることがあったとしても。
想いだけは傍に、確かに繋がっているはず。
今、繋いでいるこの手のように。
互いに分け合う、体温のように。
繋がる指の力を少しだけ強くして、呟いた。
「…凄い色だ」
空にあんなに赤い色があったのかと思うほど。
鮮やかな色が美しくないわけではないけれど、
ああ、何だかまるで…――
「プラチナ様」
突然のジェイドの呼びかけに、手はそのままジェイドの方を向いた。
視線が合って、ジェイドは笑みながら問う。
この時の表情は見慣れている。
主にプラチナをからかう時の表情だ。
「雪が溶けると、何になると思います?」
…まさか、ヘンな心配をされているのだろうか、自分は、とプラチナは思う。
何だろう、この初歩的な質問は。
水が氷になる話でもないだろうに。
「水だろう」
言葉遊びならごめんだ、という気持ちでジェイドを睨めば、いつものように笑んで見せる。
だが。
そのジェイドの口から発せられた言葉に、思わず身体の動きが止まった。
「――春になるんですよ」
思わず、夕焼けの色など忘れてジェイドの顔をまじまじと見詰めた。
「…意外と詩人だったんだな、お前は」
「これくらい普通です。プラチナ様の情緒に問題があるんですよ」
問題がある、と言われても困る。
その言いまわしにこそ問題はないのか。
「さっきから、何が言いたいんだお前は」
些かむっとして強い声でジェイドを睨むと、ふと、ジェイドは目を伏せるようにした。
夕焼けの色も、プラチナの顔も、見るのが辛いかのように。
「…こんなものを見た日は、強く思います。――…あの時必要だった、あなたから感情を表す言葉を奪ってしまったことと…与えるべきものを与えなかったことを…」
不安とか、寂しいとか、怖いとか。
そういうことを、口に出来ないように過ごさせた、と、あの継承戦争の時をジェイドは何時までも気にする。
きっと、これからも、ずっと。
「いつも、どうすればあなたの為になるのか…あなたの言葉が返せるのか、考えているんです」
自嘲気味に、力なく微笑む姿は、ジェイドらしくなかった。
あの時のことは、もう、如何でもいいことだ。
そんなに考えるな、と言ってもジェイドは受け入れない。
謝れば良いってものじゃないんですが、と苦笑しながら、それでも。
「…すみません」
そう、口にする。
何を謝るのだろう。
別に、謝って欲しかったわけではない。
違う。
ジェイドに謝らせたのは、あんな表情をさせたのは、自分だ。
そう、プラチナは思い至る。
プラチナがただ赦そうとするから、ジェイドは謝らなくてはならないのか。
赦されれば、ジェイドは自分の罪の贖いをする事が出来ない。
贖いは、ジェイドが己を赦すためにすることだ。
救われるために。
赦さなければ、罪のままでいれば、ジェイドはただ贖うことが出来るのか。
ジェイド自身が思う方法で贖ってから、赦されなくてはならないのだ。
ただ赦されるのでは、ジェイドは自分を赦せないのだから。
間違えてはいけない。
二人が、これからもこうして共に過ごす為にも。
「謝って欲しい訳じゃ、ない…」
そう、口にしたものの、継ぐ言葉が見つからない。
この気持ちを、何という言葉で伝えればいいだろう。
それが判らない。
もどかしい気持ちで視線を窓の向こうに移せば、既にジェイドが『キレイ』と言った部分は赤く染まっていた。
その色を、知らず目を細めて見詰める。
――ああ、何て色の空だろう。
まるで、世界の終りみたいだ。
end.