「おい。どしたよ健二、えらくオトコマエになって」

 夏希先輩の取り合いでケンカでもして来たのか? と首を傾げる佐久間がとん、と人差し指で自分の口の端を指し示す、それにイヤでもひりつく痛みを実感して、顔をしかめる。

 どうした、だって?

 こっちが訊きたいよそんなこと。

 ため息が出て体中が脱力感に包まれる。

「……噛みつかれた」

「ハァ!? 噛みつかれるって、何にだよ。犬?」

「犬なら、別に問題ない…」

 だって犬ならスキンシップだ。事故だ。でもあれは違う。

 思い出したらくらりと目眩がして、とっさに額を押さえて食堂の机に突っ伏す。思い出したくないのに、切れた口の端がじわじわ主張する痛みで一時も忘れることを許さない。口の端はデリケートだから、うっかり出血を繰り返してなかなか治らないというのに! ああ、もう、

「兎が草食動物って言ったの誰だ…!」

* * *

「健二さんって、本当に夏希姉が好きなんだ?」

 5月の大型連休を使って、臨時の家庭教師として名古屋の池沢家にお邪魔しているその四日目。翌日には帰る為に大詰めをしている最中、唐突に言われた言葉に、健二は息継ぎを間違えた挙げ句気管に入って思いっきり咽せた。

 前触れもなにもなく突然の話題を振られて、大学一年という立場になっても相変わらず恋愛系に対して免疫の低い健二は、咳込んで言葉が上手く出ないので更にテンパった。健二は大抵突発的事項には非常に弱い。あの夏なんてOZの保守点検のバイトをしていたというのに、いざ自分が困る方になるとサポートセンターへの連絡すら思いつかなかった。

 年下だというのにとても大人びた(今ではその精神に外見も伴って来た)佳主馬に相変わらず「落ち着きなよ、落ち着きなって」と言われてしまう。いやでも、この場合は佳主馬がこうなることは判っているくせに、健二にいきなりその話題を振るからじゃないだろうか。前から佳主馬は時々、思い出したように訊いてくるけれど、大抵前触れはない。

 何とか落ち着いて来た健二が生理的に滲んだ涙を拭いながら、佳主馬を振り向いて答えた。

「…大好き、だけど」

「ふうん…」

 いつもと同じ答えを聞いた佳主馬が、首を傾けるとシャープペンを軽く顎に当て目を眇めるのに、健二も首を傾げる。

「あの…、何でそんなに疑わしそうなの、かな?」

「だって健二さん、二年前と変わらないから」

「え、いや、これでも結構変わったと思うんだけど…」

 確かに夏希とは奥手同士、進展はあるようでないような相変わらずの感じのまま夏希は異国の空の下だけれど、少なくとも、二年前の自分に臨時の家庭教師を立候補したり、名古屋までわざわざ来たりするバイタリティというか積極性はなかったと思う。上田で色々学んでこれでも成長したのだ。

 そりゃあ、一年間に十五センチとか二十センチだとかいう恐ろしい数字をはじき出すような成長期真っ直中の佳主馬のようには、目に見えないかも知れないけれど。

 健二の返事に、頬杖を付いた佳主馬がじっ、と健二を見据える。

 佳主馬の瞳は会った時からとても澄んでいて物凄く強い。健二はその目に見られるといつもたじろいでしまう。別にやましいことはしていないのについ、すみません!と咄嗟に正座して謝りたくなる。さすがカリスマ、さすがですキング。

「そうじゃなくて。あの夏の前に、夏希姉が手に入らなかったら、追いつけなかったら、誰かに取られたら、ってがむしゃらに焦ったり、」

 言葉を句切った佳主馬はずい、と健二の方へと顔を覗き込むように身を傾けて。

「気が狂いそうになったこと、ある?」

 そう、言った。

 自分を見詰める黒い瞳の中、ちり、と走る鋭い雷光が見えた気がして、健二は瞬く。そうして耳を疑った。今まで夏希とのことは話題に出されても、そういう、突っ込んだところというか、感情面の話は一切されたことがない。しかも気が狂うって、そんな。

――は…?」

「夜眠れない、はありそうだけど。何かの隙間に思い出すんじゃなくて、寝ても覚めても何してても思い出す、はどう? ある?」

 健二さんはどっちかって言うと、数学の方が頭から離れなさそうだけどね。

 ふい、と健二から視線を逸らしてテキストに向かった彼が、問題を解きながら何でもなさそうに言う。

 次々に言われる言葉に付いていくので精一杯で、なんて言葉を返していいか判らないまま見守る健二の視線の先で、方程式を当てはめ、解して答えを導き出して行くその途中、佳主馬の手はやっぱり前触れもなく突然動きを止め、シャープペンを放った。

 細身の青いラインがころころと数式の上を転がって、健二のところまで届く。それを拾って佳主馬に渡そうと向ける、その腕を健二よりも逞しい印象を受ける手に捕られる。

「か…ずまくん?」

 腕じゃなくて、シャープペンの方を取って欲しいんだけど。そういう視線で佳主馬を見れば、さっきよりも瞳の彩が強くなった気がした。

「頭だけじゃなくて健二さんの存在全部が夏希姉だけで構成されてるようになって、考えないようにしたって頭からどうしても離れなくて、夏希姉の声が聞けなくて顔が見られなくてもどかしさに叫び出したくなったり泣きたくなったり、夢の中で酷いことしたり、そのせいで目の前にしたら触れるどころか目も合わせられないとか、あった?」

 死にそうな気持ちになったことは?

 言葉を重ねる佳主馬は健二を見詰める。

 佳主馬の目は健二の顔を見ているのではなくて、健二の目を直接見ている気がした。長い前髪をさらりと流して耳に掛け、そうして両の目で奥の方、こころの内まで透かしてしまいそうな、熱を孕んだ光を弾く黒い瞳が健二を見ている。

 ――これは、誰だろう。

 あれ、佳主馬くんに勉強教えてたはずなのに。おかしい。この、目の前にいる男のひとは、誰だ?

 そうだ。そうだった。

 佳主馬はもう、女の子に間違われるような体型からは脱して、もうそろそろ健二を追い越してしまいそうなすらりと伸びた四肢をして、ちゃんとさぼらずに少林寺拳法を続けているから健康的に焼けた肌や、鍛えられて凜とした体を持っている。変声期を迎えて掠れ気味の声は今の段階でも充分魅力的で、顔立ちだって女の子っぽいから、と揶揄われて悩む時期は小学生までだ。成長した今じゃそれは孔雀の羽根と同じ、異性を惹き付ける為の立派な武器で、実際目の前の彼はご近所さんじゃちょっとした有名人らしい。バレンタインには学校で渡されるだけでなく、女の子が家まで尋ねて来るのだ! 何人も!

 彼はもう、男の子、じゃない。男のひとになってしまったのだ。健二は知らなかった。いつだって、佳主馬は健二の中で『年下の格好いい男の子』だったから、気付かなかった。

 それを今、やっと、思い識った。

「夏希姉のこと大好きって気持ち、あんた子供みたいによく言うけどそれって、本当に俺と同じもの?」

 彼は、恋をしている。

 子供の『好き』じゃない、恋愛をする、年齢になった。

「健二さんも、俺と同じように苦しんでた?」

 腕に食い込む、佳主馬の指が痛い。この痛さは佳主馬が感じている苦しさなのだろうか。

 健二は何も言えなかった。何が言えるだろう。健二はこんな焦がれ方をしたことがない。こんな風に、追い詰められたように捨てられない想いを抱えたことが、ない。絶望を匂わせる恋を知らない。

「同じじゃなかったら、俺のこれは何? 何で俺は、こんなに、苦しいんだよ。苦しくて、熱くて俺じゃないみたいで、あの時のあんたみたいには、いられない。ムリ。傷つけたって手に入れたくて離したくなくて、でも嫌われたくない。嫌われたら俺もう生きていけない。声聞くだけで名前呼ばれるだけで、いつだって頭が変になりそう」

 そうして彼は瞼を一度閉じて、呼吸を呑むように言葉を止めた。少し俯いて耳に掛けていた艶やかな髪が落ちる。その様が目に映って、あ、と健二はこころの中で呟いた。

――それとも俺、とっくにもう、どっかおかしいのかな」

 くしゃりと歪む佳主馬の表情に、健二の胸は切なく痛む。

 彼にとってはとても苦しいのだろう、けれど。目が離せない。なんてことだろう。なんてことだ、彼は、とても。

「…佳主馬くん」

 人間の間には数学のようにはっきりとした一つの答えがある訳じゃないけれど、今この時は自分が求める答えのようなものが脳裏を閃いたので、健二は口を久しぶりに開く。

「ぼくは確かに、きみと同じような気持ちで夏希先輩のことを想ってはいないと思う。どれが正しいとか、どっちが愛情が深いとか、そういうのもぼくには判らない。でも、きみのどこかがおかしいとは思わないし、ただひとを深く愛すことが出来るだけで、だから」

 恋をするきみは凄く綺麗だと、ぼくは思います。

 健二の呼び掛けに疲れた様にゆるゆると顔を上げた佳主馬は、その言葉を聞いて目を瞠った。そして未だに離さない健二の腕を掴んでいる手はそのまま、空いた手でぐしゃりと自分の髪ごと顔を覆ってから。

「ああ、もう、あんたってホント、」

 食っちまいたい!

* * *

 たぶん、あれはキスじゃない。ノーカウントのはず。そんな甘酸っぱいものじゃあなかった。あれは本当に噛みつかれたのだ。

 形のいい白いエナメルが、健二の唇、一番体の内側に近い敏感な部分に直接触れた、その瞬間走った感覚が痛みとともに蘇る。それから林檎に、桃に歯を立てた時のように熱く潤んだ舌が触れたのも。

 食べ、られそうに、なった。

 食べるってなんだ。ひとに噛み付きたいと思う、その衝動はどこから来るものなんだろう。普通に考えて、なにそれあり得ない、と思うのに。

 驚いて見開いた健二の網膜に、焼き付いたかのように残る佳主馬の顔。薄く閉じられた瞼の向こう、目が合って驚いた。ものすごくまっすぐで、酷く凶暴で、そして熱っぽくてたまらなく色気があったその目に見詰められ、どくんと脈が乱れた瞬間、胸に熱い何かが染み込むようにじわりじわりと広がっていく。それに更に驚いて戸惑っているうちに、かぷり。

 そうして出来た傷を舌で撫ぜて、血まで舐め取るとか、色々あり得ないんじゃないかな、と健二は混乱極まった頭で思う。

 何あの中学三年生。将来が怖い! なんだあれ、彼のあんな熱を誰が、受け止められるって言うんだ!

 とても熱くて苦しいものを彼は、いつの間に、いつから、抱えているのか。

 そして、何故それが健二に噛み付くことになるんだろう。行き場がないから? というより結局佳主馬が誰に恋をしているのか、知らないままだからどうしようもない。そう、どうしようもない熱を健二に渡されたって、困る。

 健二だってどうしたらいいのか判らなくなって思い出すたび、恥も近所迷惑もなく、うわあああと悲鳴を上げながらのたうち回りたくなる。というか独りの時は思い出す度に正気じゃなくなる。既に家のクッションはひとつが瀕死の状態だ。たぶん今日の夜には死亡。何故ならさっき来月キング来訪・宿泊予定のメールが届いたので。理由は仕事と、OZで教わるより直接会った方が勉強の理解が進むから。OZ経由で少林寺拳法を習った流れでOMCチャンピオンになった人間が、どの口で言う!?

 こんな状態でどんな顔して会えばいいのか、誰か教えて欲しい。何より受験生ってそんなに自由でいいの!? 確かにまだ夏前、本番には遠いけど!

 それにしても、目の前で悩んでるこっちのことなんかスルーして暢気に雑誌片手に麺を啜ってる佐久間が憎い。親友よりもバイクか、バイクパーツなのか!

 寝ても覚めても何しててもきみのことばかり。

 ああもう、気が狂いそう!

「…佐久間、兎に食べられない為にはどうしたらいいと思う…?」

「あー? お前、兎とか飼ってたっけ?」

end.