「おにいさん」
あの夏に出会ってから、佳主馬にそう呼ばれるのがとても好きだ。
なんと言っても自慢の弟が出来たみたいだし、健二よりしっかりしている弟に仕方がないなと世話を焼かれているようでもあるし、それでいて頼られているような気もするし、理由はなくても一緒に居ても良くて、友達よりも距離が近い。兄弟が欲しかった健二にとって、それはもう胸が温かくなってくすぐったいような、しあわせな気持ちにさえなる魔法の言葉だ。
声変わり前の耳を心地よく通るアルト、起伏の少ないリズムで少し素っ気ないように響く。でも含まれる温度は優しい。そんなことで、ああ男の子なんだなあ、と健二はいつも夏希とは違う目映さに眼を細める。これから成長していく彼を思うと、健二は羨ましさよりも楽しみでどきどきした。
健二を「おにいさん」と呼ぶ佳主馬は時々、健二の背中に背中を合わせたり、背中に寄り掛かって腕を腹に回してきたりとそういう本当に兄弟みたいなスキンシップをしてくることがある。
妹が産まれるまでは健二と同じ一人っ子で、そういう接触はあまり慣れてそうな彼が、周りに人がいないようなふとした時に健二の手や膝に触れたり、肩や背中に額を、頬をすり寄せたりと、どこかしら体の一部をくっつけて甘えてくれるのが、こころを許されたみたいでとても嬉しかった。
そうやって過ごして数年。今でも相変わらず佳主馬は「おにいさん」と健二を呼んでくれる。
でも、何というか。最近は少し、困る。呼ばれるのが嬉しいのは変わらない。でも困る。
彼が立派に成長したからだろうか。
佳主馬は本当に格好よく成長した。元々その片鱗は出会った時からあって、この子は成長したらどうなるんだろうと思っていたけれど、それはもう、佐久間も「なにその劇的ビフォーアフター」と呆然として言うくらい、背はすらりと伸びて健二など彼の高校入学とともに追い抜かれたし、立ち姿は少林寺拳法を嗜んでいるからか凛としてるし、筋肉もしっかり付いててお腹だって割れてる。体脂肪率が10%切っていても健二は驚かない。リアルキング・カズマだ。
頭の回転は中学生の頃から良くて、表に出ない優しさを持っていて、クールだけれど胸の内には間違いなく陣内の熱い血が流れている彼の顔は文句なしのイケメン、髪の毛は濡れ羽色でツヤツヤのさらっさら、全く文句のつけようがない。
トドメはあの、声変わり前の透き通ったアルトが、魅力的なテノールに変わったこと。もう、OZでのボイスチャットで初めて聞いた時は、思わず「きみ、ホントに佳主馬くん?」とおそるおそる訊ねて怒られたくらいだ。「おにいさんが僕ともっと頻繁に会わないから、ちょっとした変化で判らなくなるんだ」、そう言われて、そうなのかも、と反省した。だって血の繋がった兄弟は離れていてもすぐ判るって言うじゃないか。健二は擬似だけれど「おにいさん」と呼んで貰っているのだから、と健二は素直に反省してそれから佳主馬と会う機会を増やした。
高校一年生になった佳主馬はその何とも言えない声で、以前よりもっと優しい響きで「おにいさん」、と健二を呼ぶ。
呼ばれるのは本当に嬉しい。嘘じゃない。でも最近は本当に困るのだ。
呼ばれる度、気恥ずかしいような、いたたまれないような、こう、何とも言えない気持ちが胸を熱くして込み上げてくるのは何故だろう。
どこか甘やかに聞こえる音を耳にした途端、そわそわして落ち着かない。照れる、と似ているようで少し違うなにか。
そこに何故かセクシャルな響きを感じ取って、どきっとすることもあった。
声に色気、があるのだと思う。耳を震わせる声音が、声音に含まれる何かが不快ではなく背筋をぞぞと痺れさせる。声だけじゃなく仕草にそういうものを感じることもあって、健二にはとてもそんなものはないから、たじろぐやら、戸惑うやら。
思い返せば彼は少年の面影が強い時から女の子と間違えられるような、どこなくそういうあやうさを持っていて、それが成長してあれほどの艶っぽさになったのかと、納得もするけれど。
「おにいさん」と呼ぶ佳主馬が外見以外変わったとは思えないから、きっと健二がおかしいのだ。胸も耳も熱いからその辺りが変なのかもしれない。
「おにいさん」、その言葉が佳主馬の口から零れる度に、なんだかとても大切にされてるみたいな、そういう錯覚を覚える自分がとてつもなく恥ずかしい。いや、確かに家族として大切にされているのだけど、そうではなく。そういうのは、佳主馬くんの将来の彼女が感じる彼の優しさであって、ぼくじゃないだろ!とセルフ突っ込みをするのが非常にいたたまれない。これが男がする勘違いとか恥ずかしすぎる。
佳主馬はとても優しいから、ダメすぎる健二を見かねて、年下の子供のように優しく呼んでくれているに違いないんだ。その扱いを無意識に感じ取って、気恥ずかしくなっているんだ、多分。そこまで考えて、更に落ちこんだ。ぼくはダメなおにいさんです…。
「おにいさん?」
思考の果てに落ち込んだのが判ったのか、背中側、脇から健康そうな褐色の肌の腕が伸びて来て、健二の腹の前で交差する。引き寄せられた健二の背中は彼の胸にぴたりと合わさって、佳主馬は後ろから顔をのぞき込んで来た。
会う機会を増やした結果、仕事で東京に来る佳主馬が健二の家に泊まるのもいつものことで、健二の家は相変わらず人がいないから、彼はやっぱりスキンシップをしてくる。大きくなっても甘えてくれるのは嬉しいけれど、でもそろそろ、その役目はまだ見ぬ彼女さんにお譲りした方がいいんじゃないかと、イケメンを独り占めする罪悪感に健二は考える。でもそれはまた今度にして、今日こそは、言ってしまおう。じゃないと健二が自分自身のイタさに耐えられない。
「あの…あのさ、佳主馬くん」
佳主馬を傷つけずに、どう告げるのがベストか。悩みながら言葉を探す。佳主馬は全然悪くない。悪いのは健二のどこかだ。
「なに?」
「ぼくのこと、…その、『おにいさん』って呼ぶの、変えない、かな?」
振り返るには姿勢がつらいので顔は見ないまま、目の前にある逞しい印象になった腕を見ながら言えば、佳主馬は無言のままその腕にぎゅ、と力を入れた。薄い腹部が圧迫されて苦しい。力もこんなに強くなって…本当に大きくなったなあ、と苦しみながらしみじみしている健二の耳に、佳主馬の不機嫌になった声が聞こえた。
「…どうして? 僕にそう呼ばれるの、嫌になった?」
「嫌じゃないよ!すっごく嬉しいし、好きだよ! だけどさ、もう佳主馬くんぼくより立派になったし、」
「僕が『おにいさん』って呼びたいのは、おにいさんだけだよ」
慌てて首を振って否定すれば、首の動きを止めるかのように佳主馬が右肩へと顎を乗せて来た。声の不機嫌さは消えていて、やっぱりとても柔らかい感触で届く優しい響きを間近で聞かされるのはたまらなく、恥ずかしい。耳がくすぐったいような気がするし、ちょっと、こう、ぞくんと体の中を何か、が走る。全身が熱風を浴びているかのようにかっかと熱くなる。
この体勢はいけない、と佳主馬の手から逃れるために暴れ出すのを、いとも簡単に彼は押さえ付けてしまう。
「暴れないで、危ないから。大体なんで今更、そんなこと言い出したのさ」
「いっ、いや、あの、ですね! なんか最近、呼ばれるのが、ちょっと、なんていうか…」
言葉を耳が知覚した途端、声音に含まれた彼が本来持つ優しさや擬似兄である健二に向ける甘えを、過剰に受け取っているんじゃないだろうか。それで自分が大切に、特別に思われているかのような錯覚を感じているのではないか。どうしてそんなことになってしまったのかは全然判らないけれど、混乱するのもいたたまれなくなるのも、もう限界。
本当に、自意識過剰が嫌だ。佳主馬が悪いわけじゃない、変な風に受け止める健二が悪いというのに、呼び方を変えてくれと頼むのは凄くわがままだ。
健二が自己嫌悪に陥っていると、その様子をずっと見ていた佳主馬がおもむろに口を開く。
「判った。名前で呼んでもいいよ」
「ホント?」
「ん」
さっき、話題が出た時の不機嫌さはもう戻ってこない。それにほっと安堵の息を吐く。
名前だったら違うかも知れない。違う言葉になれば、間違って過剰に受け取ることもないんじゃないだろうかと思う。変なクセが付いてしまったのだ。とりあえず、『おにいさん』じゃなければいい、はず。たぶん。
そう思っていたら佳主馬が機嫌が悪いどころか、上機嫌に入るだろう、珍しい声で告げた。
「でも、そしたら僕、もう弟じゃないよね?」
「え…」
冷や水を浴びるってこのことだ。
今まで気恥ずかしいとかいたたまれないとか考えていたクセに、それどころか今まで自分なりに大切にして来た繋がりが一気に失われることを考えて、衝撃を受けると共にざっと血の気が引く。
「えっ、ええっ!? 佳主馬くん、ぼくの疑似だけど弟、って、本当は嫌だった、の、かな…?」
「それが嫌なのは、呼んで欲しくないって言ったのはそっち。あんたの方」
それは確かにそうなんだけど!
そう返そうとして、でもその言葉は彼の腕が手慣れた感じで強引に健二の体を反転させたことで言えなかった。急な視界転換に驚いている内に、真っ正面から向き合う形になる。健二の目の前に佳主馬のシャツの胸があって、見上げるとそこには機嫌が大変よろしい感じの佳主馬の貌があった。
こんなに近くても美形だと思えるのはホンモノの証拠だ、と以前直美が間近で佳主馬の頬を両手掴んで言っていたのを思い出す。確かに、佳主馬はホンモノだ。
いや、今重要なのはそこではなくて、健二にとってはとても、身を切られるように辛いことを言っているのに、機嫌が良いなんてどういうことだ。やっぱり本当は弟扱いが嫌だったんじゃないか。そう言おうとして、ふ、と違和感を感じて瞬いた。なにかがおかしい。
――あれ。
こんな距離で佳主馬の貌を見詰めたことがあったかな、と考えて、いやないな、と健二は即座に首を振る。
よくよく考えてみれば、スキンシップは色々して来たけれど、子供達と違って正面に向き合ったことは今まで一度もないことに気が付く。佳主馬の手は健二の背中側、腰で固定されていて、あのうこれはどっちかというとカレシカノジョの距離じゃないでしょうか佳主馬くん、と健二の思考がのろのろ至ったところで、佳主馬が言葉を続けた。
「だってそうだろ。名前で呼ぶなら、それにふさわしい立場になるものじゃないの、普通」
「兄弟は?」
そう訊けば全然違うよ、と返って来た。寂しい。とてつもなく寂しかった。かくりと力を失って健二は俯く。健二なりに大事にして来た繋がりを、今、自分の手であっけなく失ってしまったのだ。呼び方が変わるだけで、ずっとその関係は変わらずにいられると勝手に思っていた。
「もう兄弟はダメなんだ…」
「だって兄弟は、名前で呼んだりしない」
「ああ、そうだね。そうだよね…」
佳主馬に「おにいさん」と呼んで貰えるのが好きだった。
健二をしあわせにしてくれる魔法の言葉は、もう二度と聞けない。自分から手放してしまうなんて、本当になんて迂闊なんだろう。あんなに恥ずかしいいたたまれないと思っていたクセに、いざ失ってしまえば未練がましくて仕方がない。
いや、でも良い機会だと思うことにしよう。佳主馬だって手の掛かる兄よりは彼女を手に入れて良い頃だし、健二も佳主馬に頼るのはやめて、しゃんとしなくては。
――でも。
擬似兄弟じゃなくなったら、もう夏希とはプラスでもイコールでも表すことはない健二と、佳主馬の繋がりはどうなってしまうのだろう。歳の離れた友人か。それは今までの距離に隙間を無理矢理空けられた感じで、とても寂しい。
ふさわしい立場、と佳主馬は言った。健二は落ち込んでいた顔をおずおずと上げて佳主馬を見る。そしてずっと健二を見ていたのだろう佳主馬と、視線がかちりと合った。
「ぼくときみの、ふさわしい立場、って?」
健二が問い掛けると佳主馬は視線を合わせたまま、淡く微笑み目を細める。まるで慈しむようなその表情に健二の頬は勝手に血をのぼらせて、体は跳ねて、未だに佳主馬の腕が腰に回されているのを、近い距離を意識した。
そうして一人だけ上機嫌な彼は視線を逸らさないまま、口を開く。
「それはとりあえず、呼んでみたら判ると思うよ。ね、」
健二さん。
まるでとっておきの、大切に仕舞い込んでいたたからもののような温度で囁かれた瞬間、健二の頭は「おにいさん」と呼ばれた時とは比べものにならないほど、ヒートした。
end.