この事件が始まってからずっとそうで、最後の最後、佳主馬を、キング・カズマを立ち上がらせたのは、やっぱり彼だった。
何度パスワードを変更され暗号を変えられようとも諦めずに立ち向かう彼に対して、佳主馬はどうだったか。ノートパソコンを抱えて避難しようとしていた。いくら彼が『負けてない』と言ったって、役目はもう終わったと思っていたし、アカウントが、アバターである【カズマ】が戻って来たって満身創痍、もう使い物になりやしない、出来ることもない――そう勝手に判断していた。諦める以前の話、出来ることを模索しようともしない、完全な思考停止状態。
戦うべき時に戦う、それが陣内の男。陣内に半端な男はいらない。諦めず戦い続ければ、最後には勝てるかも知れないのに。目の前の彼のように!
健二は、思考停止しなかった。
一度は避難しようとして、けれど彼はキーボードの前に荷物を抱えて戻って来た。皆には待避を促しておきながら自分自身は、佳主馬が敗北したブラウン管の前に座り込んだ。
暗号を解くその丸まった背中、恐ろしく早い手の動き、一心不乱にレポート用紙だけしか目に入ってないその鬼気迫る姿から、目が、意識が離せない。離せるはずがない。そこだけ、健二だけしか世界に存在しないかのような鮮やかさで、くっきり際立つように佳主馬の視界に在って、頭の中、こころに雷に打たれたような強い衝撃を持って焼き付く。
それと同時に、とても、もどかしい。
――なにか。
なにか、出来るんじゃないか?
いや違う、しなきゃいけない。しなきゃいけないんだ。
ここでぼうっと突っ立ってるのが、自分のすることじゃないだろう。今まで何のために戦って来たんだ。何のために、強くなろうとしたんだ。今まで更新して来たタイムレコード、あれは無意味か?あれはただ、達成感を感じるためだけのものか?戦って勝つのが好きだと自分で言った、あれは嘘か。
――そんなはず、ない。
息を飲んで佳主馬が強張って汗を掻く拳をノートパソコンごとぐっと握りしめたその時、侘助が佳主馬に向かって叫んだ。
「ヤツを叩け! 佳主馬!!」
* * *
「健二さん、兎の足って知ってる?」
薄暗い納戸で、聖美に言われてスイカと麦茶の乗った盆を持ってやって来た、健二を振り返らずに問う。
ノートパソコンの画面には、メンテナンス中のアバターが佇む。今はただの【カズマ】になった赤い目の白ウサギ。ウサギの眼が赤いのは日本だけで、だから【カズマ】のプレイヤーが日本人であることはチャンピオンになった当初から佳主馬が公言せずとも推測されていた。
その【カズマ】は、ラブマシーンに叩き付けられて深く傷ついていた耳も体も、すでに回復してぴんと凛々しく立っている。
師匠と呼ぶ祖父から少林寺拳法を学ぶのにも、そうして幾度もなぞり続けた型を保存するうちに興味を持ったOMCに挑んだのも、いつしか虐めもなくなって、そういうことを関係無しに純粋な気持ちで頂点へと昇り詰めたのも、全てこのアバターだ。一人に一アカウント、佳主馬にはこのアバターしか居ない。このアバターは佳主馬と同じ経験をして来た、佳主馬自身と言っても良かった。
ラブマシーンに敗れベルトを失ったからといって、今までの全部が台無しになったとは思わない。更にそれ以上、本当の強さを知ったから。もう一度、最初から試したい。今の自分はもう一度、頂点に昇り詰めることが出来るか。以前とは違う気持ちを持った佳主馬は再び、キングとなりえるか。戦って勝つのは好きだ。それは今も変わらない、でも以前とはどこか違う。まだ、それは明確な言葉にはならないけれど。
それを自分のものにするために今こうして、新たな気持ちでOMCに挑めるのは彼が、健二がこの夏、ここに、佳主馬の近くに居たからだ。
彼が、【カズマ】を立たせてくれるのだ。
佳主馬の横、定位置に座った健二が視界の端で知らない、と首を振るのに、佳主馬は顔をそちらに向けて返す。
「お守り。しあわせが訪れるようにって。アメリカとか、あっちの方では結構ポピュラーらしいけど」
「え…それって、ぬいぐるみとか、そういう?」
子供のように首をかくんと幼い仕草で傾げる健二に、佳主馬はいつもと変わらず淡々と答える。
「兎の足だよ。まんま」
「えええっ!? ま、まんまって、それってほんものの、足、ってこと!?」
顔を青くしてひええと情けない悲鳴を上げるのに、思わずふっと口の端を撓らせた。
本当に。普段のこの人はこんなにも頼りなく、我も強くないし流されやすいのに。
こんな姿ですら、愛しいと思うようになったらもう、お終いだ。
それでも、どんなに欲して腕を伸ばしても。
彼は夏希のもので、けして佳主馬のものにはならない。
佳主馬はこんなに強いひとを他に知らない。
人は常にずっと強くなくてもいいのだと、知った。本当に凄い人というのは、色んなことを受け止めてもなお、大切なことを見失わないのだと識った。
力が強くなかろうとも、声が大きくなかろうとも、静かな視線一つで圧倒される。栄と同じくこころがけして、折れない。このひとは強くなくったっていい、それでもたぶん勝てなくて、それでいい。このひとには勝ちたくない。初めてそう思わせてくれる相手。このひとが正しいと思うことが、本当に人として大切なこと。
いつだって佳主馬を、無条件に信じてくれていたひと。
こんな凄いひとに信じて貰えているということは、佳主馬にとって類い希なる僥倖だ。こんなひと、他にいやしない。その信頼はけして、失ってはならない。
この夏、彼が居なかったら。それを夜眠る前いつも、想像する。
メンテナンス中の【カズマ】を覗き込む、健二の薄い筋肉とは無縁そうな姿を見詰めながら、佳主馬はゆっくりと瞬きをする。その瞬間瞼の裏に焼き付いた、あの時暗号を解いていた彼の姿が重なって映る。
あの時もし何も出来なかったら、佳主馬は恐らく一生後悔していた。あの時諦めずにいれば、なんて逃げた半端なヤツのみっともない言い訳だ。健二は佳主馬をみっともない、半端な男にしないでくれた。陣内の家に家族を憧れた健二が、栄の代わりにその姿勢で、佳主馬に伝えてくれたのだ。
――諦めるな。君なら、出来る。
キング・カズマの傷だらけの体だろうと、足だろうと、そんなこと関係なく立ち上がる為の力をくれた。
斃れた【カズマ】を立たせてくれるのは、彼だ。
あの時の、彼の姿は今でもまざまざと鮮明に甦る。
佳主馬の思考を、視線を全て奪って健二だけで埋め尽くしてしまった、一番の鮮やかな夏の記憶。
気が付けばこの胸にあるのは、尊敬以上の感情だった。健二の全てが欲しかった。この未だ細く頼りない腕で、体で、抱き込んで自分のものにしてしまいたかった。
たとえどんなに焦がれても、夏の蝉のようには伝えられない。
これは口から零れることなく、伝わることなく密やかに佳主馬の内で死んでゆくもの。勝手に花が咲こうとも、そのまま甘い匂いだけ放って朽ちていく。
それでもきっと、死ぬまで胸の中に残る恋だ。
これからずっと、キング・カズマは勝ち続けるだろう。自分の為じゃなく、健二のために。健二が与えてくれた足なのだから、佳主馬は勝手に負けたりなどしない。健二はきっと、佳主馬が勝ち続ける限り、ずっと見守ってくれるだろう。
――けれど、いつか。
健二が【カズマ】の、佳主馬のことなど気にも留めることがなくなったら。
他のものでこころが埋め尽くされて(たとえば夏希、仕事、結婚)、佳主馬のことなど遠くなってしまったら。
「健二さんにいつか、兎の足をあげる」
「えっ、え、兎の足!? 足!?」
【カズマ】を見ていた健二が、引き攣った顔で慌てて佳主馬の方を向く。
「いやいや、ぼくはそういうのはちょっと…!」
青い顔して焦っている割には無碍にも、いらない、とはっきり言えないのが健二らしい。
佳主馬は運が悪かった。だから虐めの標的にされた。でもそれからは、自分で勝利を掴みに行った。何より自分に負けたくなかったから。
それを経験してチャンピオンになったキング・カズマの足は、敵を打ち倒し障害を飛び越えるもの。百人組手でタイムレコードを更新し続けたキング・カズマの足なら、その幸運を招き寄せる力は強いに決まってる。
――【カズマ】は、佳主馬の分身。佳主馬そのものだから。
健二の幸福を勝ち取る、兎の足を贈ろう。
「そうしたら、擦り切れるまで傍に置いて」
こころ遠く離れた土地でポケットの中、擦り切れても、最後の一欠片になっても。
健二を静かに見詰めてそう言えば、健二が情けない顔で佳主馬を見ている。あまりにそれが小動物が脅える様のように可哀想でぷ、と思わず噴き出した。
くくく、と顔を伏せて笑う佳主馬の様子に、からかわれたと思った健二が緊張していたのか脱力して肩を落としながら、小さな声で言う。
「酷いよ佳主馬くん・・・」
「ごめん。アンタって、反応が面白くって」
かわい、という部分はこころの中だけで言って、笑いをおさめる。
(――ねえ、)
離れて声が二度と聞けなくなっても、顔を見られなくても。記憶の端から佳主馬の名前が薄れても。
(あんたのことを、どうしようもなく好きな人間が居たってこと、最後まで知らなくていい。だから、)
伝えようとは思ってない。健二を困らせたいとは思ってない。ただ。
(あんたのしあわせは僕が掴まえたいんだ)
「ええと…、ぼくは兎の足より、佳主馬くんのメールアドレスが欲しい、かな」
芯が強いということは意外と打たれ強いということなのか、へにゃりと力を抜いて懲りずに笑う健二に、佳主馬は敢えて意地悪く口の端を撓らせて言った。
「――ダメ。 もっと取引先に言うみたいに言って」
end.
あなたがどこを歩くとも
(僕のこころを、ずっとあなたの傍に置いて)
Title : 【ノアロー】