空が高い。

 夏の青さの向こう、陽射しは強くて瞼を閉じても光を透かして来る。

 蝉の声が響く緑の多いこの屋敷の庭で少年がひとり、型を取りながら汗を流しているのを、健二は縁側に佇んだまま、見詰める。

 最初こそ何をしているのかよく判らなかったけれど、この短い滞在期間に密度の高い時間を経て彼のことをよく知って以来、何度見ても見惚れる。体こそ小さくても、その動きは堂に入っていてまるで演舞のようだ。誰に褒められるためでもなく彼が、佳主馬自身が努力して積み重ねて来たその動きは、とてもきれいで眩しい。

 瞼を閉じても遮ることが出来なさそうな、夏の陽射しと同じ明澄さで彼は健二の目の前に存在している。生きている。同じ時間、同じ場所に。それが健二にとって少し不思議で、とてつもなく貴重なことだ。こんな夏はもう二度とない。

「健二さん?」

 ぼんやりしていたところに、鍛錬を終えたのか汗だくの佳主馬が少し息を切らしながら声を掛けてくる、それに慌てて近づいた。

「佳主馬くん、おつかれさま」

 そうして聖美から預かってきていたタオルと、

「ラムネだ」

 細長い冷えたラムネの瓶を受け取った佳主馬がぽつりと言うのに、健二は自分の分を顔まで掲げて言う。

「うん。ついさっき、買い物から帰って来た夏希先輩から貰ったんだ。お土産だって」

「ふぅん」

 はー、と息を吐いて整えながら佳主馬が縁側へ座る、それに習って健二も座った。

 佳主馬の指が瓶の蓋を押して、ぶし、と空気の抜ける音と一緒にからりとびいだまが、淡く水色に色付いた瓶のくびれまで落ちていく。そのまま瓶の口からしたたる炭酸の勢いごと煽った。喉が渇いていたのだろうけど、自分なら溢れて来るのに慌てて飲むどころか勢いが治まるまで放置だな、と小さいながらに潔い佳主馬の仕草にまでこっそりと感心した。

 こくりと喉が動くのに、佳主馬という存在が確かにそこに居て生きているその事実、それに対し込み上げるこの感情は何だろう。

 何とも言えない感覚が健二を包む。自分とは違う存在をすぐ傍で夏の温度と一緒に感じながら、健二もラムネを口にした。空の青を透かし、涼しげな水色の瓶を通った炭酸が喉をくすぐって、健二は飲み込む時に思わずそっと肩を竦めた。

 彼にはラムネみたいにぱちぱち、満ちてはじけるものが内側にある。

 これから彼が成長しその世界が広がって、苦しくても楽しくてもいろんな経験をするたび、ぱちんと大きくはじけてはきらきらと噴水の水滴のように眩しく光を反射する、彼の内側にあるものを、健二はなんと呼べばいいのか判らない。

 あえて言うなら、生命力、バイタリティー、感情動力、可能性。

 この、夏にもっとも相応しい彼の鮮やかさ。

 それはたとえ健二が瞼を閉じても逸らしても、透かして引き寄せるような強烈さや引力で、だからこそ彼は夏の陽射しのようなんだろうなあ、と思いながら手の中、汗をかく瓶をもてあそぶ。

 健二から少し離れた横に座って、彼は手に瓶を持ったまま、タオルで額から落ちてくる汗を拭っている。小さいのは今だけで、彼の中には満ちあふれるものがある。

 ――この子は、どんな大人になるんだろう。

 想像すると胸の奥、心臓ががくすぐったく跳ねる。そう、とても、ドキドキしている。けれど同時に胸を満たすような、不思議な感覚が広がった。

 内側にはじけるたくさんの、または大きなものを持って、彼はどんな大人になるのだろう。

 そっと覗った先、あの日彼の細い肩が、体が、震えるのを堪えていた強さを思い出して、佳主馬がそういう切ない我慢をすることが少なければいいな、とぼんやり考える。

 ガラスの瓶の中、くるりと揺れたびいだまが擦れくぼみにぶつかって、かちんと音を立てた。

* * *

 出会った夏から数年後、その彼は健二の上にのっかって、荒い息を吐いている。

 それでも息が整うのは断然彼が先で、覆い被さる佳主馬の下、健二が息も絶え絶え状態で抵抗出来ないのをいいことに肌を触れ合わせながらあちらこちら、いつもなら健二が恥ずかしがって逃げるところまで、好き放題思う存分触ったり撫でたりキスしたりと忙しい。佳主馬の悪戯にひくりと反応する健二の躰が楽しいのか、時々くすりと小さく笑う。頭の中と同じように、まだ余韻につま先まで痺れた脚の内側を繰り返し撫でる手が、次を強請っている。

「健二さん、落ち着いた?」

 上下に忙しなく動いていた胸、心臓の上の肌へとキスを一つ落として、唇を付けたまま微笑む彼が言う。唇は人の体で一番皮膚の薄いところで、だからとても敏感だ。そんな場所で健二の肌へとためらいなく触れて、皮膚の下、跳ねる鼓動を直に探られる。

「まだ早いね」

「…きみと居るときは、いつも少し、はやい」

 胸の上で視線が合うから力の抜けた声で返せば、途端に佳主馬はとろけたような笑顔になって、あちこちに触れていた手をシーツとの隙間に潜らせると健二の背中へと回して来た。そうして健二の首筋へと顔を埋めた彼は、甘噛みするように口吻けながら耳元で呟く。

「健二さん、かわい…」

 ぎゅうぎゅうと息が詰まって骨が軋みそうなくらい抱き締められて、健二は骨が当たって痛くないのかな、と苦笑しながら、その汗ばんだ背中へゆるゆると腕を回した。

 広げたてのひらの指の先、触れた背中の筋肉をたどる。

 小さかった佳主馬の体は、今ではすらりと伸びて健二を軽々追い越した上に少林寺拳法で鍛えた筋肉を身につけて、どこに居ても人目を引くような立派な成長を遂げた。それでもまだ止まっていない成長は、25歳の誕生日の朝まで佳主馬を更に精神的にも身体的にも逞しくしていくのだろう。

 彼の背中は、さっきまで張りつめた弓みたいにしなやかに筋肉を撓らせていたけれど、今は弾力のある硬さへと変わっている。柔らかいとも少し違う。でもとても気持ちがいいので一番最初は凄く驚いた。比較対象がないので、結局それがそういうものなのか、それとも佳主馬だからかなのかは全く解らないけれど、それはきっと解らなくていいことだ。

 この背中の内側にぱちぱち、はじけて光るものが満たされているのだと思うと、泣きそうなくらい愛おしい。健二はそっと、重なる愛おしい背中を撫でた。その動作を繰り返す。

 以前、健二は佳主馬の内側で、それが今までになく強く大きくはじけて輝いた瞬間を見たことがある。

 あなたが好きだ、と佳主馬が健二へ告げた時だ。

 あの時の佳主馬は、よりいっそう鮮やかに記憶に残っている。貫くようにまぶしくて、見たことがないくらいきれいで、健二の視界も、意識も、呼吸だって全て佳主馬に奪われた瞬間だった。

 佳主馬が健二へ告白をしたのは彼が健二の背を越してすぐの頃で、夏の上田、話したいことがあるんだ、と連れ出された栄の墓前で告げられたそれに、驚かないはずがない。それでもそこで、栄の前で話すということは限りなく佳主馬にとって本気で、しかも一生貫く意志があるという覚悟を示すのを、健二はすでに知っていたから。

 その時健二が考えたのは、好きか嫌いかでも、男同士だとか世間体のことよりも、はたして自分は彼の一生分の本気に応えるに足る存在か、ということだった。

 健二はそのとき成人はしていてもまだ学生で、もし佳主馬と付き合うことになったら(たとえ彼が望まなくとも)彼を、その本気をどうやって守るか、ということや、彼にさせるだろうたくさんの切ない我慢、そういうことを考えて、ううんと唸った。

 考えるまでもなく告白への答えはとっくに出ていて、けれど健二の思う『彼の本気に応えること』は、告白への答えではなかった。健二は佳主馬に何が出来るか。一生分の決意をした彼のために何をしたいと思うか。彼の切ない我慢をすこしでも減らせるようになりたい。一生分。それは具体的にどういうことなのか、健二にはその時、明確な方法を思いつくことが出来なかった。

『ぼくも三年悩んでみようかな。その方がフェアだし』

 健二に告白するのにそれだけ悩んだと言う佳主馬にそう告げると、彼は青くなって三年も待たされるとか冗談じゃない!、と悲鳴を上げた。

『やめて健二さん。なに考え込んでんのか知らないけど、それならせめて答えだけでも先に教えて!』

『それって、ぼくがズルくない?』

『ずるくない、ずるくないから! っていうか、このまま放置の方が酷いから!』

 出会った夏から更に、いつも淡々として冷静沈着、けれどこころの内には陣内らしく熱いものを持つ佳主馬の、健二の両肩を掴んで焦ったように言い募る必死な様子なんて、後にも先にも未だあの時だけだ。

 背中を撫でる感触に首筋から顔を上げた佳主馬が、至近距離で唇を意味深に撓らせて言う。

「さっきから、ねえ、誘ってるの?」

 もちろん、もう一回と言わず何度でも頑張るけど。

 そうして健二の頬やこめかみ、鼻先へとキスを次々落とすのに、何度でもはさすがにムリかな、と眉を下げて返しながら、右手を乱れた佳主馬の髪を梳くために伸ばす。

 撫でられる猫のように眼を細める佳主馬を見詰めて、健二は口を開いた。

「…前からずっと、きみはどんな大人になるんだろうって、思ってた。考えるとすごくドキドキしたな」

 あの時、胸を込み上げた感情は今でもあって、それは羨望で、憧憬で、愛おしさだった。

 そして健二はその佳主馬とあの夏、同じ空間を、時間を共有出来たことが貴重で、こんな夏はもう二度とないだろうと思っていたのに。その成長をこうやって、まさに躰全体で嫌というほど理解することになるなんて一体何がどう転ぶのやら、本当に人生って判らない。

「今の僕は合格? 健二さんの理想に叶ってる?」

 しっかりと視線を合わせて訊いてくるその声はいつもと変わらないのに、繋がった視線の先、瞳がとても真剣で、だから健二は柔らかく笑い返す。

「きみはぼくの想像なんかよりはるかに凄くて、格好いいよ」

「じゃあドキドキする?」

 そう訊きながら佳主馬は、健二が髪を梳いた流れで佳主馬の頬に触れた手の上で同じように手を重ねて指を絡めた。そうされると、指の節同士がまるで大きさの違う歯車のように巧く噛み合って、健二の手はがちりと固定され動かせなくなる。こうされれば離れることもない。佳主馬は不思議だ。こうして、まるで健二のためににあつらえたようにぴたりと合わさる場所が時々ある。

「するよ。――今もしてる」

 きみと居る時はいつもすこし、鼓動が早い。

 佳主馬が頬に触れさせたまま、感触を確かめるように指の腹で健二の手に、指に触れて遊ぶ、その仕草を見詰めながら返せば、まるで長いこと離ればなれになって捜していたものを得たかのような、こころの底から満ち足りた微笑みを佳主馬は見せた。

 それからまるで何かの儀式かのように、うやうやしくまた心臓の上へとキスをする、その様子を健二は気恥ずかしく思いながら眺める。

「…どうしてきみが選んだのが、ぼくなのかな」

 ずっと抱えていた疑問が、佳主馬の唇が肌に触れた拍子についぽろりと零れて、健二の呟きを聞いた佳主馬はぱちんと一度瞬きをした後、顔を上げわざと不機嫌そうな表情を作った。

「なにいってんの。僕を捕まえて離さないのは健二さんのほう。僕に誰かを選ぶ余地なんてなかったよ。何してたって健二さんのことばっかり考えて、僕以外を選ぶのなんか想像するだけで耐えられなくて、気が狂うかと思った。今でも思う。だから、」

 そこで言葉を句切った彼は、健二の手を解いて今度は頬を掴まえる。近づく顔が、まるで挑むように笑んでから、そっと囁く。

 あんたはずっと、僕にドキドキしてて。

 その時ぱちんと彼の中でなにかがはじけて、きらと光った。それがまぶしくて、健二は瞼を閉じる。それでも瞼を透かしてなお、眩しく光るものの腕の中にいる。

 そうして落ちて来た彼とのキスはいつも、上田の青い空のした、飲んだラムネを思い出した。

end.