――トゥエ レィ ツェ クロア リョ トゥエ ツェ…クロア リョ ツェ トゥエ リョ レィ ネゥ リョ ツェ……」

穏やかな午後の光を浴びた窓辺に腰掛け、空を見上げながら微かな声で歌う。

ティアのようにうつくしい声ではないから大きな声で歌うのは恥ずかしいし、何よりここには寝ている己の主が居る。

彼女の歌声は綺麗だったなあと、自分の頭の中ではティアの歌声を聴きながら、自分の下手くそな歌声で譜歌を紡ぐ。

「クロア リョ クロア ネゥ ツェ レィ クロア リョ ツェ レィ ヴァ……」

ここで終わりだ。この先を歌ってしまったら、この世界のローレライが地殻から呼び出されて大変なことになる(かもしれない。やってみたことはないのでよく判らない)。

「…お前の歌が、いつもそこで止まるのは何故だ」

僅かな不満を含んだ幼い声が聞こえて、咄嗟に振り返ればベッドから上半身を起こした姿勢で彼がこちらを見ていた。

眩しいのか、目を細め眉間に皺が寄っているのを見て、思わず微笑む。

「ごめん、起こしちまったか?」

「お前の歌が止まったから、目が覚めた」

窓辺から離れ、部屋の隅に用意していた紅茶を淹れ彼へと渡すと、受け取った彼はやはりというか、不満げな様子でちらりとこちらを見た。

「何でいつも最後まで歌わない?先を知らない訳じゃないだろう」

眠っている途中で不自然に起きることになってすっきりしないのか、不機嫌に言う彼に苦笑を返すことしか出来ない。

「……そうだな、それはいつか俺じゃなくて他の人が歌ってくれるよ」

大譜歌になるから全部歌うのはダメだとか、さすがに言えない。

何故お前がユリアの譜歌を知ってるんだと追求されたら困る。

それに、もしこの先が自分の知っているような未来に進むとすれば、きっと彼はいつか聞くだろう、この譜歌の続きを。

せめてそれが、哀しみの中決別の戦いの中、聞くことがありませんように。

「一体何の歌だ?」

――これは、」

未来を変えるための。

「『願い』の歌なんだ」

* * *

何が一体どうなって。

俺は死んだはずなのに、どうして。

気がついた時、という言葉が正しいかどうかは判らない。

一番最初の呼吸をした途端、視界に眩いほどの緑が広がり耳に音が溢れ、体に触れる風がほんのりと温かいもので、それに髪が煽られ体のあちこちに纏わりつく感触を理解する。

呆然として両手を持ち上げ握ったり開いたりを繰り返し、風に好き勝手に弄ばれる上着に自分の姿を見ていつもの姿だと確認して、ついでに腰の後ろにローレライの剣があることに気付いて、踏みしめる土の感触までちゃんと感じている足の先まで見詰めて透けていないかを調べて。

どこにも、異常はないってことは。

――生きて、いる。

――なん、で、」

自然と口から零れた声は随分久しぶりに出したみたいに掠れていて、不安定に揺れていた。

なんで、どうやって、なにがどうなって。

死んだはずだ。落ちて来たアッシュを受け止めて抱えてから俺は、――俺は。

ローレライに会ってからのことは覚えていないけれど、でも意識は確かに途切れていったから、ああこれが死ぬってことなのかと、思ったより怖くないななんて、心のどこかでそう思って――

そう言えば、どうして髪が前みたいに伸びてるんだ?

それに――、なんで、ティアみたいな色になってんだ?

周囲に集まって来た魔物にいつまでもこの場所に留まる訳にはいかなくて、近くの街を目指して魔物を倒しながら下山する。そこでようやく自分の居た場所がデオ峠だと気がついた時、正直泣きそうになった。

どうして崩落したはずのここ一帯が無事なのか、という疑問よりも。

その先にある街を思うと、今すぐ駆けつけたいような、けれど逃げ出したいような、どうしていいか判らない感情で堪らなくなる。(多分本当は蹲って頭を地に擦り付けて許しを請いたい)

暫くそこで足が縫い付けられたかのように動かなくなったけど、結局街が無事なのかどうかを確認する勇気が持てなくて(もし無事だったらそのことを俺はどう受け止めればいいんだ)、長い間迷ったものの背を向けて歩き出した。

俺が訪れた途端にアクゼリュスが崩落してしまうんじゃないか、という不安が頭から離れなかったから。

そのままカイツールを避けケセドニアまで行き、酒場に入って周囲の壁に貼られている新聞の紙面から色々情報を得て、今が自分…レプリカルークが生まれる三年前だという事実を知った。

その時は一瞬、息を吸うのも忘れるくらい酷く驚いたけれど、その前にもう一生分(死んだ後に使ってもいいのかな)驚いた後だったから、そのまま事実としてすとん、と俺のこころに落ちてきた。受け入れるしか、なかった。

死んでたのが生き返った(?)んだから、もう滅多なことでは驚けない、っぽい。

ちょっと性格が変わったのかもしれない。いや、成長したっていうんだろうか?ジェイドみたいに驚いてもあんまり、表面に出なくなった。

――鈍くなったとは、思いたくない。

多分、現実感が無い、んだと、思う。

以前のように世界は綺麗だったし、風は心地が良かったけれど、どこか夢のような不確かな感じがした。夢だったら、それはそれで色々と変なわけで。だって俺は、自分の生まれる前のオールドラントなんて知らない。

ああ、俺ここで何をしたら良いんだろう。

俺は、どうして生まれる前に来ちゃったんだ。

どうやってこんなことが出来たのか、と考えて、ローレライ…と、ふと第七音素の意識集合体の、俺とも完全同位体である存在の名前が頭に浮かぶ。

――もしかして、ローレライと一緒に音譜帯に溶け込む時に何か、失敗したのかも知れない。

ああ、有り得そうだ。俺だし。足(?)を踏み外したとか。

音符帯の中はローレライで満たされているだろうし、だったらあの記憶粒子の中に引き寄せられた時みたいになって、戻る時間を間違えたのかもしれない。過去も未来もぐちゃぐちゃで、入り交じったようなあの状態。

ただ、乖離したはずの体がこうしてちゃんと存在していることが、本当に判らない。

ケセドニアの路地裏に放置してある木箱に座って、瘴気に汚されたことのないだろう青い空を見上げてはるか向こうの音譜帯を思う。

ローレライが通信して来てくれないかと思うけれど、まあ、欲しい時に来ないのが連絡網だよなあ。双方向なら便利なんだけどな。

……連絡網と言えば、アッシュって今、何してるんだろう。

いや本当は今はルークとして、ナタリアにプロポーズしたり、第三王位継承者として勉強したりしてるんだろうけど。

俺の知ってる中で一番最後のアッシュは、血の気の失せた蒼白の顔色をしていて。生きていた時の力強さを喪っていたけれど、恐ろしいくらい穏やかな表情で眠っているみたいだった。(そして目を疑うほど綺麗だった)

それを見て、自分も同じところに行けるかも、と思ったら死ぬのが怖くなくなった。現金だなって自分でも思うけど。

そして死んだはずの俺は今、ここに、消えも透けもしない体と意識を持って存在しているけど、アッシュはどうしてんだろう。

アッシュのことだから、ちゃんとそつなく音譜帯にいるような気がする。

……やべ。もしかして俺って迷子?迷子なのかよ!

参ったなあ、アッシュ、連絡網繋げてくれないかな。無理かな。屑が!って怒られそうだ。

ああ本当に、俺はこれからどうしたら良いんだろ。

――いや、どうしたいんだろう。

ぼんやりと路地裏から表通りの人の流れを見る。様々な格好の人間がどこから沸いてくるのかと思うほど現れて消えていくのに、流れは途切れない。

――あ、白光騎士団に入るのなんか良くないか?

脈絡なく思いついたにしては、上出来だと思った。

顔を出さなくていい。アッシュ…ルークを見守るのが仕事だから、常に傍に居られる。いいこと尽くしだ。

とりあえず、いきなり準備もなしにバチカルに行くのはマズイよなあ。

さっき店の窓ガラスで確認してみたけれど、顔は変わらないものの不思議なことに髪の色はティアのような灰色掛かった栗色だし、瞳も淡いアイスブルーに変わってしまっていた。乖離した体が音譜帯でローレライの中のユリアの情報でも読み取ったのかな。難しいことは判らないけれど、外見上はバチカルに行くのは問題はない。よし。

ただ、どうしたって勉強……っていうか、学問とか、あと礼儀とかその辺の社会常識みたいなところで、引っ掛かりそうな気がする。

ダアトの図書館に行ってみるのもいいかもしれない。

あそこの図書館の蔵書量は半端じゃなかったから、入り浸って勉強すれば、白光騎士団の試験も何とかなる、んじゃない、かなあ…。いや、なって欲しい。元は悪くないって、ジェイドもガイも言ってくれてたし。そうだよな、元はアッシュなんだからやれば出来るはずなんだ。後は集中力だ。うん。

思い立ったら即行動。

まずは資金を稼ごうと、暫く砂漠周辺で傭兵の仕事を一年ほど頑張ってみることにする。

有難いことに剣の腕前はそのままのようで、仕事の面で得をすることが多かった。

更には、アニスにとことん鍛えられた腕は『クッキンガー』の称号として残っているし、金銭面でも上手く節約する術を覚えていた。

今の自分は全くの拠り所もなくて本当はとても辛くて寂しいことなのに、それでも耐えられるのはこうして、旅の中皆から教えて貰ったり培った知識がちゃんと、俺を支えてくれるからだ。

皆に何度感謝しても尽きない。

それでもやはり寂しい時はあって、そんな時は月を見上げてティアの歌声を思い出しながら、そっと譜歌を歌った。

この寂しさはかつてアッシュが味わったものに似ているのかもしれない。でも居場所を奪われた訳じゃないから耐えられないはずがない。それにまだ、縋るものがこうして、ある。

だから大丈夫。

それから傭兵の仕事で貯めた資金で、ダアトに行って半年くらい勉強した。子供の世話をしながら、ダアトの教団員が開いてる学校にも紛れ込んで、残りの半年はあちこち街を移動して出来る範囲の社会勉強をして、この時間に目覚めて二年後に、漸くバチカルに白光騎士団の試験を受けに行った。

* * *

白光騎士団には実技重視だったお陰で、めでたくも無事入団出来た。

何より助かったのは、ガイとナタリアに叩き込まれた礼儀作法で、こんなところでも助けられていることが物凄く嬉しくて懐かしくて泣きたくなる。

ああ、一人ってこんな気持ちなんだ。

アッシュって、本当に凄いな、と今更ながらに思う。

あの頃、アッシュはこんな気持ちで神託の盾で暮らして。辛い思いをして人を殺して。レプリカを――俺を憎んで、だけど世界を救うために、フォローをして回って。情けない俺を、だけど殺しはしなかった。機会は幾らでもあったのに、罵って、怒鳴るだけで。

どれだけ助けられていたんだろう。

不器用で、だけどとても優しかった。

最初のころは訓練にも鎧にも慣れなかったけれど、一ヶ月も過ぎるようになると段々と平気になって、周りの白光騎士団員たちとも気軽に会話出来るようになって来た。

生憎と、新入りだから外壁だとか廊下とかの、余り重要じゃない場所にしか配置されないけど。

白光騎士団で初めての休暇が翌日から一週間ほど貰えることになった日の夜、屋敷からは階層が一段下がっているものの、一応公爵家の敷地内にある団員の宿舎を出て、夜中の散歩に出かけた。

公爵家の屋敷では裏庭に当たる部分に繋がっている宿舎の敷地で、境界線の柵に寄り掛かる。ここが一番宿舎の敷地で高い場所だから、俺は気に入っていた。

毎日、仕事とはいえあの重くて蒸し暑い鎧も今は無い分身軽で、更に私服で開放感に夜空の下、背伸びをする。深く息を吸って、体の中を綺麗にするみたいに、吐く。

長い髪はこの体が本当に自分のものなのか判らなかったから、勝手に切っていいか判断がつかなかった。結局伸ばしたままだ。

かなり久しぶりに、ゆっくりとこうして月を見上げる。

明日からの休暇は、行ける範囲で第七音素と繋がりのある場所へ行って、何とかローレライと連絡がつかないか試すつもりだった。

何度か試してはいるけれど、未だに一度も連絡は取れない。救ったのに薄情じゃないかローレライ。

高台に居る分、空気が澄んでいてはっきり見える所為なのか、久しぶりに見た月は少しだけ大きいような気がする。

「…トゥエ レィ ツェ クロア リョ トゥエ ツェ…――

自然と、口から当たり前のように譜歌が紡がれる。

密やかな囁き声で歌う、いつからか出来てしまったクセは、自分の最も無防備な時に出てくるから、

「そこにいるのは誰だ?」

「ふぇ!?」

不意に背後から聞こえた声に、飛び上がるほど驚いた。