――おい、レプリカ。
お前が変えた過去の中で、一つだけ確実に失われたものがあったとしたら、それは何だと思うか?
それが、過去からあの未来に繋がる道を消したとしたら。
お前は過去を、未来を変えるため、何一つ取りこぼさないようにして来た。
それでもお前の手に、力に余るものは、この世界自体――預言によって失われた。
お前が変えようとするその力は、世界にとって微々たるものだ。
だから変えられないことも――救えない命、も多々あった。
それはお前が気にすることじゃない。
お前は全能ではないし、過去を、未来を変えることなど、普通は出来やしないのだから。
だからこそ。
お前が善かれと思い、変えて来た過去の中で。
確実に、存在が消されたものがあったとしたら。
それは、何だ。
――答えろ、『ルーク』。
* * *
最後まで繋いでくれていたてのひらの温かさと、抱きしめてくれた腕の強さをいつまでも覚えている。
あれから、7年の月日が過ぎた。
誘拐から奇跡的に生還したルークがバチカルの自分の屋敷に戻った時、髪は短く切り揃えられていて、それを見たシュザンヌとメイドの悲しみようといったら大変なものだったが、命には代えられなかったとルークが言えば、その場に居た白光騎士団やラムダスにまで、一様に驚かれた。
父であるクリムゾンですら、厳しい顔ながら複雑な表情をしたことはとても印象深く記憶に残っている。
今はその名残もなく以前のように手入れをされ、深い紅(いろ)をして真っ直ぐに伸びている。
そして髪が伸びると共に体も徐々に成長するにつれて、次第に『彼』に似てくるその顔に、ああやはり、とルークは何度も鏡の表面をなぞりその輪郭を辿った。
表情や目つきなどは性格から違っていても、面影が記憶の中で薄れないのは、この所為だろう。
『彼』の本当の髪の色や目の色はルークにしか見えなかったが、気付く者がいるかもしれないと思い、いつからか前髪を上げるようになった。
これだけでも印象が変わるものだ。
年を重ねる事に伸びた髪が、深い赤が毛先になるほど濃くなっている自分のものとは違い、『彼』の髪は先が金色に抜けるようなその色合いが本当にうつくしかった。
――ああ、それだけじゃない。
『彼』の髪が、身を翻した時に流れるその様が、目を奪われるほどうつくしかったのだ。
『彼』は動きが荒いから粗野に見えるのだけど、けして汚い動作ではなかった。
剣を持たせればその洗練された動きは際だったし、跪く時の動きも滑らかで背筋も綺麗に伸びていて、それに髪の動きが合わさればそれは目を惹く。
そして笑顔を惜しまなかった。特に、ルークに対しては。
それだけで、到底口には出せなかったが幼い自分は『彼』をどこに出しても恥ずかしくないと誇らしく思っていたし、また誰にも見せずに自分だけの宝物にしておきたいと、ルークは願っていた。
自分にしか見えない『彼』の彩と特別に向けられる微笑みと、それに加えて『彼』の不慣れなところや不器用さは、幼い子供の優越感を満足させるに充分相応しいものだったからだ。
今になって思い返せば、本当に世話が焼けたのはきっと自分の方だったに違いないと、その頃を不意に思い出し思わず赤面する羽目に何度か陥るのだけど。
* * *
――森を魔物の最期の咆吼が響き、空気を撓ませる。
その振動は木々を、葉を揺らし、鳥たちが一斉に羽ばたいた。
それを感覚のどこかで受け止めながら、ルークは地響きを立てて伏した魔物を見詰めていた。血飛沫もその体もすぐに音素の光へと変化し、昇華されていく。
そこで初めて詰めていた息を吐き出し、剣に付着した血飛沫を払った瞬間、体を捻って『それ』を受け止める。
間近で劈く、金属同士がぶつかる音。
「――甘い。こんなんじゃまだまだ俺の首をくれてやれないな、ガルディオス伯爵子息殿」
「そう言って、結構ギリギリだったんじゃないか、ルーク・フォン・ファブレ殿?」
襲いかかって来た人物とは思えないほどの爽やかな笑顔を見せて、ガイは剣を押しつけるように力を込めていたその体勢から身を退くと、かちんと鍔の音を立てて剣を鞘に戻す。
そして先ほどルークが魔物と戦った場所を見渡してから、ルークの全身を軽く見て、顎に手を遣り一つ頷いた。
「ふーん、大分腕を上げたんじゃないか?」
「こんなのは所詮飯事みたいなもんだ。ちょうどいい、手合わせしろ」
「この場所で?」
ルークの申し出に、ガイは驚いたような顔をして、演技がかった仕草で両手を広げてみせる。
「うっかり本気出してお前が死んでも、誰にも判らないぜ?」
「言ってろ」
ガイの戯言にハッ、と鼻で笑って一蹴すれば、ガイはやれやれと肩を竦めて苦笑しているが、目は笑ってないのが判る。
随分前から、ガイとはこんな感じだった。
一番身近な幼馴染みのようでいて、けれど互いの間に横たわるのは怨恨だとか復讐だとかの、死の匂いがするものだ。
それでも互いを繋いでいるのはやはり復讐という関係と、そして――『彼』だ。
『彼』と、再び逢うため。
その目的で、ルークもガイも互いの成長を刺激し合う、信頼関係をいつの間にか結んでいる。
微妙なバランスで成り立っているこの関係はいつ崩れるかも判らないが、いつか崩れると判っているからこそ、敢えて信じられるところがあった。
嫌そうな顔をする父親を押し切って、体がそこそこ成長したのに合わせて白光騎士団員に混じり実地訓練をこなすことで、ランバルディア剣術は二年ほど前に修めたが、白光騎士団員との打ち合いは所詮訓練でしかないと、ルークは考えている。
魔物との戦闘も、やはり魔物の方に相手にされなければ意味がない――魔物とて、生物の本能に従っている。戦闘をしないと決めた時には向かっては来ないし、こちらもそこまで強引に魔物と戦いたい訳ではない。
戦わずに済むのなら、それがいい。傷つけずに、損なわずに、民を、国を、何かを守れるのなら。
けれど、今必要なのは強さだ。
ガイが向けてくるような、本気になった魔物が放つような殺気に怯むことなく耐えうるような、そしてそれをねじ伏せることが出来るまで、腕を磨く。
それが今ルークに出来る精一杯の努力でもあった。
誘拐の後から前以上に、しかも国王からの直々の命で、行動範囲を制限されてしまった今では何もかもが難しく、せいぜいルーク個人が自分に出来ることの一つとして課した、こうやってまだ未明の時間に屋敷を抜け出して独り、実戦の訓練を行うのがやっとのことだ。
これは公務として領地であるベルケンドに居る間も努めていることだが、果たしてあの時自分が決意した、力を手に入れることが出来たのか。
ルークはあまりにも長い時間に対して何も出来ない――自分にとって無為に思える時間が過ぎていく、それに焦る余りに、色んなものを見失い掛けている気がしていた。
* * *
メイドがルークを起こしに来るギリギリ前に部屋に戻り、起床を確認する声に返事をしてから、浴室に移動する。
風呂で汗と汚れを流した後再び部屋に戻れば、いつものように出窓から忍んで来たガイがほら、と小さな麻袋を投げて来た。
握った感触からどうやらグミが入っているらしい。
そして座るように促され、ベッドに腰掛ければガイが向かいで治療箱を取り出してルークの腕を治療し始める。
こんなところを他の誰かに見られればとんでもない騒ぎになるだろうから、こんな日は着る服にも注意しなくてはならなかったが、幸運と言うべきかルークは元々余り肌を出す方ではない。
利き腕でないことも幸いだったが、ここのところ負けが続いている。
やはり、自分に対しての迷いが現れているからだろうか。こんなことでは何一つ出来ないままだ、と自己嫌悪にため息も深くなった。
「ルーク」
手際よく治療をしていくガイがそっと名前を呼ぶ、それに窓の向こうに向けていた視線を戻せば、手は止めないままガイが話し掛けて来る。
「お前、誘拐されてから変わったな」
「…そうかもしれないな」
無力を痛感したあの時確かに変わろうと決意を決めたのだから、否定をする気はなかった。
敢えて言葉にされるのは、少しむず痒いような気もしたが。
ヴァンはあの後も当然のようにこの屋敷に訪れていた。
ルーク自身が何を言ったとしても、所詮は子供の戯言として処理出来ると思ったのだろうし、実際ルークは誘拐されていた時のことを何も覚えていない、と公爵や主治医に話していた。その分演技もしたし、ヴァンが探るように口にする言葉を毎回吟味して慎重に、けれど怪しまれないように反応を返していた甲斐もあってか、ヴァンは多少訝しんだようだが、ルークの記憶障害はレプリカ情報を抜いた時の後遺症と判断したらしい。
それ以来、前と変わらず接してくるしこちらも前のままだ。
今は無暗に逆らうべきではない、とルークは思う。
ヴァンが傍に居るということは、いつか隙を見てその思惑と自分自身のレプリカのことを訊き出すことが出来ると思ったのだ。――それに、もしかしたら、『彼』の行方も。
その目的のためには多少ヴァンの思惑に乗ったように見せかけて、自分の超振動の力をエサにするのもいいとすら、考えている。
心地よい言葉ばかりを使うヴァンに立ち向かえるよう、注意深く、冷静かつ客観的に物事を見られるように何度もこころの中で自分を他人を疑ったし、そのお陰と言うべきか、副産物的に感情的になりやすい、短気な一面はほぼ抑えられるようになった。
――根本的な部分は残っていて、やはりちょっとした瞬間に感情に火が付きそうになるたび、まだまだだと痛感するのだけれども。
あんなに苦しくて、嫌なことのはずだったというのに、超振動のことなど今はとても些細なことに思える。
『彼』に近づけるならば、どんなことでもするし、出来る。
いや、出来るはずだ。
――ああ、そうだ。
周りが自分を利用しようとするのなら、こちらこそ利用してやる。
「あの人が居ないからか?」
ガイの小さな問いは、包帯を鋏で切り取った音と共に、静かな部屋に鳥の囀りのように落とされた。
『彼』はルークの誘拐時に死亡、という扱いになっている。
『彼』が戻らなかったことを帰って来たルークが口にした時、泣き崩れたメイドや俯く白光騎士団員が数多く居て、『彼』がどれだけ周囲から慕われていたかを実感したし、それから暫くは、屋敷の中は何か物足りなくて寒々しい風の通りを不自然に感じていた。
ああいうのを、喪失感、というのかもしれない。
あのメイド長やラムダスですら廊下の向こうを目を細めて見ている時があって、きっと廊下を走る『彼』を注意したことを思い出しているのだろうという、瞬間もあった。
『彼』は手が掛かる非常に困った使用人だったけれど、その分、周囲の人間達に多くのものを残していったのだ。
「俺より年上のはずなのに、全然子供っぽくて、ルーク馬鹿でさ。それでもいざって時には頼りになるんだよな、不思議と。
――あの人がお前を絶対連れ戻すだろうって、俺は疑ってなかった」
己が変わったと言うのなら、ガイも変わった、とルークはちら、と密かにその横顔を見詰めながらそう思う。
ガイが「はい、終わりましたよ坊ちゃま」と笑う、それに一度睨んでから捲っていた袖を下ろしていけば、治療道具を片付けながらガイが小さくくすり、と笑いを漏らした。
何だと視線を上げれば、ガイはぱたんと音を立てて蓋をしているところで、少し懐かしそうな顔をして部屋を見渡している。
ガイにとっても、この部屋中に『彼』の名残があるのだろう。
「可笑しいだろ、俺、お前の名前をあの人が呼ぶたび、歌ってるみたいだって思ってたんだぜ」
『ルーク!』
伸びやかな声で呼ばれた、遠い日の響きが耳に蘇って、思わず瞼を閉じる。
途端に脳裏に広がる、衒いのない純粋な好意からなる笑顔を思い出す。
自分にはとても出来ない顔だと、ルークは思い出すたび思う。
「…そう、だな。あいつはよく、歌っていた」
「何だか不思議な歌だったな、あれ」
「ああ」
歌詞の意味など全く判らない歌だったが、込められている想いが伝わってくるようだと思っていた。
あの時は自分から強引に「歌え」と強請ったものだが、いつのまにかルークのこころを癒すように守るように、歌ってくれていた。
ルークとて、『彼』が生きていることを理由もなく信じている訳ではない。
彼が生きていてそれをヴァンが知っている――握っているという、確信。
それが、ルークを突き動かしている。
誘拐から戻ってしばらく、レプリカ情報を抜かれた所為か高熱で寝込むことが続くたびに、ヴァンの部下で音素学の権威だとかいう学者がダアトからやって来て、診察の後毎回セレニアの花束を置いていった。
それを見た時の驚きは、今でも簡単に胸に甦るほどだ。
自分に、特にセレニアの花を選んで贈る人物など、一人くらいしかルークには心当たりがない。
『いつでも見守ってくれているような気がして』
夜の薄闇の中、白い花畑での彼の姿を覚えている。
二人、草の上に横になって月を見上げていたことも。
今はきっとダアトに居るのだ。
そして直にではなくヴァンの部下が間接的に――しかも隠すように持ってくるということは、ヴァンが自由を奪って、命を握っているのにほぼ間違いないだろう。
その中でも、セレニアの花を贈るなど。
見守ってくれているとでも、いうのか。
傍らにいられなくても、以前ずっと言っていたように守ってくれようと、しているのか。
こころが酷く疲れた時に、不意に、耳にあの歌が聞こえて来る時がある。
気のせいだとしても、その旋律は昔、温かい腕の中で眠る自分に向けて奏でられていたことを思い出すと、こころの重みがふっと、軽くなり癒されるような気がするのだ。
ああ、一緒に居るということはこのことか、と強く実感しては、あの別れの時に感謝も何も告げなかったことを後悔する。
その後悔が胸に湧くたび、早く逢いたいと気が、こころが急く。
あの時から、ルークのこころのどこかの時間が止まったままなのかも知れなかった。
感謝と、そして、守られてばかりではないことを、伝えたい。
今どこにいるのだろう。自由にならない身がもどかしい。
いつか必ず戻ると彼は言ったのだ。
逢いたい。
ノックする音が響いて、ドアの向こうでメイドが声を掛けてくる。
それにガイは気配を殺して窓に向かう。
「おっと、じゃあ俺はもう行くな」
「ああ」
――そして、物語が始まる。