目の前に広がるのは、星空と月と、そしてセレニアの花。

耳に届く波音はバチカルとは違う響きを持って、まるで迫るようだ。

切り立った崖に囲まれたこの場所は草も木も高く生い茂っていて、周辺を見渡してもここがどこなのかすらの見当さえ付かない。

だが、ルークにとってこの状況は好都合だった。

どこだかは全く判らなかったが、自分の屋敷のあるバチカル城下ではないことは確かで、それはつまり、今なら誰にも咎められることなくこのままダアトに向かうことが出来る、ということだ。

バチカルでは、精力的に社会福祉に貢献するナタリアに負けじとアッシュも協力している分(情けないことに協力だけなのは、幾ら王位継承権がある公爵子息であっても所詮自分のものではなく親の金であり、王女よりはるかに実行出来る権限が少ない上に国王直々の命令でほぼ監禁の身だからだ)、顔が民衆に多く知られている。ただでさえ制限されている行動範囲が更に狭まされた。

『擬似超振動』でバチカルを脱出するなど想像すらしたことなどなく、それならヴァンとの稽古でたまには本気でやってみれば良かったと思う。

ダアトに向かった後の計画など全くないが、確実な方法ならば特別な用意などせずともあった。

自分の顔を、髪を隠さずに教会の中を彷徨けば、反応する人間が絶対に居るはずだ。

それがルーク自身の命を危険に曝すことだとしても、自由だと思うと高揚する気持ちが焦る気持ちに拍車を掛けて、落ち着かない。

何が起こったとしても、自分には『超振動』があるのだから。

あのまま成人までバチカルに居たとしても本当に自由など得られるはずがないことは、多少知恵のある子供ですら判る。新たに頑強な檻と鎖で縛られるだけに違いない。

そんなのは到底耐えられないし、何よりもう待てない。

右手が無意識に上着の上から胸の辺りへと伸びたその瞬間、

「あの…大丈夫?怪我はないかしら?」

背後で草を踏みしめる乾いた音を立て、一人の女が静かに声を掛けてくる。

気が付いたらしい。

「どうやら私と貴方の間で超振動が起きたようね」

「ああ」

「貴方も、第七音譜術士だったの?」

――…そんなものだ」

本当は微妙に違うが、いちいち説明する気は全くないので適当に返事をしながら振り返れば、少し離れた位置で立ち止まった女が首を傾げる。

仕方がないから付け加えた。

「…生憎と、治癒の才能はなかったようだ」

そう、と女が小さく頷く。

その仕草に、肩から灰色掛かった栗色の髪がさらりと落ちた。

『彼』と同じ色、そしてあの歌。

『彼』が歌っていたものと、全く同じ歌だった。

今までどれだけ調べても、どこにも記録されてもなければ歌う地方も判らなかったが、どうやらこの目の前の女に訊けば解決するようだ。

それに気付くと同時に思わず手を出してしまったが、聞きたいことだけを訊いたらすぐに別れるのが賢明だろう。

まさか手を出して『擬似超振動』が起こるなどとはルーク自身思っても見なかった。

彼女の罪の半分はルークの短慮の所為でもある。今頃バチカルでの騒ぎを考えれば頭が痛い。

「謝ってすむことではないけれど、本当にごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって。貴方は私が責任持ってお屋敷に送るわ」

女は項垂れながら小さな声で謝罪してくる。そんなささやかな声ですら耳に確かに届くのは、さすが音律士ということか。そう感じながら、

「知らん」

間髪入れずに返したルークの言葉に、女はきょとんと子供のようなあどけない表情で驚いて、動きを止めた。

…この顔が彼女の本当の顔かも知れない、と幼馴染みの従姉妹を脳裏に思い出しながら思う。ルーク自身の社交の場は小さいものだが、それでも従姉妹の特に髪の色に対する風当たりの強さは相変わらずだった。だが毅然と、そして堂々とどこまでも彼女は気品に満ち溢れている。

見れば目の前の女は、ダアトの兵士が身につける制服を着ているようだ。

軍という力がものを言う場所では、気も張るだろう。

そんなことを考えながら反応を待てば、意味が判らなかったのだろう、僅かに首を傾げてルークの表情を覗ってくる。

「え…?」

「お前など、知らんと言った。俺の質問に答えたら、さっさとどこなりと行け」

そっけないルークの言葉によりいっそう戸惑う様子を見せたのは一瞬で、姿勢を改めると顔を確りと上げ、畏れる様子もなくルークを見詰めながら、口を開く。

「あの、私…」

だが。

女が続けようとした言葉を、やはりルークは右手を挙げることで止めた。

ここで別れるのだ。何も聞こうとは思わないし、聞いてはならない。質問に答えれば後はどうしようと構わないのだ。だからこちらも理由だとかを訊く気はない。

――俺がこのままお前と別れれば、キムラスカはお前を追わない。……お前の所属する組織がお前の命をどうするかまでは知らんがな」

――っ!」

この女の行動は色々問題があるが、偶然とはいえバチカルから出ることが出来たこと――自由を手に入れることが出来たことに対して、少しは感謝しても良い。

自分が目的を果たしてバチカルに戻った時には、この女に代わって色々と言い訳をしてもいいと、ルークは考えたのだが。

夜の闇に浮かぶ顔色は窺い知れないが、先ほどのルークの言葉に肩を体を大きく震わせ胸を押さえた後、再び項垂れるように俯いていたが、一つ、深いため息を吐いた後、

――貴方をバチカルへ送るわ」

瞼を閉じたまま、声が震えるのを自分に禁じたのか、硬い声でそう、告げた。

なるほど、この女は呆れるほど生真面目な性分らしい、とルークは思う。

せっかく見逃してやると言ったのに、自分のしでかしたことを判った上で連れて行くという。バチカルに戻ればどうなるかも判るだろうに、下手に責任感も強い。絵に描いたような『優等生』、というやつだ。

そんな『優等生』など、役に立つのは上官の前だけで、最悪上官にとっても扱い易い駒だろう。

――きっと、『彼』に出会わなければ自分も同じようなものだった。

この女の生真面目な部分は、ルーク自身の押し隠した古傷を引っ掻く。そしてその傷口からまた、再び苦い思いだとかを思い出させる。

正直、同じ場所に居るには精神的苦痛を伴う相手だった。

今度はルークがため息を吐く。

「…馬鹿か。そんなものは何の足しにもならない」

出会ったばかりの人間から、突然馬鹿と言われて反応しない人間などいない。

ルークの目の前の女も決死の決意を馬鹿にされたかと眉を跳ね上げたが、無視して続ける。

「目的があるのなら、どんな手段を使っても生き延びる道を選ぶものだろうが。目的を達成してこそ意味がある。達成する前から、最初から命を捨てるつもりでやることなど、上手くいくはずがない」

自分の命を大事に出来ない人間など、ルークは一番嫌悪する。

どうしても譲れない部分は人間誰にでもあり、ルークにとって命の話はそれだった。あの思い出が、ルークが生きている、それだけでいいと言い切った存在が、そうさせる。

「自分は死んでも…などど、そんな自己陶酔に付き合うために、俺はバチカルに戻るつもりはない」

自己陶酔、とまで言われて傷つかない人間などいやしないし、何も知らない人間が偉そうに口に出来る言葉でもないが、ルークには感情を押さえる気はなかった。

別にこの女に説教するつもりもなく、なるべく強くなりすぎないように抑えた声が逆に、相手を竦ませることは判っているが、相容れない部分で衝突するのは仕方がない。

案の定、目の前の女もルークの押さえつけた怒気に体も表情も硬くしている。

「わ…――私、私は……まさか、こんなことになるなんて…急がないと手遅れに…、ヴァンを殺さないと、その思いだけで…」

「突っ走って来たのか」

どうやら、この女は一つのことに集中すると周りが見えなくなるようだ。

その様子は、『彼』を求める余りに冷静さを失いそうになるルークにも似通う部分に感じて、自分を落ち着かせるために肺の底から深いため息を吐く。

目を合わせないままルークは女に背を向けると、絨毯のように敷き詰められたセレニアの花から少し開けた場所へ移動し、枯れ枝と枯れ草、それから手頃な石を幾つか拾っていく。

そして夜露が凌げそうな木の下、石で囲った地面にまず枯れ草を適当に置くと、小さな声で詠唱する。最低限に弱められた譜術の音素が弾けて枯れ草に火がついた。

その火が安定するように徐々に折った枯れ枝を増やしていると、そっと背後から女が声を掛けてくる。

「移動しなくていいのかしら。ここは魔物も居るし、水音がするから川を下っていけば…――

「確かにちらほら魔物が見えるが、何故かこちらまでは入ってこない。今夜はここで野宿する。今の装備も心許ない上に、暗いと山道の目印にも気付かない。わざわざ視界の悪い夜を移動して危険を増やす意味はないだろう」

そして夜の方が魔物もやっかいだ、と続ければ、女は驚いたような顔をして口元に手を遣ると、ルークを見詰める。

「貴方……貴族なのに、随分慣れてるのね」

――昔誘拐された時、逃げるためにある商隊にただの子供として数日間紛れ込んだことがある。俺の護衛が元傭兵だったのもあって、色々教わった」

夜移動する時に気をつけることも、星の読み方や薬草の見分け方、野営の時に暖を取る場合の準備の仕方も。あの馬車での時間を長く、そして楽しく感じたのも、きっと『彼』が様々な話をしてくれたからだろう。

ルークが本で得た情報と、実際に触れて、感じる経験は全て新鮮で全く違う。『彼』はとても不慣れで不器用だったが、自分の周りの誰とも違う豊富な経験を持っているのが、幼いルークにも眩しく映っていた。

「元傭兵が、貴族のお屋敷に?」

木の根元に腰掛けたルークの傍らに、女は集めた枯れ枝を持って来た。

そして正面にある、僅かに盛り上がった石へと腰掛ける。

これだけあれば一晩は保つか、とルークは判断してまた焚き火へと枯れ枝を投げ入れた。煙が出ても、ルークの寄り掛かる木に茂る葉が薄くして、夜盗に狙われる危険も減る。

「白光騎士団員として試験を受けて屋敷に来た。剣の腕はヴァンと互角くらいだろう」

確かに彼の経歴は変だ。

元傭兵として資金を貯めて勉強し白光騎士団の試験を受けたそうだが、今思えば屋敷に来た時にはあの年齢――今の自分とそう変わらない程度だった。

では、傭兵として働いていた時の彼の年齢は幾つだったのか。

最近、あの商隊の御者が『彼』に言った言葉が頭から離れないでいる。

「そんな人がキムラスカにも居るなんて…ヴァンではなく、その人に剣を教えて貰わなかったの?」

教えて貰いたかった。

驚きで目を僅かに瞠る女の言葉に、自然とこころから言葉が零れる。

あのころ、『彼』とガイが時折休憩時間に稽古をしていたのを、遠くから見ていた。

まだ基礎の基礎、木刀で素振りを何百だとか、剣舞の型を覚えている程度の自分には出来ない遠慮のない攻防は、剣舞よりも綺麗だと思っていた。

お前がもう少し大きくなったらな、と言って『彼』が柔らかく笑う、その仕草が『彼』と自分の大きな差を見せつけられるようで。

――とても、ガイが羨ましくて悔しかったのだとは、未だに口に出来ない過去だ。

――もう、傍にはいない」

つい、と視線を逸らした先、セレニアの花が淡く光って風に揺れていた。

* * *

ぱきんと焚き火の枝が爆ぜる、その音をきっかけにするように、女が口を開く。

「……訊かないのね」

「何をだ」

夜が更に更けたのが、気温で判る。

少し火を強くしようと焚き火に空気を送りながら折った枝を足していけば、まっすぐに視線を合わせて来た。

「私が、貴方のお屋敷に侵入してまで、ヴァンを殺そうとした理由」

冷たい温度で吐き出された声は落ち着いていた。

ルークは一度手を止めたが、すぐに行動を再開して枝を投げ入れる。

「訊く気はない。言いたいのか?」

「いいえ。――貴方に話しても仕方ないことだと思うし、理解できないと思うわ」

自分だけで解決出来るとでも言うつもりか。

そういう頑ななところがまた以前の自分を彷彿とさせて、ルークは何とか舌打ちを堪える。

すぐに別れる人間のことに首を突っ込む余裕など、今のルークにはないのだ。

「じゃあ、貴方は私に何が訊きたかったの?」

そう問われて、最初に「俺の質問に答えたら、さっさとどこなりと行け」と告げたことを思い出した。

色々と面倒なやりとりでつい失念していたが、そもそもこの女に関わろうとしたのは、歌について知りたかったからだ。

――お前の歌について知りたい。ただの譜歌で強制的に眠りに落ちたりはしない」

強い視線でルークを見詰めてくる女に、同じくらいの視線を向ければ、女はため息と共に瞼を伏せる。

互いの間の焚き火が、ちりちりと女の顔を照らした。

「…この歌は、ユリアの譜歌よ」

ある意味厳かともとれるような声音で、その言葉が淡い色をした唇から発せられる。

ユリアの譜歌。

譜術を学ぶ上で、まず御伽話のように教師から出てくる話だ。

ユリアが遺した譜歌は譜術と同等の力を持つが、暗号が複雑で詠み取れた者がいないはず。

しかし目の前の女は確かに歌っていた。――そして、『彼』も。

「それは、お前だけが歌えるのか?」

「いいえ、私と、あともう一人だけ歌える人間が居るわ」

もう一人、という言葉に、久しぶりにどくりと期待で胸が音を立てる。

何故、この女がユリアの譜歌を歌えるかなどはどうでもいい。だが、『彼』がどうして歌えるのかは知りたかった。

髪と瞳の色も、ルーク以外の人間達が見ていた『彼』と同じもの。この女は少なからず『彼』と関係があるに違いない。

そう思いながら再度問い掛ける。

「誰だ」

「ヴァンよ」

思ったよりあっさりと返された返事に、ルークは思わず眉間に皺を寄せる。

聞き間違いであって欲しいと思う気持ちをあざ笑うかのように、現実は甘くなかった。

「ヴァン、だと…!?」

「ええ。だから野放しにはしておけないの」

なんだそれは、ユリアの譜歌がとてつもない威力を持っているとでもいうのか。

そう思いながら視線を向ければ、女はもう質問は終わったと判断したのか、僅かに顔を上げ、夜空を見上げている。

「…空が、綺麗だわ」

まるで初めて見るかのように、声を震わせた。

* * *

――バチカルに戻らないですって!?」

朝靄にけぶる山中に、素っ頓狂な声が響いた。

「別に一生戻らない訳じゃない。お前のその制服、神託の盾の兵士なんだろう?ちょうど良い、俺はダアトに用がある。俺を本部まで案内しろ。そこで別れればいい」

その後この女がどうしようと、もうルークの関知するところではない。

そう含めて言えば、やはりというか責任感の強い生真面目な性格のこの女は、眉を跳ね上げて説き伏せようとしてくる。

「ダメよ、貴方は一刻も早くバチカルに戻らないと――

「どこか街に着けば鳩が飛ばせるだろう。それで外に出たついでに物見湯山にでも行くとでも連絡しておくさ。何せ生まれてこの方、バチカルとベルケンドの往復しかしたことがないんだ。この有様で王が継げるとは思えんとでも書いておけば、大がかりな捜索はされんだろう」

ガイ辺りが苦労することになるだろうが、と頭の隅で思ったが、ルークが今ここで考えたところでどうしようもない。せめて頑張れよ、と他人事のように思った。

別にこの女は間違ってないとはルークも思っている。出来るだけ早くバチカルに戻り、身の安全を確保し事態を説明するなり処分を下すなりするのが優先されるということは。

だが。

「ちょっと待って――

女が更に言い募ろうとしたその時、ルークが不意に気配を感じて背後を振り返るのと、女が杖を構えるのはほぼ同時だった。

「誰だ!」

「誰!?」

「おやおや、まだ現地にいたとは…これはまた、ご親切にと言うべきでしょうか」

低い、けれど良く通る声がして、複数の気配が草や木で溢れかえる二人の元へと進んでくる。

青い鎧を身につけた兵士を一小隊ほど引き連れて現れたのは、やけに背の高い男だった。

すぐに目に入ったのは、鮮やかに目を灼く真っ青な軍服と蜂蜜色をした艶のある髪。

そして、軍人には有り得ないはずの眼鏡とその奥の赤い瞳がまっすぐに二人を見据えている。

「…マルクト軍…!?」

思わずルークの口から言葉が漏れる。仕方がない、数年前の戦は両国間で深い傷を残している。実際にその戦争に関わっていないルークですら、慰問に訪れた各場所でその傷跡を実感していたから、思わず顔を顰めてしまうのも無意識だった。

眼鏡を掛けた長身の男は若く見えたが、淡く笑みをたたえる表情はくせものだった。一筋縄どころではない、油断はするべきではないとルークの直感が警戒している。

「ええ。私はマルクト帝国軍第三師団所属ジェイド・カーティス大佐です」

「ジェイド…、では貴方は、あの…」

死霊使いか、という部分を濁したのは、口にすることを忌んだからだろう。

確かに進んで口にしたい名でもないし、何より本人が呼ばれることを忌避しているかもしれないものを、敢えて口にすることもない。

「失礼しました。私は神託の盾騎士団モース大詠師旗下情報部第一小隊所属、ティア・グランツ響長であります」

髪といい瞳といい、色合いが同じだとは思っていたが、妹か。

妹が決死の思いで兄を討ちに来るとは、ヴァンが何をしでかそうとしているのか更に気になって来た。しかもヴァンの計画には自分が重要な位置を占めていると思われる。

放置しておくには、後々良くないような予感らしきものがひしひしと押し寄せてくるような、圧迫感をルークは感じていた。

そう思いながらティアを見ていると、ジェイドと名乗った軍人がじっと無言でルークを見詰めるのが判った。それに一つため息を吐いて答える。

「……ルーク、だ」

「あの、何故マルクト軍の方がここに…ここで何か、事件でもありましたか?」

ティアの問い掛けに、ジェイドはわざとらしい程の笑みを向けて肯定する。

「ええ、そのようなものです。お二人はいつからここに?」

「え…あの、昨夜からですけれど。それが何か?」

ルークは警戒して言葉を挟まないから、必然的にティアとジェイドの二人だけで話が進行しているのを、少し離れた位置で見守る。

「そうですか。実は、カイツールで別の任務に就いていたところ、昨夜ここで近年軍が手を焼いている盗賊団と思われる男女の声を聞いたと通報がありまして、至急駆け付けた次第です」

「そんな…!私たちは盗賊団ではありません!それに何故マルクト軍が…!」

自分たちのことだと暗に言われて、ティアが反発する。

あの死霊使い相手に怖いもの知らずとはこのことか、とルークはその様子を眺めながらしみじみと思う。

「ええ、そのようですね。何より報告書の人相書きとは大きく違います。それに、どこと勘違いされていらっしゃるかは知りませんが、ここはマルクト帝国の一部、タタル渓谷ですよ。私が居ても少しも問題ありません」

「なんですって、ここはマルクトなの…!?」

驚くティアの隣で、ルークは頭の中に地図が浮かべる。バチカルから海を越えてよく飛んだものだが、そこまで飛距離があるようには思えない。このジェイドというマルクトの軍人が出てこなければ、ティアに強引にでも杖を構えさせてまた『擬似超振動』でどこぞへ、あわよくばダアトへ移動しても良いと思っていたのだが。

自分一人で超振動が起こせるのだから、この辺りを訓練しておけば良かったとルークは思う。

今からでも遅くないか、と今後の訓練内容について理論などを考えていると、ジェイドがわざとらしい咳払いを二三度するのに、視線を向けてやる。

すると嘘くさい笑みにはち合わせた。

「そして説明させて頂きますと、私が就いていた任務というのは、本来の任務中にキムラスカ・ランバルディア王国王都方面から発生し、タタル渓谷で収束した正体不明の膨大な第七音素について、原因を特定することです。――という訳で」

その長身を優雅に、無駄のない動きで屈めて礼の形を取る。見慣れないそれに隣の女がびくりと反応しているのを、ルークは眇めた目の端で捉えていた。

「私の上司が居るエンゲーブまで、何卒ご同行願えますでしょうか、ルーク・フォン・ファブレ様?」

丁寧な言葉、仕草。しかし向けるその表情は何かを含むようで、気に障る。

――その名を出すのなら、相応の対応をして貰えるんだろうな、バルフォア博士?」

おや、とジェイドはその赤い瞳を僅かに見開いたが、すぐに得体の知れない笑みを再び纏うと、もちろんです、しかし軍人は何かと粗雑で申し訳ありませんが、と返してルークを仕草で促す。

動揺の欠片もないそれに、クソ、と舌打ちをしてルークは足を踏み出した。