剣を振るう。

耳をつんざく金属音と共に受け止められ、そして弾かれる重い衝撃にも慣れた。それから体勢を整えるやり方も、そのまま反撃に出るように反射も体に叩き込まれた。思考せずとも次はどこを狙われるかを察知して、防ぐ。

もはや何のためにこうしているのかも判らない。

張り上げる声は雄叫びだ。服は汚れ破け、髪も乱れ獣のような姿で、目の前に立つ男へと斬りかかって行く。

その繰り返しを、もう何度、何百何千と続けているのか。そのことすらもが思考の端に思い浮かぶことなく、腕の一部になったかのように重さすらも感じず、ただ無我夢中に剣を突き上げる。

その鋒は、避けられる――はずだった。

――っ!?」

鈍い、けれど確かな感触を持って。

ルークの剣は、アッシュの胸を貫いていた。

「…こんなもん、か……手間取らせやがって…」

己の胸を突き破る剣と、その傷を見詰めながらアッシュが冷静に呟くのに、ルークは驚きに目を瞠り、あからさまに取り乱した。

咄嗟に剣を引こうとして、だが思い止まる。普通なら抜いてはならない。だが、目の前に立つアッシュは一滴たりとも血を流してはいなかった。どうするのが正しいのか。見当もつかない。

ルークの受けた衝撃は生半可なものではなかった。無様にも、剣を握る指が、腕が震える。こんなのは初めて人間を切りつけたあの時以来で、情けなくも悲鳴を堪えるのに必死だ。

――ッ、な……、何故…」

久しぶりに出した人間らしい声は、とても掠れていた。

確かに殺すつもりで攻撃はしていたが、それはアッシュがそのつもりだったからだ。それは剣術の稽古、更にはアッシュの気性からして当然で、その結果こんなことになるとは思ってもなかった。

「うろたえるな。ただの記憶に痛みも死もない。このまま音素に解けてお前に統合するだけだ」

その言葉通り、血が流れることもなければ痛みに苦しむ様子もない。そのことで一応安堵したものの、これは一体、どういうことだ。

あの攻撃は、アッシュならば軌道をずらすことも、その上で反撃すら可能だっただろう。それなのに。

そこまで考えて、不意に気付く。

目の前のアッシュの胸に空いた傷から、血の代わりにさらさらと金色の音素が解けてこちらへと向かってくることに。

動きを止め、そこでやっと、己の現状がどうなっているのか、そのことに目をやる余裕が出来た。

互いの境界線が、完全な同一に近くなっている。

それはつまり、戦っている間も、記憶の統合は行われていたということだ。アッシュは記憶で成り立った人格、意識集合体だ。ならば統合する場合、器――体の方へと入り込むのが自然だろう。

そうして、攻撃を避けることも困難なほど、姿を保つことしか出来なくなっている、ということだ。

だから出会ってしまえば避けられないと言ったのか。確かにルークの意見など関係ない。アッシュは完全に統合される前にルークを鍛えようとしたのだ。

口であらかじめ言えばいいものを、知らない人間を仕方なく排除するのと、知っている人間を斬るのは受ける驚愕も衝撃による動揺も大きく違う。とんでもないことをしたと、頭の中を占めるのは後悔や狼狽ばかりで、もはや戦意などは微塵もない。

間近に立つアッシュの様子に見入っていると、彼が口を開いた。

「いいか、お前はあのレプリカの所為で、深い憎しみによる狂気と、それから生まれる殺意を知らねえ。決死の覚悟を持ったことのないお前が、知り合いを、師と仰いでいたヴァンを殺せるはずもない。それじゃあ困るんだよ。

――だから、せめてテメエに度胸付けさせてやる」

「…度胸、だと…?」

突然、剣を握るルークの手を、アッシュが力強く掴んで来た。

それにぎょっとしたルークは思わず手を振り解き離そうとするが、その抵抗を無駄とでも言うかのように、より力尽くでアッシュは押さえ込む。

「俺を今刺したように、絶対にヴァンを殺せ。余計なことを考えるな。躊躇うな。見逃してやろうなんて余裕は、お前たちには一切ないと知れ。殺せる時に、確実に、息の根をお前が止めろ」

余りの内容に怯むルークの襟首を空いている手で掴んで引き寄せ、静かだが強い声で畳み掛けて来る。

「『ルーク・フォン・ファブレ』、お前が、ヴァンを殺せ。世界を変えることが出来るのがアイツだけだろうと、預言に詠まれているのは確かにお前だ。自分自身の運命に己でケリをつけろ」

さっさとこのくそったれな喜劇の幕をテメエの手で引き下ろせ。

そう凄んだアッシュは、やっとルークを開放した。ルークが剣を抜くと、よりいっそう金色に輝く粒子が広がってルークへと向かって来ては、そのまますうと吸い込まれて消えていく。

「ローレライの解放は、覆せない事象だ。ローレライの解放には鍵がいる。鍵はローレライの剣と、ローレライの宝珠を一つに組み合わせたものだ。宝珠はお前に預けておくが、――ローレライの剣がどこにあるか、覚えてるな?」

今起こっている現象に、許容容量を超え放心状態だったルークは、アッシュの言葉を飲み込めず呆然と見返した。

…ローレライの剣?

――ローレライの剣は、確か……

『彼』とその器を繋ぐものとして、『彼』の体内にあるのだと、アッシュは言った。

その剣を使うためには、『彼』の体から、何がしかの手段を持って取り出さねばなるまい。

だが、それを失ったら、『彼』はどうなる?

本来の自分の体ではない、自我が生まれなかったとはいえこの世界のレプリカの体は、ローレライの剣を失っても保っていられるのか?

そもそも、過去が巻き戻されたのなら、あの体は『彼』のものでもいいはずだというのに、ローレライの剣で繋いだのは何故だ?

…もし。

世界に、全く同じ存在が同じ時間には、存在出来ない。その場合、大きな矛盾を孕んでしまう。

だからあのレプリカが生まれた時、『彼』がこの世界に存在したことにより、全く同じ存在だというのにそうはならず、微妙なずれのようなものを起こすことで世界が安定したとしたら。

音素振動数のわずかな違い。完全同位体であることに支障がない程の、歪み。

そしてもし、自我が生まれなかったことにより、この世界でのレプリカルークは『死んで』いたとするのなら。死んでいるということを、今『彼』がその体を使うことにより誤魔化している状態だとしたら。

その誤魔化しを、ローレライの剣が担っているとしたならば。

「まさ、か…ッ」

最悪の想像をしたルークの驚愕をものともせず、アッシュは更に重く、冷たい威圧感を放ちながら己と同じ声で、告げた。

「お前の手で、『ルーク』を殺すことを、躊躇うな」

その言葉はルークにとって、絶望と同じ温度だった。

「躊躇ったところで、結局《大爆発》が起こってアイツは消える。――だが、お前は《大爆発》をけして完了させるな。お前が弱りきる前にヴァンを殺し、アイツからローレライの剣を抜け」

「そんなこと、出来るわけがないだろう!!」

声を張り上げる。

自分を救ってくれた『彼』をこの手で殺すなど、そんな恐ろしいことが出来るはずがない。

『彼』はルークの全てだ。《大爆発》が避けられない運命だとしても、それはオリジナルであるルークが死にでもしない限り、急速にやってくるものではないだろう。ならばその短い間だけでもいい、二人で穏やかに過ごしたいと考えていた。

『彼』の居ない未来など、ルークには考えられない。誰に必要とされずともいい、『彼』がいるならば。やっと、『彼』を傍らに過ごせるとそう、思っていたのに。

それとも訓練を受けた、いや、かつてレプリカを憎んでいたアッシュなら出来るとでも言うのか。それなら、記憶の統合などお断りだ。そんな暴挙を許せるものか。

「泣き言言ってんな、この甘ったれが。どのみち、アイツはこのまま生きてられねえだろうが!」

「ふざけるなっ、お前は出来るから俺にやれとでもいうのか!?」

「出来る出来ねえじゃねえ、やれってんだよ!! お前しかやれないことだろうがッ!」

ルークの血を吐くような拒絶の言葉は、アッシュになんの感慨も与えなかったどころか、微塵の揺らぎさえ与えることも出来ずに、呆気なく叩き落される。

「アイツが、俺が、苦しみにのたうちまわって得た未来と同じ覚悟を見せてみやがれ、ルーク!!」

そう叫んだ時、目の前のアッシュの姿は一瞬にして金色の音素へと変わり、散って。

ルークの中へと、入り込んでいく。

そうして、ルーク独りとなって佇むこの世界が、ルークにとって見慣れた光景を映し出していた第七音譜帯が、第七音素の粒子となって弾けた。

――壊れる。

壊れるのは自分か、この空間か、それとも世界なのか。

全ての景色が金色に塗りつぶされ、そして砂漠の流砂のように流れていく。視界にはただ、目映い黄金の海。それはルークを飲み込むと、途端に急激な浮遊と落下の感覚に同時に襲われ、ルークの疲弊した意識は耐え切れずにふつりと途切れた。

* * *

誰かの声がする。

同時に体に受けている刺激にも気が付いて、それらによって次第にぼんやりと思考すらなかった意識が明瞭になってくるのが判った。

――…ーク! ルーク!!」

ああ、『彼』の声だ。では恐らくここはオールドラントの地面の上で、アクゼリュスでの出来事からそう時間も経たず戻ってこれたはずだ。

頭痛に呻いて額を抑える。一呼吸ごとに浸透してくるものを、意識せずとも受け入れていく。

「ルーク!? 大丈夫か?」

――ああ、そうか。

これが統合されるということか。

言葉にはし難い感覚が体を、記憶を若干乱暴な力で巡っていて、それが頭痛となっていたのだけれど、それも次第に引いていった。そのことに体が自然と弛緩し深く、息を吐く。

そうして全てではないが、ある程度の情報が整理されると、当然のように違和感が襲って来た。

ここはどこか、今どんな状態かという状況判断よりもなによりも、先に。

違和感を解消するべく、自分の心配をする相手に向かって、左手を振りかぶっていた。

完全に油断していた『彼』は、その拳をまともに食らってひっくり返り地面を滑り、痛さに呻き転がったあと、がばりと腹筋の力だけで上半身を起こして叫ぶ。

「いってえええええ!! なにすんだよ、ルーク!」

「お前は馬鹿かッ!!」

気づけば立ち上がっていた。立ち上がってそう怒鳴っていた。

だって許せるはずがないだろう。

『彼』はそれこそ、歌うように。

『ルーク』と呼んでくれていたけれど、その名前は、本来なら。

「それはお前が死に物狂いで手に入れたものだろうがッ!」

『彼』は幼い子供のようにきょとんとして、こちらを見上げている。その無防備ないとけなさが切ない。こちらの怒りをまるで判っていないこいつは、なんて愚かだ。

放心状態でこちらを見詰めている『彼』の腕を引き、立ち上がらせた勢いのまま強く、抱きしめる。

今だけ《大爆発》のことは忘れて、肩の骨が軋もうが背骨が折れんばかりに締め付けてやった。

「この、馬鹿が…」

名前は、己を存在づける重要なものだと思う。『ルーク・フォン・ファブレ』がキムラスカの王位継承権を持つ人間を示すように。その人物が何をしてきたのかを、一言で表せられる、そういうものでもあると思う。

そうやって、自分に与えられただけでなく、自分が得たものまでもを何も知らないオリジナルに返して、それが。

それが、『彼』の幸せだというつもりか。

自分を犠牲にすることしか、他に手段を知らないからか。

――人ひとり、それもお前の命を犠牲にして、生きていけるほど俺が強いとでも言うつもりか。

冗談じゃない。

ああ、冗談じゃないとも。

――こんな『彼』をこの手で殺さなくてはならないだなんて、本当に冗談じゃない。

その後しばらく名前の譲り合いという不毛な言い合いが続いたが、それは譲歩出来ないこととはいえ、どちらかといえば僅かに現状からの現実逃避に近かったのかも知れない。

『彼』は恐らくルークから『アッシュ』の記憶が、もっと言えば以前『彼』がしでかしたことが、ルークの口から出ることに対して怯えているようでもあったし、ルークはルークで、自分の身に起きたことをなんとか受け入れるだけで精一杯だった。

「どんな思いでその名前を手に入れたか、判ったからにはお前こそがルークだ」

「お前だって、努力して『ルーク・フォン・ファブレ』に相応しくあろうとしてだだろ!」

「忘れたのか。『ルーク・フォン・ファブレ』は『アッシュ』だということを」

はっとしたように、『彼』が息を呑む。

「それに、俺はいずれ『ルーク・フォン・ファブレ』の名を捨てるだろうし、これから『ルーク・フォン・ファブレ』としてだけではなく、『アッシュ』としてやらねばならないこともある」

「しなきゃなんないこと? …それってなんだ?」

「そうだな…まあ、色々とな。ああ、そうだ、あまり俺に近づくなよ」

言い合いよりも前に抱き寄せておいて今更過ぎる上、意味があるかは不明だったが、数歩ばかり距離を取る。

「…うん、《大爆発》が始まってるだろうしな」

ルークの行動にしょんぼりと肩を落とす様が可哀想だが、仕方がない。

「それもあるが、俺にはローレライの宝珠があるからな。お前にとっては危険だろう」

そうして上着の内ポケットから、いつの間にか装備されていた赤く球状に光る響律符を取り出して見せる。

ローレライの剣で相殺されるかもしれないが、やはり全て第七音素で出来ている体だ、用心してしすぎるということもないだろう。

「それで、ここはどの辺りだ? これからの予定ではどうなってる」

いつまでも、現状把握もせず言い合いばかりしていては仕方がない。周囲を見渡すが残念ながらいつかのように夜だった。しかも森の中。

「あ…うん。えっと、ここはキムラスカとイニスタ湿原との間の、山の中だ。ジェイドとは、シェリダンで落ち合うことになってる」

どうやら、『彼』がオールドラントに戻された後、周囲を捜索しながらの移動中に突然、ルークが気を失った状態で現れたらしい。その説明に、ルークは自分の装備や服装を確認して、あの第七音譜帯での名残はどこにもないことが判る。ただ、武器だけがどうしても釣り合わないので、新しく調達したいところだ。

「そうか。それなら、湿原を突っ切ってベルケンドでヴァンの部屋でも覗いていくか。――スピノザのことは?」

「それはもうジェイドが…って、あー…」

普通に言葉を返していた途中で、いきなり脱力してしゃがみ込む。

「なんだ、変な声を出すな」

「だってさ、ルークとこういう会話するようになるなんて思ってなかったっつーか…」

頭を抱え込む『彼』をじろりと睨むと、気まずそうにもごもご口を動かしたあと、ぼそりと訂正した。

「う、…アッシュと、です」

「それならおかしいことなんてないだろうが」

「ああ、うん、そうなんだけど! そうなんだけどさー…慣れねええええ」

「慣れないのは、お前だけだと思うな」

風で流れて来た夜の空気にしっとりとした水の気配が含まれているのを感じ、前髪を乱雑にかき上げ、肩を流れる髪を払うついでに、紐を取り出し項で一纏めにする。

堅苦しい親善大使の衣装もところどころ緩めた。ベルケンドで着替えて、早く自分を『ルーク・フォン・ファブレ』だと証明するものから離れたい。

今、預言に従うために、繁栄を呼ぶために、『ルーク・フォン・ファブレ』を殺しても、誰も罪には問われないのだから。

視線を感じて振り返れば、何故か『彼』がじっとこちらを見詰めているのとかち合った。

「…何だ?」

「えっ、いや、べつに! なんでもねえよ!」

えへへと後頭部に手をやり誤魔化すように笑うのを訝しんで眉を顰めれば、『彼』は慌てたように胸の前で手を降って、言葉を続ける。

「たださ、お前と二人、ベルケンドって懐かしいなって思っただけ!」

そう言って、照れたようにはにかむ『彼』に、胸が詰まる。

『彼』にとってベルケンドは、仲間に見放されたことを見せつけられ、改めてヴァンに拒否され、そして。

余命幾許もないと、宣言された場所だろうに。

* * *

「ああ、間に合いましたね二人とも。一時は一体どうなることかと思いましたが」

乾いた空気の中、ベルケンドとはまた違った雰囲気で雑然としていて、けれど譜業の技術がそこかしこに狭苦しく、ふんだんに詰まっている街。

ベルケンド経由でたどり着いたシェリダンで、技師達となにやら話し込んでいたジェイドが集会所に入って来た二人に気付き、そう言っていつものあの胡散臭い笑みで出迎える。

「ルーク、シンクとイオン様、そしてガイが、飛晃艇ドッグにあるディストの作業場に居ますよ」

ジェイドの視線は『彼』に向いていた。ジェイドは当たり前に『彼』をルークと呼ぶ。今だけでなく、アクゼリュスでも。

それはつまり、いくら『彼』がどう言い募ろうとその名前は彼を表すもの、そういうことだ。

その事実を悔しいと思う感情は、自分の中には――『アッシュ』の中にもとうにない。

「アルビオールの整備が終わりそうなのか?」

「ええ。今回は無事に試験飛行が出来るでしょう」

にこやかに返すジェイドの声には、揶揄うような響きも特になく、ただ穏やかで慈しみすら感じさせるものだった。

もちろん、傍で聞いているこちらは粟立つ鳥肌が抑えられないのだが。

ベルケンドで情報収集をして、戦争が始まるまでまだ若干の余裕があることを知った。そしてこの段階でアルビオールが完成しているのであれば、ヴァンに追いつくどころか、出し抜けるかも知れない。

なるほど、今回はジェイド自身が餌となり、ディストを孤立させなかったのか。ヴァンの計画にはディストの頭脳も技術も不可欠だが、そこを抑えられていると知らないヴァンは好い面の皮といったところだろう。

「俺も見に行ってもいいかな」

「ええ、あなたのことをとても心配していましたから、早く顔を見せてあげなさい」

「シンクは蹴り入れてきそうなんだけど…じゃ、俺行ってくるな!」

こちらに手を上げそう告げると、『彼』は身軽な動作で街の奥へと向かって行く。

ドアの向こうへと消えていく姿を見送ったジェイドが、残ったこちらへと振り向いた。

ジェイドの憎たらしいくらいの貌を見て、思い返せば色々言いたいこともあったように思ったが、そういうことは自分に起きた様々なことが流してしまって、形にならないまま消えていることに気づいた。

――それに、訊きたいことのほとんどは、既に判っていることでもあるし。

「ルーク様も、ご無事で何よりです」

「………」

「おや」

ついでのように向けられた視線と言葉に、なんとも言えない微妙な顔をした所為だろう、ジェイドは更に意味深な微笑みになる。

「違和感があるのでしたら、今後はアッシュと呼びましょうか?」

――ああ、そうしてくれ」

溜息と共に肯定すれば、これまでの様々なことも、これからのことも説明する役目を負うつもりもなかったくせに、その手間が省けたと言わんばかりに「それはそれは」と満足そうに頷いて、訊いて来た。

「あなたの記憶は、今までどこに?」

「第七音譜帯だ」

「それは何故? 第七音譜帯に居座る必要がありましたか? ローレライの代わりとして? 以前、ローレライは地底からでもチャネリングを行えました。『アッシュ』が第七音譜帯にいなくとも、不都合はないはずですよ。

――そういえば、今回はローレライからのチャネリングが一度もないそうですが…」

ちらりと探る温度でこちらを窺ってくる、その視線を受け流して答える。

「『アッシュ』が遮断していたからな。なにが《大爆発》の切っ掛けになるか、判らんだろう」

「ああ…だから、『アッシュ』はチャネリングを行わなかった、と?」

「正しくは、行えなかった、の方だな。今はともかく、器の方に差異が出ている分、記憶だけで成り立っている人格だった『アッシュ』とは、完全同位体と言えない状態だったようだ」

ローレライは人の肉体の差異など関係ないようだったが。

その答えに興味深げに聴いていたジェイドがふむ、とひとつ頷く。

「なるほど。それで何故、第七音譜帯に居座っていたんですか?」

「…あいつが一番触れていたのは俺で、なおかつオリジナルだ。ならば早くに記憶の統合が起こりかねない。記憶の統合が完了すれば、俺とあいつはこの時間軸での完全同位体。《大爆発》が早期に起こるのを避けたかった」

「そういうことでしたか」

ずっと気になっていたのか、ジェイドは大変満足そうににっこりと微笑んだ。確かに記憶を《思い出す》人間たちにとって、一番レプリカルークに近い『ルーク・フォン・ファブレ』だけが何故、いつまで経ってもそんな素振りもないのかは、さぞかし謎だっただろう。

「記憶の方は、私たちと比べてどのくらいの精度を保っていますか?」

「あいつと同じく、全てだ。――お前は自力でどうにかしてそうだがな」

軍人らしく姿勢良く佇むジェイドに苦笑して見せるが、ジェイドはそれには笑むだけで、言葉としては答えないまま続ける。

「ベルケンドでの検査結果に問題は?」

「まだ今のところ、問題になるような症状は互いに出ていない。ヴァンの部屋も覗いてみたが、立ち寄った形跡はあったものの、部屋の中は特に変化は見られなかったな」

「では、ヴァン謡将の記憶はかなり主観によるのかも知れませんね。私なら、前回と全く同じようにはことを運びませんが、それがない。自分が何をしたかは強く覚えていても、『誰』に、『何』をされたかはとても曖昧なのでしょう。なまじ、彼は強引な手を使って成功していましたし、彼にとってレプリカは『屑』で『出来損ない』ですからね、戦士としての力量は認めていようとも、取るに足らない存在なのでしょう」

相変わらずヴァン相手だと辛辣さが増すようだが、今は自分の耳も痛い。正しくは自分がした行動ではないが、過去の『アッシュ』の行動を振り返って、こんなにも堪らない気持ちになるなど、一種の拷問のようだ。こころを強引に落ち着かせ、頭を抱えて蹲りたい衝動を堪える。

「…それで、こっちのメンバーの記憶はどういう状態だ」

「なにもしていません」

話題を変えるために訊けば、あっさりとジェイドは短く返して来た。驚いてまじまじと見つめ返すが、目の前に居る男は凝視にも簡単に耐えてみせ、言う。

「私は私自身が望んで記憶をより完全に近い形へと追求してきましたが、皆さんのことは知りません。以前、全てのメンバーが同じ目的を持っていたとして、今回もそうでなくてはならないなど、誰が決めたというのですか?」

表情の柔らかさに反して、冷徹な声音は成り行きや馴れ合いというものを突き放すかのように厳しい。

「以前がそうだったから。――それこそ、預言のようではありませんか。私たちは自由であっていいはずです。そう、預言に全てを委ねるのではなく、何を選んでも自分で責任を取るという、自由を持つべきだ」

そうして、改めて自分の意思で今回もまた、ヴァンの企てを阻止する、という決意を持つのなら、それこそジェイドは進んで勧誘し、協力を惜しまないのだろう。

「協力して頂きたい方もいますし、邪魔をされては敵いませんので最低限の作戦の説明はしました。ですがその際、私の周囲にいてそれぞれ大小影響があったかも知れませんが、私はけして誰にも触れていませんよ」

女性同士ならば接触があったかも知れませんが、ガイは途方に暮れているかも知れませんね。

そう告げるジェイドの視線の先、集会所の窓の向こう、作業場に向かう道の途中で、『彼』は戸惑ったように立ち止まっていた。

『彼』の目の前には、同じく驚いたのか驚愕の様相で口を手で覆い、身動ぎもせず食い入るように見詰めて立ち尽くすティアが居る。

そうして、いつかのように夕陽の翼がこのシェリダンを包みこみ夜を呼ぼうとする、その鮮やかな黄昏色の中、ティアは『彼』から目を逸らすことなく、静かに涙を零した。

夕陽の残照によって、零れ落ちる透明な雫がきらきらとまるで宝石のように光る道をその白皙に作って落ちていく、その様はなんともいえずうつくしい。

「ごめんなさい、…どうしてなのかしら…、」

そのアイスブルーの瞳から次々と溢れる涙を止めることが出来ずとも、彼女はじっと静かに『彼』を見詰めたまま、その嗚咽に震える澄んだ声で言う。

「あなたを見ていると、嬉しくて、…哀しくて、涙が止まらないの…」

顔を手で覆う彼女の姿に、苦しいような、なにかを堪えている表情で彼は魅入っていたけれど。

そっと、小さく。

――……ティア…」

風の吐息かのようなささやかさで、彼女の名を呼んだ。