――…俺、また思い込みで余計なことしたんだな?」

震える喉から声を絞り出し吐息のようなか細さで、けれど『彼』が自分を断罪する言葉を紡いだ。

『彼』が冷静に自分の引き起こした事態を受け止めようと、抑えに抑えていた激情がその瞬間決壊し、急激に爆ぜる。

勢い良く一歩踏み出すと、間近に佇むアッシュへと詰め寄っていく。あまりの血相に思わずルークも席を蹴り立ち駆け寄った。

「だってそうだろ! 俺が迂闊にユリアの情報に触れなかったら、目的もなく過去に来ることもなくて、そしたら自分の自己満足で過去を変えることもなくて、それで、あの未来が消えることもなかった!」

「じゃあお前に出来たか!? 体を持ちながらなにひとつにも影響を与えずにただ時間を掛けて、ひっそりと死んでいくことが!!」

『彼』の伸ばして来た腕を叩き落し、その手で強引に力強く胸ぐらを掴むと、アッシュは『彼』に負けじと声を張り上げる。

弱さを叩き切るような自分以上の剣幕を前に、『彼』は思わず言葉を止めた。

「テメエが護りたがった、『ルーク・フォン・ファブレ』を目の前にしておきながら、何もせず放っておくことが出来たってのかよ、あァ!?」

――っ、」

泣きそうな程に顔を歪め、『彼』はぐっと言葉に詰まって、何も言えなくなった。

「それが出来ない時点で、過去が多少なりとも変えられることは決まってたんだ。どうせ変わるなら、好奇心でしでかしたその規模が小さかろうが大きかろうが、違いはねえよ」

今更みっともなく喚くんじゃねえ、覚悟してたんだろうが。

そう吐き捨て掴んでいた手を突き放す。その勢いで体を揺らす『彼』は、茫然自失の態で、顔を俯けていた。

その打ち拉がれて震えている姿を、ルークは痛む己の胸の内はそっと堪え、ただ黙って見詰める。

『ルーク・フォン・ファブレ』の、自分のために、『彼』は――…。

たとえ、『彼』が起こした行動が余計なことだとしても、ルークにとって、『彼』は己の全てなのだ。『彼』のその行動で、『アッシュ』としてではない、今の『ルーク・フォン・ファブレ』が居る。

『彼』の長い孤独は、自分を助けたことによって癒されることなく、確定されてしまったのだ。あの時、ルークを助けようと思わなければ、世界の流れは変わることもなかった。『彼』が必死に成し遂げた全てを擲つことにもならなかった。

『彼』の様々な思い出は、けして良いものばかりでなくても、『彼』だけのものだ。《全てが終わった時間》――『彼』が得た未来で死んでいようとも。

だが、それでも。

この考えが、ルークだけの自惚れや独り善がりなことは、自覚している。だが、それでも、だ。

自分のために、『彼』が長い孤独にこころを苛まれようとも。

三年の時間があったから『彼』はルーク助けることが出来た――精神的にも。

たとえば、レプリカがファブレ家に戻されなければ、時間が巻き戻ることに変わりはないが、誘拐された直後に出会って、ルークを助け出すことは可能だろう。

だが、ルークは突然現れた人物を信用出来ずに抵抗し、ヴァンの元に残ったかもしれない。信頼を得る時間があったことで、誘拐だけでなく様々な部分でルークの精神も救ってくれた。そのことが今、ルークが己の国から生贄のように差し出された状態でも、自暴自棄になることなく、比較的前向きに未来を見据えられていることに繋がるのだ。

ならばルークにとって、と限るならば、『彼』の行なったことは、けして余計なことでも、無駄なことでもなかった。

それだけで、十分に意味のあることだ。

そのために『彼』が《今まで》を失ったのなら、今度は己が《これから》になればいい。ルークにはもはや帰る国はなく、何を選ぼうと自由なのだから。

――たとえ、」

『彼』へと手を伸ばし、その肩を掴む。びくりと体を震わせた『彼』が顔を緩々とルークへ向けてくる、その静かな動作に見入りながら、ルークは肩に乗せた手をそのまま滑らせ、『彼』の左手を握る。

「たとえ、目的のない好奇心でも、世界にとって余計なことだとしても、俺にとっては必要だった。

お前は、俺に必要な存在だ。父上でも、母上でもなく、ナタリアでもない、俺と同じ『もの』。そのお前が俺を助けてくれたことが、お前が存在することが、俺にとって何よりもの救いなんだ」

握った『彼』の手を持ち上げ、胸に当てて瞳を逸らさず、熱を込めて伝える。

涙で潤み、木漏れ日のようにきらきらと光を弾くそのうつくしい翠の瞳で、『彼』はじっとルークの言葉に耳を傾けていたけれど、不意に俯いて呼吸を繰り返し。

うん、と頷いて顔を上げ、力なく微笑むとありがと、と言った。

――で、用が済んだならお前はさっさと帰れ。邪魔だ」

「ええッ!?」

突如、空気をぶちこわすような無粋な声で言い切ったアッシュの言葉に、邪魔扱いされた『彼』が声を上げる。

それを心底面倒くさそうに見て、アッシュはルークを指さしながら告げる。

「大体俺はこっち、この甘ちゃんに用があるんだよ。疑似超振動なんていう面倒なんか起こしやがって、テメエはとことん俺に尻拭いして貰わなきゃならねえってのか! 毎回毎回、俺にそういう手間を掛けさせやがって!!」

「悪かったよ! ごめん、アッシュ。でもお前がルークに用って…」

「この世界においての、俺の本来の居場所へ行くんだよ」

アッシュの剣幕に及び腰になっていた『彼』の動きが止まる。目を見開き、こころなしか顔色の悪さがまた戻って来たように見えた。

唇を震わせながら、『彼』が口を開く。

――…アッシュ、まさか、」

「そのまさかだ。――俺は厳密に言えば経験の記憶だけで成り立ってる人格、意識集合体だからな。俺は『俺』、『ルーク・フォン・ファブレ』に『アッシュ』の記憶として戻るんだ」

そうしてアッシュはルークを振り返り、見た。

その緑の相変わらずの強さと、今まで部外者だと思い込んでいたルークは突然回って来た事態にたじろぎつつも問う。

「どういうことだ…?」

「どうもこうもねえよ。さんざん説明してやっただろうが。まさか『ルーク・フォン・ファブレ』だけが免れられる訳がないだろう」

巻き戻った世界で、『彼』…かつてのレプリカルークに関わりのある人間たちは、違う時間のことを《思い出す》。

「……他の人間たちのように、お前を《思い出す》、と?」

今、ここに存在している強烈な人物の記憶を、頭の中に抱え込むということだろうか。

想像もつかない。どういう現象だろう。頭の中でまで憎まれ口を叩かれてはかなわない。

「お前はよっぽど俺を他人と認識したいようだな」

苦悩するルークを視界に入れたアッシュから、睨まれた。

「まあ、俺も正直、テメエみたいな甘ちゃんはお断りだがな」

更にせせら笑う。こちらこそ、こんな傲然とした態度と性格の持ち主と同一人物だとは思われたくない。

――だが。

今、アッシュとの距離が先ほどのテーブルでの位置より近くなった所為か、ルークの感じる様々な不快感が増した。アッシュの放つ威圧感だけでなく、侵食されるようでこちらが侵食しているような、互いの境界線を何度も確認してしまう。

不快感に思わず眉根を知らず寄せた瞬間を見計らったかのように、アッシュが言った。

「こうしていても解るだろう。俺とお前は、この同じ空間に居る事によって、互いの境界線など今すぐにでもなくすことが出来ることを」

引摺られそうになるそれに対して、必死に反発している状態。それを見透かされたことは不愉快だが仕方がない。誤魔化しようのない事実だ。

「待てよ! 『アッシュ』と『ルーク』は別人だろ!? 二人は同じ道を辿らなかったし、この世界に『アッシュ』は存在しねえ!!」

「じゃあテメエはどうなんだ。『ルチル』なんて奴は存在しないはずだろうが。

俺が『アッシュ』であり『ルーク・フォン・ファブレ』であることは違えようがない事実だ。この世界に『アッシュ』が存在しなくとも、『ルーク・フォン・ファブレ』は存在する。

なら、お前と俺が《大爆発》を起こして一つになるよりは、こっちの方がより自然だろう。紛れもない同一人物だからな」

そう静かに返してから、アッシュはルークに改めて視線を寄越した。

「解るか? どちらにも優先はない。『アッシュ』が淘汰される訳でも、『ルーク・フォン・ファブレ』が消滅するわけでもない。――まあ、口であれこれ言うより実際やってみれば判るだろう」

そんなことを当たり前かのように言われたって、「じゃあやってみよう」と言える奴がいたらお目にかかりたい。そいつは好奇心だけで生きている。

普通は自分という自我がどうなるのか判らないような、そんな曖昧なことを望んでやりたいとはなかなか口に出来まい。アッシュにとっては当然の成り行きなのかも知れないが、ルークにとっては唐突過ぎて実感すら湧かない。戸惑いが先に立つばかりだ。

「ちょ、待てって! ルークの気持ちも確かめないで…」

「その必要はない。俺とコイツがこうやって出会ったからには、別々に存在出来るはずがない。お前との《大爆発》が避けられなかったようにな」

「それを先に言えっつーの!!」

声を大きく張り上げる『彼』に一瞥を投げて、アッシュはゆっくりと見せつけ嘲笑するかのように鮮やかに唇を撓らせて、言う。

「お前の所業がコイツにバレて、軽蔑されるのが恐ろしいか?」

その一言は、『彼』の動きを止めるには覿面だった。

今まで以上に蒼白な顔で、ただ頑是無い子供のように立ち尽くし、放心状態でアッシュを見つめ返している。

「…っ、な、に…」

――もういい、お前は帰れ。すぐに追いつく」

アッシュは『彼』に言葉を全て言わせず、遮ると軽く手を振った。

たったそれだけだ。それだけで、突然、『彼』の姿が目の前から消えた。

驚いて目を見張り周囲を見渡すルークに、アッシュは何でもないことかのように「適当に戻してやった」と告げた。それはどこにだ。あんなに衝撃を受けているというのに、あんまりではないか。そもそも、最初からアッシュは一方的過ぎる。

――急いているのか?

全く気は進まないが、アッシュが言うように互いの境界線が二人きりになった途端、余計に酷く緩くなって来た気がしている。

仮に急いていたとしても、『彼』をわざと挑発する必要はないと思うが。

ルークの視線を受けたアッシュが、面白そうな顔をした。

「言いたいことがありそうだな」

「……『彼』のしたことは、目的のない好奇心で、余計なことだとだと思うのか?」

思っていたような内容ではなかったのか、アッシュはつまらなそうに鼻を鳴らして、腕を組むと遠くへと視線を向ける。

――ただの偶然で、ローレライの剣を持って行くわけがないだろうが。アイツには明確な目的があって、その為の準備も怠ってなかったってことだ。過去に大層なことをしでかしておいて、学習能力がないとは言わせねえ」

そこまで『彼』のことを判っているのなら、そう言ってやればいいのに。

ルークの瞳から非難の色を感じたのか、ちっ、と力強くアッシュは舌打ちをしてみせた。

「あのレプリカが何を考えて行動を起こしたかなんてことは、俺たちが考えるだけ無駄だ。アイツだけが世界を変えられるという事実に、無力感と共に疎ましくなる」

「…《大爆発》というのは?」

「完全同位体のオリジナルが死ねば、レプリカの方が消える現象だ」

『彼』はルークには聞かせたくないと思っていたようだったが、アッシュはあっさりと答えを返して来た。記憶が統合されればアッシュの言う通り、『彼』が隠したがっていたことは全て、ルークには露見してしまうだろう。

アッシュの説明に、ルークの脳裏に蘇る言葉がある。

『完全同位体のレプリカは、オリジナルが死ぬと、消えてしまう。だからお前の為でなく、自分のために、お前を守ろうとするだろうな。生存本能だ。本能には意味も、理由も感情も、全て関係ない。慕っている振りをしているだけなのだ。けして、信用するな。寝首を掻かれてしまうぞ』

「ヴァンが言っていたことか…!」

「ふん、ヴァンの野郎も相変わらずうぜえこと言ってやがるな」

過程を省いて結果のみを与えられて、正しい思考が出来るはずもない。そういう厭らしい誘導の仕方が巧みなのだ。

そういうヴァンの手法を思い知っているルークはアッシュに深く同意した。その時、二人の顔が全く同じ表情を作っていたことを知る者はここにいない。

「いいか、完全同位体のオリジナルとレプリカは、遅かれ早かれ、必ず《大爆発》を起こす。

まずオリジナルの方が弱って死ぬ。そのあと、レプリカの命と記憶を喰らって、ひとつに戻る」

「……生き返るって、いうのか」

「さあな。それを第三者が生き返るというのなら、そうだろう」

馬鹿馬鹿しい。そうアッシュは忌々しそうに吐き捨てる。

「では、俺は今後弱って行くことになるのか?」

「そうだ。最終的には六割のレプリカにも負けるくらいにな。その状態でヴァンを倒す必要がある」

「……無茶を言うな…」

途方もないことを言われルークは苦々しく返すが、アッシュがそんな弱気を許すはずもない。

「お前は自分の運命の尻拭いを、あいつにさせるつもりか?」

鋭い言葉でルークの胸を抉ってから、アッシュは腰に下げていた剣を鞘から抜き、ルークに顎で指図した。

「構えろ」

言われるまま、緊張を纏いルークも剣を抜き、構える。

その様子を見て、アッシュは冷笑した。

――ハ、貧相だな。こんなんで、なにが出来る。お前にいったい、なにが出来るってんだ」

かっとルークの胸に込み上げるのは、激しい羞恥だ。

アッシュの実力が高いのが判るからこそ、こうして笑われるのは騎士にとってなによりもの屈辱的で、けれどアッシュはその騎士のプライドを笑ったのだ。

その意味がなんなのか、ここに来て判らないルークではない。

これから生きていくのにまず邪魔になる、このプライドを壊されるのだ。

徐々に周囲の景色が移り変わってゆく。どこまでも広がる豊かとは言い難い土地に所々木が茂り、遠くに薄く山の影が青く空と同化している。砂が風に散るように、ファブレ家の中庭は広大なオールドラントのどこかの風景へと変わっていく。

「記憶の統合を行う前に、今の俺のレベルまでお前を鍛えてやる。俺の持っている知識、技術、経験。全てを使いこなせずに、ヴァンに勝てると思うな。使えないなら、アイツの足手まといになるなぞ、最大の屈辱だと思え」

それだけはその軟弱な身体と精神に叩き込んでおけ。

そうして容赦なく振り落とされた一撃で、ルークは吹っ飛んだ。

* * *

何度惨めに地面を転がされ、這い蹲り、あっけなく吹っ飛ばされたか知らない。

そのたびに目眩で回る視界を頭を振ること堪え、疲労で震える腕や脚を叱咤し立ち上がり、剣の柄を握る力が失われれば裂いた布を巻いて、アッシュへと向かっていく。

骨が折れ砕け、死の寸前に近い、動けないほどの打撃、斬撃に恥もなにもなく、血反吐を吐きみっともなくのたうち回り、どうやっても立ち上がれないことがアッシュに認められてやっと、けれど一瞬で治療される。

そのことに気が付かずに攻撃を立て続けに受け、死んだと思ったことも片手では足りない。そう考えると、一体何度死んだことか。

アルバート流の技一つの完成度をとっても、アッシュとルークは雲泥の差だ。とても比べられるものではない。

ルークの詰めの甘さ、油断、そういう慢心を突いてアッシュの攻撃はえげつなく、そして正当に行われる。

当たり前だ、アッシュはルークを殺すつもりで攻撃しているのだから。

だからルークもアッシュを殺すつもりで、あらゆる手を使い、技を繰り出す。

そうされて改めて感じるのは、ここまで自分を高めなくては生き残ってこられなかった、アッシュの凄惨な過去だ。

鮮血という二つ名を持つ、特務師団の長。

それこそ、幼い頃から洗脳され戦うことを叩き込まれた、兵器だ。

受け止めた剣圧に耐えきれずふらついた体、脇を容赦く蹴られ地面に伏す、そのルークの喉元へ剣をひたりと当てながら、アッシュは息も乱さず厳かな威圧感でルークを押さえつけ、告げる。

「覚えておけ。

アイツはどのいのちも殺すのを躊躇う。殺した自分を許さずずっと責め続ける。それでもたったひとつ、たったひとつだけアイツが殺せるとするなら、」

それは。

――自分自身の、いのちだ」

ルークは言葉を発することも出来ず、ただ黙って目を見開き、アッシュのそのなんの感情も伺えない己と同じ顔をじっと見詰める。

「アイツは、自分を殺すことに関しては、どんなに怖かろうが苦しかろうが、結局許すんだよ」