「――私の名を出す、不審人物がいるというから来てみれば、」
目の前に立つ、外套のフードを目深に被ったままの青年の背中にそう言えば、すぐに彼は振り返ってフードを外す。
そこには眩いばかりの朱金の髪と、見慣れた表情があって。
少し困ったように、はにかむように笑うルークに、お久しぶりです、と声を掛けると定期健診以来だな、と今度はにこりと綺麗に笑んで返して来るのを、握手を交わしながら見詰める。
彼は帰還して漸く、以前の何も知らなかった頃のように鮮やかな笑みを時折ではあるのだけれど見せてくれるようになった。
それは自分に対する何かしらの覚悟や自信のようなものが身についたのだろうし、実際一度人の形を失うという体験をすれば意識も変わるのだろう。
それを悪いとは言わない。多少逞しいくらいになってもいいと、以前の卑屈さを思えば言える。
何より、レプリカ達にとって、彼は希望だ。
時には以前と違ってたった一人で、己の手で政治の場を渡り歩き道を切り開いていかなくてはならない。そのために必要なものは、卑屈さではなく図々しいまでの自信だろう。――現マルクト皇帝のように。
彼というレプリカ代表を得たことで、本当にレプリカたちを理解して弁護する者が現れたことは、レプリカとオリジナルの状況を良い方向へ確実に持って行くだろうし、自給自足の、そして完全な自治区への道はまだ遠い彼らを、これから導いてくれることだろう。
その分、キムラスカ贔屓だと思われ不利な立場にならないよう、公平である難しさも味わうことになるだろうが、彼は今まで世界を、その地に住む人々を見て来たし、何より傍らに見守る存在がある限り、容易く歪むことが無いと信じている。
フォミクリーという技術を生み出したものとして、彼という存在にいくら感謝しても尽きない。そして、彼をこの世界に生還させてくれたローレライにも。
自分は彼に救われているのだ。彼が生きているという事実だけで、愚かだと思うことはあっても、辛いとはけして思うことが出来ない過去を。
「さてさて、老体をここまで駆り出して来て、一体何の騒ぎですか?」
いつの間にか出来ていた世界中の決め事では、彼は今頃とっくに、バチカルに向かっているはずだ。それが何故ルグニカ平野の方まで遡って、あろうことかマルクト側のカイツールの砦で身柄を拘束されているのやら。
しかも気のせいでなければ、まるで旅をしていたころのように外套がところどころ汚れている。
「あー、何か兵士のひとが、ミュウに驚いちゃったみたいでさー」
「お久しぶりですの!ジェイドさん」
「お久しぶりです。まあ、普通はチーグルが話すなんて思いませんからね」
いつものように道具袋の中に入れられていたのだろう、外套の奥から現れた水色の毛玉から伸ばされた小さな腕を指先で取り、軽く挨拶を交わす。これでもこのチーグルは一端のルークの守護者なのだ。敬意を払わなくてはならない。
「それで、一体何があったんです。本来ならば貴方はとっくにバチカルへ向かっている頃でしょう?」
「それがさ、帰る時に、エリュシオン付近に出る盗賊の話を聞いたんだよ。それがベルケンドの方から逃げて来たって言うから」
「護衛も無く一人と一匹で果敢にも盗賊団を壊滅させた、と?」
ジェイドの声音にびくり、と体を震わせるが、もう遅い。
というより、行動する前に気付いて欲しいものだ。
「…あなたは全く、無謀なところは死んでも治りませんね」
眼鏡のフレームを押さえながら深いため息を吐けば、ちらりと上目遣いにこちらの表情を探ってくる。それに僅かな隙も見せずに見つめる瞳に力を込めれば、しょんぼりと項垂れる。
「何も、あなた一人で解決しなくても良いことでしょう。エリュシオンの警護団に一言言えば良いし、どうしても街の負担になりたくないと言うのなら、ルーク、あなた自身がバチカルに戻った後、キムラスカの兵ではなく、ファブレ公爵の私兵である白光騎士団を率いて来れば問題などなかったのです。何をそんなに急いでいたのかは知りませんが、」
いや、本当は知っている。
そして、ルーク自身もジェイドが判っているからこそ、こういう物言いをしていることに気付いているのだろう、またもや沈み込む様は、旅をしていた頃と変わらない。
「以前の緊急時ならまだしも、今ではいい加減あなたも子爵という身分を持つのですから、考えて行動しなさい。下手をすれば、あなたがファブレ公爵や、アッシュや、ひいてはキムラスカに面倒をかけることになっていたかもしれないのですよ」
アッシュの名前が出てきたことで、ルークはうー、と小さく唸った後、ごめん、と謝って来た。
「……ごめん、悪かったよ。俺が居なくなったらレプリカの代表がいなくなるし、それは皆にとって不利益になることだ。それに俺がマルクト領で勝手なことして何か問題を起こしたら、ジェイドやピオニー陛下にも迷惑掛けることになってたよな。レプリカの街に援助して貰い難くなるかもしれない」
「そうです。――以前のあなたは、確かに呆れるほど馬鹿でしたけれど、ご自分の価値を知っていましたよ、ルーク」
仕方がないとは言え、アクゼリュス崩落以降、どうも自分という存在を軽視し過ぎるルークに、俯いていた額をぴんと指で弾いた。
「あなたという希望が喪われれば、残されたレプリカたちがどんなことになるか。それを忘れてはいけません」
「――うん。判った」
痛みに額を手で押さえて、けれど真っ直ぐにこちらを見返す瞳には確りとした強い光があり。
それをいつもよりは若干、親しいものに向ける笑みで見詰め、説教を切り上げた。
「まあ、あなたが白光騎士団をこの地に連れて来るにしても、色々面倒なことがありそうですしね。そもそも白光騎士団を公爵がお貸し下さるか判りませんし。かといって公爵自身がお出ましになる必要はない。ファブレ公爵夫人がルーク一人では心許無いからアッシュも、と言い出したら、唯でさえ忙しいアッシュの負担が増えますしねえ?」
いつもの笑みでルークを見下ろせば、顔を赤くしてそんなんじゃねーっつーの!と必死に否定する。
まったく、本当にこの『ルーク・フォン・ファブレ』のレプリカと来たら、根本的なところはオリジナルとそっくりなのだから、呆れてしまう。
彼なりに、バチカルに居るアッシュを気遣って(しかも失態を補おうとして)先走ってしまったのだろうけれど、こうして心配する人間がいることを、忘れては欲しくない。
「それで、盗賊を殲滅して、それがどうしてこんなところで足止めされてるんです?」
「何かチーグルを密猟してんじゃないかって言われちゃってさ…。盗賊捕まえたのに、仲間割れじゃないかとか疑われたりで、踏んだり蹴ったりっつーか」
ちゃんと旅券見せてるのに偽者扱いされちまうし。
拗ねて頬を不機嫌に小さく膨らませて言う姿は、子爵としてマルクトへ留学しながら仕事に務める今でも変わらない。
成長が以前の外見年齢17歳のまま止まってしまった彼は、やはり相変わらず、そう見えないほど幼く見えて。
思わずくつくつと笑えば更にぶうと膨れてしまう、その腕の中でチーグルが声をあげた。
「だからボク、ちゃんとこの方はご主人様ですって言ったですの!」
「ああ、だから兵士が驚いて…。相変わらずですねえ。あなたの忠誠心には感動すら覚えます」
「だって大好きですの!」
「ミュウ、お前ってヤツは……!」
ミュウを感動の余り抱き締めている様は、出会った頃の彼にはなかったものだ。
この主従を裂けるものなど、いないだろう。
目の前に居る自分よりも、チーグルに愛情表現を返されるのは、かなり複雑な気持ちだが。
「ごめんな、こんなことでジェイドの名前出して。でもどうしても今月中に絶対バチカルに戻る約束してたからさ、これ以上時間掛けらんなくて。偶然兵士のひとがジェイドが来てるって言ってるのが耳に入ったからつい……」
約束の相手というのは、勿論彼のオリジナルのことだろう。
ああもう本当に、彼らときたら。
還って来る数年間に一体何があったのだろう。それともエルドラントで何かがあったというのか。
唯一共存する、オリジナルとレプリカ。
互いの引力の強さは、大爆発という現象ですら証明がつく。
「判りました。あなたの拘束を解除させます。護衛を数人つけますから、ケセドニアに馬車で戻って船でバチカルに帰りなさい。マルクト兵が赤い髪と翠の瞳の組み合わせの意味に詳しくないことも、あなたの顔を良く知らないのも、気にしないで頂けると有り難いのですが」
「そんなの国が違うんだし、当たり前だって。キムラスカでもジェイドの顔どころか、俺の顔も知られてないぜ。だって長いこと監禁されてたからな!」
そう言って笑う彼に自然とこちらも微笑む。
バチカルであれほど騒ぎを起こしていた人物が英雄などと、闘技場の観客も関係者も、城下町の人間達も、ホテルフロントですら知らないだろう。
「本当に有難う、助かったよ。じゃあ、また新年にな!」
「ええ、陛下もガイも、貴方に会えるのを楽しみにしていますよ」
「ジェイドとネフリーさんとディストは?」
「もちろん、私も、ネフリーも。――あの洟垂れのことなどどうでもよろしい」
「相変わらず冷てーの!仲良くしてやれよ!」
笑顔で手を振って歩き出す彼を見送りながら、今度会えるのはケテルブルクか、と思いを馳せた。
* * *
何かに導かれるように、訳もなく読んでいた本から顔を上げると、その瞬間にそっと、背後から左肩に僅かな重みと暖かさを感じる。
「暗いところで本読んでると、目悪くするぞ」
そうしてことりとテーブルの左側に、灯りのついたランプが置かれた。
振り返る必要も無いし、そのランプを置く左手を確認するまでも無い。
自分相手にここまで気配を隠せる人物も、そもそも自分が背後を許す人物も、たった一人だからだ。
「遅かったな」
「でも今月中だろ?」
「ギリギリじゃねぇか」
本に視線を向けたまま言えば、ふー、と深いため息の音がして。
「色々あったんだよ。つーか、これでも急いで帰って来たってーのに、んなこというなよなー」
疲れたのか、口調は拗ねながらも背中へぐったりと抱きついてくる。
本当は、ルークが自分が望んだことをなし終えたことを知っていた。フォンスロットという繋がりなど必要なく、彼ならば街に居て盗賊の噂が耳に入ればけして放置はしないだろうと思ったし、何より理解していた。
――ただ、無謀にも一人で壊滅させるとは、さすがに思ってはいなかったが。
ルークの護衛として共にバチカルへ帰還した兵士から、どこで寄り道をしているのかルークの帰宅より先にジェイドからの短い手紙を渡され思わず額を押さえたが、説教はジェイドが済ませているだろうから、とそれを本の栞代わりにして閉じる。
背中に齎される重さと温度にルークには見えないところでアッシュは僅かに笑んで、左肩に置かれた手を右手で強く、強引に引き寄せルークの態勢を前のめりに崩す。
小さく声を上げて自分の方に倒れこんで来た彼を、そのまま膝の上に両手を使って誘導した。
還って来るまでの年月の差はそのまま体格の差に繋がっていて、容易く膝の上におさまった彼は、初めてでもないというのに暫く慌てた様子でじたばたともがいていたが、それを力技で押さえつけると、今度は身の置き所がないように硬く縮こまってしまう。
なるべくアッシュに触れないように、緊張しながら膝に座っている慣れない彼の体を両腕で抱き締め、頭を自分の胸へと引き寄せると、強張った体から恐る恐るというように徐々に力が抜けていき、ついにはことりと甘えるように頬を胸へ寄せ、首筋に額を押し付けた。
首筋に触れる柔らかい癖を持つ髪に、アッシュも顔を埋め深くため息を吐く。
さすがに長時間齎された重みを支えるのは辛いだろうが、今はただ、その重みと温もりに酷く安堵した。
ここにちゃんと存在している。
――生きている。
そう思える。
以前はこんなことなど想像すら出来ない程の状態であったし、それでも蟠りを超えた自分達がこのように触れ合っているのは、他人の目にはやはり奇異なことだろう。
オリジナルとレプリカ。男同士で更には同じ顔の存在が二人、こうして。
互いに求め合っているなど。
それがどうした、と思う。
気が狂っていると、究極の自慰行為だと、言うなら言え。
だが、アッシュにとって他人の目など、常識など、そんなことはどうでもいい。
世界すら、本当はどうでもいいのだ。
世界は預言を遵守するあまりに、そして最後には預言から逃れるために二人の命を犠牲にすることを選んだ。
自分達も一応は納得して犠牲になり、その結果やっと今の生を掴み取ったのだ。
身分など関係なく訪れるだろう当たり前のしあわせを奪われていた自分達が、こうして奇跡的に生き延びて互いに選んだしあわせの形を、他人だとか常識だとかそんなもので失う必要などない。
もう、世界の望むように生きるのは、充分だ。
腕や足など体の一部を失えば酷く悲しみ、幻痛すら抱えるというのに、己の情報から作られたレプリカを何故求めてはいけないのだ。
体の一部どころではない、半身。
世界で唯一共存する、オリジナルとレプリカ。
触れ合った箇所から溶け合うように引き寄せられる錯覚を覚える。その錯覚は酩酊感と恍惚感を伴い、喪って欠けていた部分を補うようにおさまり、互いにたとえようもない充足感を、快楽を引き出すのだ。
体中に響くのは、第七音素か、それとも二人のひとつになった鼓動か。
彼を失えば幻痛どころではない、気が狂うとまで思う。
ああ、だからこそ、求めてはいけないのかもしれない。
でもそれももう遅い。
「――ご苦労だった」
髪を梳くように撫でていた手を動かして、頬へと辿り上へ向かせてアッシュの視線と交わらせると、彼はゆっくりとこころに染み入るように、けれど花が綻ぶ様に笑って。
「ただいま、アッシュ」
そう口にする彼にそっと、口吻けた。
世界などどうでもいい。
彼が笑う『ここ』が、自分にとっての全て。
守りたいと思える『世界』だ。
「……おかえり、ルーク」
end.