目が覚めた時、目に映るそれが何なのか、全く判らなかった。
ぼんやりとして、形がはっきりと判らない。
焦点を合わせるために顔を顰めて、モノクルが無い事に今更気付く。
暫くして、仰向けに寝ている自分が身動きすら取れないことが判る。
少し身動ぎしただけでも体中が、酷く痛む。
…どうやら重力に従って仰向けに寝ているのだから、目に映るそれが見慣れない天井なのだと、焦る思考の中理解した。
首を動かすのも苦痛を伴ったが、周囲を確認してしまうのは、最早本能だ。
安全かどうか。
そうは言っても、体中が苦痛に苛まれている状態で、確認できることは少ない。
狭い、薄暗い部屋。
それで地下牢か何かと思ったが、そうではないらしい。
目が慣れてくると、この部屋が質素な部屋ではあるが、城の作りを保っている所を見ると、最下級の部屋なのだろうと判る。
カーテンが引いてある所為で、日光が入り難い。日当たりの悪い部屋。だから薄暗い。
それでも、いくら最下級でも、ベッドに寝ているということは、この奈落にしては高待遇と言っても良かった。
無駄な努力を諦めて、深く深呼吸する。
そして不意に実感する、現実。
……生きている。
――…一番、ありえないはずの現実だった。
不意に扉が開く音がして、部屋に誰かが立ち入ってくる。
聞き慣れた足音に、顔が見える前に誰だか理解して、首をそちらに向けた。
「ジェイド…!目が醒めたんですね!」
視線に気付いて、サフィルスは手にしていた盆をベッドの傍らにある机に慌しく置き、顔を覗き込んで来る。
「大丈夫ですか!?ちょっと待って下さいね、今医者を呼んで来ますから…!」
サフィルスはそう言い置いて、部屋の扉へ向かって走っていく。
扉を開け、小声で廊下の外に何か言うと、また走って戻ってくる。
「ああ、良かった…!気分はどうです?」
「――…ず…」
サフィルスの声が、頭に響いて。
(…もう少し、静かにして貰えると、有り難いんですけどね…)
顔をしかめながら睨んでやる。
「はい?あ、はい、水ですね?飲めますか?」
顔を覗き込んで来るのを、煩く思いながら、しかし現状では逃げることも避けることも出来ず。
仕方なく、サフィルスの介護を受けながら、水を含んで喉を潤す。
流石に、サフィルスはこういうことには慣れた手つきだったが、単にこれはサフィルスしか自分の看護を引き受ける奴が居なかった、ということなのだろう。
やけに心配そうなサフィルスのうっとおしい視線から何とか顔を背けながら、言葉を発した。
「…何故……生きてる…?」
掠れた声で問えば、サフィルスは禁忌にでも触れたかのように視線を背け、声を落とす。
「それは…、……プラチナが…」
『プラチナ』という言葉に思わず反応する。全身の痛みも忘れて、咄嗟に顔をサフィルスの方に向けると、サフィルスはちらり、とこちらの様子を窺うように見てから、言葉を続けた。
「…プラチナが、一生懸命アレク様に頼んで下さったそうです…。自分がどうなっても…死ぬことになっても、貴方を助けて欲しいと…」
言葉が継げない。
死ぬことになっても…?
そんなこと、頼んでない。
――…頼んでないのに…。
無意識に、言葉が漏れる。
「………な…」
「え?…何です?」
掠れて消えかけたジェイドの言葉に、サフィルスは慌てて聞き返す。まるで末期の台詞を聞き取るかのような慌て振りに、何だか腹が立った。
…確かに死に掛けてはいた様だが、幾らなんでも、もうそんなにすぐには死ねないだろうに。
こんなに意識がはっきりしてしまうようでは、己で心臓を貫くか、殺されるしか、死ねない。
だから、今度は思いきり吐き捨てた。
「馬鹿だな」
「ちょ…っ、ジェイド!!貴方って人は…!!」
サフィルスが思いきり声を上げたところで、何者かが扉を少々乱暴気味に開けて、ずかずかと部屋の中に遠慮もせず入ってくるのが判った。
「サフィ、あいつ意識が戻ったって?」
高い、少年の声。
続いて、モノクルを嵌めていない視界にも充分眩しい金髪に覆われた、アレクの顔が覗き込んで来る。
「あ、ホントだ。生きてたんだ」
「…生きてて、すみませんね」
顔をしかめてアレクの顔を見れば、相変わらず睨み返してくる、敵意剥き出しの表情。
勿論、アレクはジェイドが目覚めないまま、息が止まるのを期待していただろうし、ジェイドとしても生き延びることは予想してなくて。
「――プラチナ様は…」
だから、それだけを問う。
自分が、あの死んだと思えるような、意識を失った瞬間からのことを、知るために。
途端、アレクが激昂する。
「…っ、何言ってんの!? お前!まさかあれだけの事をしておいて、忘れたって言うんじゃないだろうな!!」
その言葉に、ああ、と理解する。
アレクはそのまま、何か怒鳴っているようだったが、そんなものは頭に入ってこなかった。
この、身体に響く激痛以上の現実が、実感を伴ってくる。
…ああ。
やはり、あの儚い人は。
あの弱い体では、耐え切れずに…死んでしまったのだ、と。
* * *
『 Gloria al Padre e al Figlio e allo Spirito Santo.
Come era in principio,
ora e sempre,
nei secoli dei secoli …… 』
神に祈る歌声が聞こえた気がして、ふと空を振り仰いだ。
途端に視界を覆う、強い太陽の光に咄嗟に手の甲で右目を庇う。
歌声が聞こえたような気がしたが、幻聴だったらしい。
空をいくら見つめても、鳥のような姿の同胞たちの姿は、影すら見えない。
かつて己の羽根で飛んだ空は、美しい色をしていたが、今ではくすんだ色が頭上を覆う。
くすんだ、と言っても、青いことには変わらない。きっと、この違和感はあの空を飛んだものにしか判らないだろうと思う。
堕ちる前は、空などあれが当り前だと思っていたから、美しいと思ったことは無かった。
記憶に残る、あの世界は美しい、と思い返し…ふと、遠くへ来たのだと実感する。
…あの世界はそんなに美しくは無かったのに。
記憶を美化してしまうほど、遠くへ来てしまったのだと思い、苦笑した。
美化する必要は無いのに。
…必ず、帰る場所なのに。
今は、この地に醜く脚を使って立っている身でも。
* * *
「プラチナ様、お加減は如何です?」
王子のテントに入れば、自分が焚いた香の微香がふわりと外に洩れ出るのが判った。
寝台を覗き込めば、ジェイドが入って来たというのに身動きすらしない、人形のような王子が目を閉じたまま仰向けにぐったりと沈んでいる。
顔色も青白く、死んでいるのかと思えるほど、生気というものが無い。
「…プラチナ様?」
ベッドに近寄り、屈み込んで顔を覗きながら、もう一度声を掛けたが、反応は全く無い。
昨夜までは本当に意識もない程の高熱が続いていて、漸く今朝方意識を取り戻したから、もう大丈夫だろうと思っていたのに。
このまま、死んでしまうかもしれない。
…もう、死んでいるのかもしれない。
それも楽でいい、と思う。
継承戦争という馬鹿げた事に、いつまでも付き合う義理は無い。
適当に付き合って、適当に切り上げて。
こんな所で時間を潰す訳にはいかない。
それなのに、焦る心とは裏腹に、この王子はこうやって何度も手を煩わせる。
いつ死んでもおかしくない身体。
…それでも。
己の手で、息の根を止めようとしたことは無い。
…出来ないことに、何度舌打ちした事だろう。
今まで、目的のためには手段を選ばなかった。そうやって、生き延びてきた。
だから、出来ないはずは無い…のに。
その機会は、何度も訪れたし、傷をつけることを厭いながらも、その度に庇わなかった。
そのことは、プラチナも判っていて。それでも血に濡れても立ち上がり、天使をその剣で屠る。
…無理をして、こうやって発作を起こす。
相反する思考を持て余して、苛立つ感情をそのまま王子に容赦無い言葉でぶつけることもあった。
そうすることで、自分にも言い聞かせるようにして来たのに。
誤魔化す術は幾らでも知っているというのに、この王子に死を齎す事が、何故だか未だに出来ない。
『何か…あったのか?』
鳥に餌をやっていた時のあの問いに、どれだけ驚かされた事だろう。
些細な表情の変化すらも、言葉も、ちゃんとあの王子は見て、聴いていて。
聡明さには、時折言葉を失いそうになる。
『ちゃんと、殺すんだよ。――たくさん、苦しめて構わない。だって、僕らの最も疎ましい敵になるかもしれないんだから』
あの天使の、六枚のうち、一つしか白くない羽根。
その意味を、考えないことも無いのだが…見ない振りをしている、というのが正しいかもしれない。
何一つ、確かなことは無いのに。心の何処かで疑っているのに、信じようとする、この馬鹿げた心。
(…俺だけは…違う、はずなのに…)
…いつから。
いつから…こんなに自分は、不安定なのだろう…。
ふと、目に付いた汗ばんだ額に掛かる細い一筋の髪を払おうと、無意識に手が伸びた。
「――起きている」
手が額に触れる瞬間、そう低く掠れた声がして、酷く驚いて思わず手の動きが止まる。
「…驚かせないで下さいよ」
そう言いながら、額の邪魔な髪を取り払うと、指の感触に漸くプラチナは瞳を開いた。
焦点を合わせるのに苦労しているようだったが、相変わらず、色褪せる事の無い、美しい青で。
毎回、ジェイドに懐かしいあの空を思い出させる。
この顔と、髪と、瞳の色は、嫌いじゃない。
サフィルスだったら赤の王子を選ぶのは判っていたから、敢えてサフィルスに選ばせた。
あのお優しいお坊ちゃんが、継承戦争というものにいかにも子供、と言う感じの赤の王子が巻き込まれるのを、不憫に思わないはずが無いから。
「今度こそもう駄目かと、心配しましたよ」
「…心配?」
にっこりと、微笑んでそう言えば、訝し気に青い瞳が見返してくる。
「酷いですねえ。私だって、心配はしますよ」
「………給料の心配だろう?」
「まあ、そうとも言いますね。あなたが死んだら、未払い分はどうなるかとか。一蓮托生で命まで懸かっている上に、あなたの看病までしてるんですから、タダ働きなんて冗談じゃありませんよ。むしろボーナスが出ても良いくらいです」
正直なところを答えたら、やはり睨まれた。そして気怠るそうに深いため息を吐いて。
「もういい。――水」
「はいはい」
ベッドの傍に有る小さな机の上に、持って来た諸々のものを置き、代わりに置いていた水差しの水を差し出すが、やはり体は起こせないようだった。
仕方なく、彼の背中に腕を添えて上半身を軽く起こし、水を含ませる。
今朝意識が戻った時、発熱による汗を清めて着替えさせたが、この数日間で薄い胸はより一層薄くなり、白い肌の下の骨や血管や筋肉の動きさえ、容易く判る程で。
こうして支えている背中の背骨の感触も、更に頼りなくなっている。
本当に儚くなるのは、そう遠い未来ではないのかもしれない。
「何か、口に出来そうですか?ラカの実を用意してきましたが」
ここのところ、きちんと食事を摂れていない。
そして簡単にこの身体は痩せ細る。
ずっと、この王子はこのままなのだろうか。
回復しても、剣が振り回せないようでは、呪文を唱える集中力が保てないようなら。
いくら魔力が強くても…生き残れないのなら。
――…要らない。
「いや、いい…」
ラカの実に向けた視線を逸らす。
好きなものさえ口に出来ないようだった。果実の芳香でさえ吐きそうになっている彼に、無理矢理食べさせる事は出来るだろうが、吐かれても後始末が面倒だ。
支えていたプラチナをまた寝台に寝かせる。
「…食べられそうでしたら、食べて下さい。私は仕事がありますので、後でまた様子を見に来ます。薬とか、必要なものはここにおいて置きますから…」
腰掛けていたベッドから立ち上がると、顔を背けていたはずのプラチナが、ちらりと、こちらを見た。
…何も言わないけれど。
――――でも俺は、その望みをかなえてやることは出来ない。
プラチナの視線を受けたまま、ため息を一つ、吐いて。
そのまま立ち去ろうと歩き出し、テントの入り口の所でふと思いつき、立ち止まる。
「何か、入り用のものはありませんか?あるんでしたら誰かに持ってこさせますけど」
確認のために振り返ると、相変わらずまだ、こちらを見ていて。
青い瞳。
王子自身、その視線の意味は判らないだろう。
何も、教えていないのだし。
何でも知識として知っているけれど、実際にそれが何なのか、知らないように。
だから、その視線をこうして平然と受け止める、ジェイドをプラチナが責めたことは無い。
…たとえ、心の中ででも。
可哀相な、ひと。
たとえ、どんなにイヤなことでも。
毎日続いていると、何時の間にか慣れて、自分の習慣の一部に溶け込んでしまって。
それ無しだと、逆にどうして良いか判らなくなる。
まるで、それをしないことを、罪かの様に感じてしまう…
こんな時、甘えることを知らない。それを自分が欲しいと思っていることにも気付かない。
ましてや、甘えという存在を罪だとさえ思ってしまう、可哀相な、ひと。
そういう風にしたのは、勿論自分。
…本当に、この王子は優秀な生徒だ。
暫く沈黙が続いてから、プラチナは口を開きかけたが、その言葉が紡がれることは無かった。
「それじゃあ、プラチナ様。明日から遅れを取り戻したいので、そのおつもりで。…それから、これ以上、私の手を煩わせないようにして下さいね」
言外に、『無理にでも食え』という言葉を込めて、テントを去る。
――…きっと、プラチナは吐き気を堪えながら、それでもラカの実を食むだろう。
『俺は…お前の望む形になれているか?』
……どんなに努力したって、要らないものは要らない。
あなたの望む言葉は与えられない。
――…俺は、こんな言葉しか言えない。
『 Pregate,fratelli,
perche’il mio e vostro sacrificio
sia gradito, a Dio,
Padre onnipotente … 』
――この献げものを 全能の神である父が 受け入れて下さいますように…