(ああ、朝か…)
意識を取り戻して、何日目かの僅かな朝日の光をベッドの上で浴びる。
初めて意識が戻った時よりは、身体も何とか動くようになってきていた。
モノクルを嵌めていない右目には、朝の光は強すぎて痛みを生じる。それを緩々と持ち上げた右腕で庇う。
だが、この光も一刻ほどすればこの部屋には入らなくなり、物音すら滅多にしないこの部屋には、外界からの接触はたまに訪れるサフィルス以外、何も無い状態になる。
部屋の外の物音が聞こえないのも、壁がかなり厚いからなのだろう。
窓はほぼはめ殺しに近い感じで、少しだけ隙間を作ることが出来るが、その隙間は微弱な風は通すものの、掌を通すほどの幅は無い。こんな怪我をしている時には、風さえもが害になることもあるが、息苦しい感じは否めない。窓ガラスには、鉄格子が組み込まれていて、その格子模様の影が床に長く延びている。
僅かな時間、この部屋を照らすその光で、一日の始まりを漸く知り、『絶対安静』という退屈な時間が過ぎる。
動ける時は、この部屋の行けるところには全部行った。質素で何も無いが、奥に小部屋もあり、この部屋だけで過ごせる設備は十分に整っていて、試しにシャワーのコックを捻れば、きちんと水が出る。
うろうろするだけで酷く疲れたが、寝ているだけは苦痛だった。
この部屋には、危険に繋がるものは一切無い。
必要最低限の道具も無い、独特の雰囲気を持つ部屋。ベッドの端々を確認してみたら、やはりというか、拘束用の仕掛けと鎖が表面上、それと判らないようにあった。
…この部屋は、確かに病人の部屋だと感じる。
王家が、外に出せないような病人を隔離するための部屋だ。
離宮にも監禁出来ないような。
せめて本くらいあったら良いのだが、本棚すらここには無い。
何とメモを取る道具すらない。
仕方が無く、眠る。
幾ら寝ても、眠りと言うものは溜めて置けるものではなく、薬の作用も手伝って、いつしか気が付いたら眠っている。
――…眠れば、夢を見る。
自分が眠っている間に、治療行為が行われたらしいことは、真新しい包帯の感触で判った。
脇腹の傷を包帯の上から確認する。
身動ぎすれば、体の内側から引き攣れた痛みを伴うそこは、傷を見たわけではないが、表面は縫いはしたものの、まだ完全には塞がっていないのだろう。
回復魔法さえ使えれば、こんな傷、こんなに時間を掛けずに完治できるのだが、今の自分には魔法を使うことは体力的に危険だった。
…城の魔法医師の回復魔法を使うのも、アレクにとっては勿体無いということなのだろう。
自嘲気味にそう思っていると、扉をノックする音がして、がちゃりと扉が開く。
手に、必要品を載せた盆を持ったサフィルスが、顔を覗き込んできた。
…この部屋には物が無いから、果物ナイフでも食器でも、石鹸ですら外から持って来る。
「今日は起きてたんですね。何か食べられますか?オートミールくらいなら、医師から許可が出ていますが」
何せ怪我した場所が場所ですからね、と微笑みながら言うサフィルスに、こいつは絶対、俺の弱っている今の状況を楽しんでいるとジェイドは感じた。その微笑を苦々しい気持ちで見詰めながらそっけなく答える。
「…いらない」
傷の治り具合に響くのも判っていたが、食欲は全くと言っていいほど感じなかった。サフィルスも、困ったようにため息を吐く。
「うーん、じゃあ、何か果物でも如何です?」
仕方ががなさそうにサフィルスは言うと、ベッドの傍らの椅子に座り、持ってきた盆に用意していた林檎を、果物ナイフで剥き始める。
「何か、いい夢でも見ましたか?」
「…はぁ?」
「一度貴方が寝ている時に来たんですが、少し楽しそうでしたので」
この馬鹿は何を言っているんだろうと思えば、勝手に人の寝顔を見て良い夢だと決め付けていたらしい。
…あの夢の、何処が良い夢だろう。
――いっそ、夢ならどんなに良かったか。
それなら、本の中に閉じ込められることが出来ただろうか。
「――…プラチナ様の夢を見る」
「っ!!」
途端、サフィルスが短い悲鳴を上げて、剥いている途中の林檎を取り落とした。
何事かと見れば、手が滑ったのか掌をざっくりと切って、血が指を伝ってぽたりと絨毯に落ちる。
サフィルスは困ったような顔をして、傷をじっと見ていた。
「つ…」
「何やってんだ、傷見てないで回復魔法で治せばいいじゃないか」
「ええ、後でします…」
ジェイドが口を出すと、傷が痛むのかじんわりと微笑んでから、用意してきたタオルをナイフで裂き、手に巻いて止血する。
洗ったら食べます?と床に転がった林檎を拾い、ナイフも持って部屋の奥へサフィルスが消えるのを、ジェイドは視線で追う。
「お前の血がついたものを食わせるな! …後、で…?」
ジェイドが横にしている身体を少し起こし、サフィルスの消えた奥の部屋を見ると、奥から出て来たサフィルスと目が合った。
「…ああ、この部屋魔法が封印されてますから。――貴方が脱走しないように」
ベッドの傍らの椅子に座り直して、サフィルスはもう一度、水で血を流した林檎を剥き始める。
「薄暗いのも、この部屋が奥まった場所にあるためです。この部屋は、周囲を監視塔に囲まれている上に、衛士の詰所の傍で、衛士たちは詰所に戻るためには、この部屋の前を必ず通らなければ入れない」
それは、この部屋に何があっても、すぐに異変を感じ、取り囲むことが出来る、ということだ。
「…そんなに用心されなくても、この身体じゃ如何にも出来ませんよ」
「貴方の場合、回復したことを隠して私たちを騙し、脱走するなんて事、簡単でしょう?アレク様は、それを疑っておいでです」
…それは、サフィルスの入れ知恵もあるだろうと思うが、反論する気力も無かった。
サフィルスが、剥き終わった林檎を小皿に盛って、差し出してくる。
「はい、これを食べたら薬を飲んでくださいね。ああ、そうそう。包帯が取れたら、シャワーを浴びることが出来るそうですよ。良かったですね」
何とも、ささやかな『良いこと』だ。
…俺にとっては、それが『良いこと』なのかすら、判らない。
こうやって、生き延びていることも。
――…彼が、居ないというだけで。
* * *
――…ああ、また聴こえる。
( 『Gloria al Padre e al Figlio e allo Spirito Santo.
Come era in principio, ora e sempre,
nei secoli dei secoli……』
天からの。
光は眩しく、瞳を刺す痛みを生じる。
瞬き。
こんなにも、神は断罪するのか。
この地でまでも。
祈りを捧げても、繰り返しても。
尽きることのない、眩しい光。
…耐えられる、同朋は少なく。
神に捧ぐ愛を拒絶された子供らは、気が狂うしかないのに。
「――それは、何だ?」
不意に、背後から声を掛けられ、我に返る。
別に、そんなにも意識を奪われるものでは無かったが、暫く見詰めたまま佇んでいたのを、不審に思われてしまったのだろう。
振り返る前に、別の言葉が掛けられる。
「鳥…か?」
「鳥だったもの、ですね。猫に喰われてますが」
最近、食料庫を漁っている猫が居るらしいことは報告を受けていたから、この鳥を狩ったのが猫だと安易に想像できた。
何てことは無い。
猫も、生き延びるために鳥を喰い殺したのだ。
偶然、その死骸を見つけてしまった、それだけだった。
それなのに、プラチナは不思議なことを尋ねてくる。
「この間、餌をやっていた鳥か?」
「さあ…そこまでは。鳥の固体など覚えていませんから、判りません」
毎日見ていれば、その内固体が区別できるようになったかもしれないが、テントは移動する。
それに、敢えて覚えないようにしていたと思う。
この王子は、あの時しか見ていない鳥の区別が付くのだろうか。
奈落で鳥を初めて見たとき、こんな場所でも生息することに驚いた。
…そう、驚いた。
こんな場所でも、生きていけることに、驚いた。
プラチナはジェイドの横に立つと、周りを軽く見渡して、ぽつりと呟く。
「…羽根が、散らばっているな…」
「鳥が相当抵抗したんでしょう。猫も玩ぶ習性がありますから」
たとえ腹が満たされていても、本能で。
必要最低限の狩しか行わない、鳥とは違う。
「…弱肉強食って言いますけど、本当は、喰われる方が強いんじゃないかと思いますよ。――…獣の死に際、見たことありましたっけ?」
突然の話題に、プラチナは怪訝そうな顔でジェイドを離れた場所から見る。
満面の笑顔で笑うことはめったにないのに、どうしてこんな表情ばかりは出来るのか、ジェイドは不思議に思う。
……笑えば、一番綺麗だろう。
唯一の神をひたすら愛し、信じて生きていく、凡庸な天使の笑顔よりも。
「決して、死ぬまで、力を失うまで目を閉じないんです。じっと、静かな目で…喉元を食いつかれてるのに、腹を喰われているのに、じっとしているんですよ」
その時の痛みは、どんなものだろう。
喰う方にも、その痛みは血や肉を伝って、感じられるのだろうか。
「喰う方も、それなりの強さを持って、その強さに向かわなければならないのかも知れませんね…」
この王子は。
最期に、どんな瞳を向けるだろう。
「…それ、どうするんだ」
澄んだ声には感情を伴う響きは無く、淡々と訊いてくる。
天使を殺すときも、同じ声音で。
感情の動きが無い訳ではないのを、知っている。
…それに気がつかない振りをして、付け込んでいるのは、自分の方だと、ジェイドは知っている。
「どうもしません。このまま、土に還るだけです」
「墓は、作らないのか?」
「はぁ?」
今、この王子は何と言った?
思わず口を開いたまま、次の言葉も無くプラチナの顔をまじまじと見つめる。
プラチナはただ、不思議そうにこちらを見返すばかりだ。
「――…鳥に?」
驚きが強すぎて、プラチナの発言の何処に何を言うかの勢いを失ってしまい、漸く出た言葉は何だか馬鹿みたいに簡単な単語だった。
鳥といったところで、猫に散々玩ばれたコレは、最早部品だ。
かつては鳥だったもの。
でも、今は何でも無い。
「プラチナ様、あなたが死んでも、こうやって死んでいる鳥と何ら変わりは無いんです。誰もあなたの骨など拾わない。朽ち果てても、誰も何とも思わない」
それが、奈落と言う世界なのだから。
鳥ごとき、小さな一つの命に涙してくれるような存在など、ここには居ない。
助けを求める声だって、誰にも届かない。
「プラチナ様だって、殺した天使の墓を作ったりはしないでしょうに」
プラチナの足元に転がる残骸を一瞥する。
討伐で殺した天使は、後で纏めて穴に投げ込み、油を撒き火をつけた後、埋める。
その様子を初めてみた時、ぞっとした。
空に生まれても、空には還れない。
「…プラチナ様?」
プラチナはマントが汚れるのも気にせず屈んで、鳥の残骸に手を伸ばすと、散らばった羽根一つでさえ丁寧にそのてのひらに集めていく。
「何をしているんです。手が汚れます、止めて下さいよ」
ジェイドの制止の声が咎める響きを含んでいるのを、振り返ったプラチナは不快そうに眉を顰めて聞いていたが、ジェイドの声よりは遥かに静かな声で反論する。
「洗えば良いだろう」
「そう言う問題じゃありません」
「お前は作らないのだろう。俺は作りたいと思った。それだけだ」
そう言って掌に残骸を乗せたまま、プラチナは歩き出す。
どうやら本当に、墓を作る気なのだろう。
「…判りましたよ。どうぞ、お好きになさって下さい。その鳥も、王子手ずからの墓を貰えて、さぞ嬉しいでしょうね。…躯に気持ちが判るのなら、ですけれど」
棘を隠すつもりは無く、吐き捨てるような、容赦無い口調でプラチナに告げると、そっと目を伏せて俯き加減になる。
だが。
「喜ばせる為に、していることではない」
その声は動揺も変化も無く、きっぱりと言い切る。
この王子の表情の変化の無さに、時折酷く苛々することがある。
…自分の言葉が、感情が、伝わらないのではないかと…そう思うのだ。
もっと、酷い言葉を言えば、もっと精神的にも肉体的にも傷つければ。
この王子に伝わるのか。
そう、思うことがあるのだ。
「…では、プラチナ様は誰かに骨を拾って欲しいんですか?」
「――…死んだら、それまでだ」
「ええ、そうですね。その通りですよ」
勢いに任せて、意味の無いことを訊いた。
…馬鹿馬鹿しい。
(――…キモチワルイ)
何をムキになって。
相手は、つい最近まで眠っていた、生まれたばかりの子供。
何も知らない、まだ本当に汚れてもいない。
理解し合える訳が無い。
所詮、違う生き物なのだから。
(…俺の、気持ちなど…感情など、この王子が理解できるはずも無い…)