「ほら、プラチナ様。綺麗でしょう」

 そう言って、ジェイドが広げたのは、色鮮やかな群青に蝶と花の模様の浴衣。

 その日は朝から様子が違っていた。

 開け放した窓の外からは、いつもよりは浮ついた町のざわめきが聞こえる。金魚を売りに来た行商人に、あの音は何だと問えば、小太鼓と笛の音だという。

 赤い小さな金魚とガラスの鉢を買い、窓際の机の端に置くと、水に陽がさして机の上をきらきらと揺らした。小さな金魚の影も、水草の影も、それに合わせるようにゆらゆら揺れる。

 その様は少し気に入ったので、頭を机に置いて間近で暫く眺めた。

 氷売りは忙しいらしく、昼になってもまだ現れない。

 今日は何があるのかと思っていれば、朝食後ふらりと出かけていたジェイドが浴衣を買って来た。それをどうするつもりなのか、と問えば当たり前のように答える。

「あなたが着るんですよ。今日はお祭りがあるそうですから」

* * *

 ジェイドがこの温泉街に来てから、数ヶ月が経つ。

 訪れたのはまだ寒い時期だったが、今は初夏らしく暑い日々が続いている。

 あれから、温泉街で奈落王家が貸切にしている古びた宿に無事着いたものの、ジェイドは傷の所為か熱を出し、暫く病人生活を余儀なくされた。

 プラチナといつもと立場が逆の状態で、病人らしく布団の中で不満そうにぶちぶちと文句を垂れていたジェイドを、傍らに座ってプラチナは仕方が無いだろう、と宥める。

「サフィルスの場合は、『王の石』のかけらを兄上が飲ませたから回復も早かったが…」

「かけらを?」

「ああ、自分たちで飲んだもの以外に、お互い一つずつ、持って帰ったから」

 もし将来、自分たち以外の、一緒に居たい相手が現れた時の為に。

 そうアレクは言ってプラチナの手にも乗せたが、きっとすでに頭の中にはサフィルスに飲ませることがあったのだろう。

 そうジェイドに説明をすると、少し考えるように視線を外し眉を顰める。

 プラチナには、アレクのしたことを責めるつもりはない。アレクがサフィルスを必要とし、そしてサフィルスもそうなのだと思うからだ。

 アレクは自分と同じように、プラチナもジェイドに飲ませることを予定して居たのだと思う。

 だが、プラチナには出来なかった。

 プラチナは、自分が空に、月になれないことを、痛いほど知っている。

「さすがにお前にそれを無断でする訳にもいかないだろう?傷が早く治るとしても、歳も取らない不死になるのだから。だから魔法や地道な治療行為しか出来なかったんだ」

 地道な治療行為ね、とため息と共にジェイドが呟く。

 どうやら、プラチナがジェイドの看病していた途中で疲労に倒れ、先にこちらに療養に来ている間、ジェイドに色々なことがあったようなのだが、ジェイドには相当嫌なことだったのだろう、視線を外したまま未だに説明すらしない。

 額の水に濡らした布を変えてやると、ジェイドがポツリと尋ねて来た。

「…あなたが助けたんですから、あなたの命なんです。――…好きにすれば良かったのに」

「そう言われてもな。これはやはり取り返しがつかないことだし、…勝手にお前の人生を変えるのはいけないことだろう」

「俺を助けた時点で、もう変わってます。取り返しがつかない程度には」

「…ああ、そうか、それもそうだな…」

 肯定の返事をしながら、考える。

 人生を変えるなんてことは、必要とされているものだけに許される行為ではないかと思う。

 プラチナはただ、我侭で、彼を死なせたくなかったのだ。

 まだ何もしていない。

 ジェイドが裏切っても、今でも感謝していることは、変わらない。それなのに、間違ったままの、プラチナ自身が勝手に思いこんだ報いで別離したままなど、自分が許せなかっただけなのだ。

「死にたかったのか?」

 プラチナの問いに、ジェイドは少し目を見開いて、言葉を止める。

――…死んで当たり前だと思ったのは確かです」

「還れなかったからか?」

 ジェイドは微苦笑してから、左腕を動かして臥したジェイドの傍らに座るプラチナの長い銀髪を、一房、指に絡めた。

「プラチナ様」

「ん?」

 ジェイドの指が髪を弄ぶ仕草を、知っている。

 見なれた指、てのひら。

 戦闘時に詠う様に呪文を唱えるときも、治療する患部に翳すときも、その動きが美しいことを知っている。

 ―――それに触れたことは一度、朦朧とした意識の中でしか無いけれど、知っている。

――…何でもありません」

* * *

 ジェイドが病人として生活している間、プラチナは看病として傍についていた。

 そんな事をしなくても良いとジェイドに言われていたが、護衛として付いて来ているカロールやジルに看病されるのとどちらが良い、と尋ねたら黙ってしまった。

 カロールやジルは王命で、この温泉街に現れる天使討伐にも協力することを前提に、護衛として来ている。ただ、継承戦争とは違って自分の時間を多く取ることを許しているから、留守にしていることが多い。

 ここでのプラチナは、アレクの頼みで急ぎではない仕事を片付けることになっている。

 所謂雑用を片付ける作業だ。

 2週間に一度訪れる城からの使者が、アレクとプラチナ間の書類を配達し、時には互いの差し入れを持って、報告や説明を行う。

 使者が報告を済ませ城へと帰ってから、仕事をプラチナが片付けるのを、ジェイドはじっと見詰めていた。

 プラチナが仕事以外の事をしていても。

 本を読んでいても、転寝している時でも。

 見守るように、ずっと。

 春になると、ジェイドの怪我も完治して、調子を取り戻したようだった。

 プラチナが持ちこんだ本を気紛れのように手に取り、窓辺に腰掛けて読んでいるようだったが、すぐに窓下から幾らか離れた川沿いに咲き誇る、淡い桃色の花の散る様に目を奪われたようだった。

 ジェイドに花の名前を訊くと、桜だと答えが返って来た。

「天上にも、咲いているのか?」

「天上に? 何故そんなことを訊くんです?」

「熱心に見ているからだ」

「意味はありませんよ、綺麗だからです」

 プラチナの表情を見て、何が可笑しいのか少し笑んで見せてから、噛み砕くようにゆっくりと、もう一度言う。

「綺麗だから、見ているんですよ」

 床払いが出来てすぐにプラチナの仕事の手伝いを申し出て来たが、手伝って貰うようなことなど何もない内容だからと断ってから、手持ち無沙汰なのか時折ふらりと出掛けては、短時間でまたふらりと戻ってくる。

 特に引きとめる理由もない。

 ただ、こうしていつかふらりと出かけて、帰ってこない日が来るのだろうと、プラチナは漠然と感じた。

 どこかに、ジェイドの新しい目的となる何かがあると良いと、思う。

 ふと顔を上げるとジェイドと目が合った。

 何時の間にか部屋に来て、近くなく遠くない位置で、またプラチナの作業を見詰めていた。

――それ」

「…? どれです?」

 ジェイドが自分とプラチナの間を見て、首を傾げる。

 プラチナは手にした書類を捲り確認を続けながら、言葉を継いだ。

「モノクル。間に合ったんだな」

 その言葉に、ジェイドが右手をモノクルのフレームに当てる。

 レンズを手に入れても、モノクルについては良く判らなかったから、サフィルスに任せたのだ。

「ああ、これについては色々お尋ねしたいことがあったんですけどね」

 ジェイドの表情を見て、感づいたか、ロードが話したかのどちらかだと知ったが、そのままジェイドの言葉を待つ。

 だが、ジェイドはふと表情を和らげて、目を伏せた。

――…やめておきます。何だか上手く言えないような気がするから」

「…怒ったか?」

 本当は怒ったのではないと判っていたが、仕事の手を止めジェイドを見ながら一応訊いてみる。怒ったのだったら、もっと違う表情と反応が返ってくるのは、継承戦争で身に染みる様に判っていた。

「いえ…怒ってはいません。…たぶん」

「そうか」

 ジェイドの返答に少し笑う。

「…プラチナ様」

「ん?」

 仕事を再開したプラチナの耳に、ジェイドの低い囁きのような声が届いて、もう一度振り返る。

 振り向いた先のジェイドは、少し驚いたような顔をしてから、いつもの様に笑って見せた。

――…いえ、何でもありません」

* * *

 青い月を静かに見上げるのを、知っている。

 焦がれるように。

 そんなに空に戻りたいのかと思う。

 プラチナは、自分が空に、月になれないことを、痛いほど知っている。

 だから、ジェイドがプラチナを必要としないことも、知っている。

 それはどうしようもないことだ。

 プラチナが魔人でなくても、どうしようもないことだ。

 たとえ、プラチナがジェイドの望んだ通りの王になれていたとしても。

 ジェイドが傍から居なくなる日が来るのを、前は考えたことがなかったけれど、今は考えなくてはならない。

* * *

「下駄はそこで買いましょう」

 仲居の手を煩わせず、ジェイドの着付けで浴衣を着た後、何軒か先の店に入るのに宿の備品を履いてプラチナは付いていく。

 店先に吊ってある色とりどりの鼻緒から、ジェイドは白地に水色の模様の入ったものを選ぶと、職人相手に足を出すように言う。

 何故だと問えば、そうして足に合わせて作れば靴擦れが起きないのだという。

 鼻緒の長さを調整し、時々履かせながら職人が下駄を作る様を見ていると、宿に備品を戻しに行ったジェイドが帰って来て、どうですかと訊いてきた。

 素足だから変な気がする、と答えるとまぁ、慣れでしょうねと返して来た。

 結局、何事も経験しろと言うことなのだろうか。

 からころと、下駄の音が響く。

 ちらり、といつもの歩調で前を歩くジェイドの後頭部に視線を移せば、道の左右に並ぶ店が、祭にあわせて商品を変えたり、値段を安くしたりしているのを、面白そうに見ている。

 遅れているのは、うんざりするほどの人ごみと慣れない下駄の所為だ。

 少し、足を速める。

 からころ。

 どんなに周囲が騒がしくても、自分の足音だけは耳に響く。

「っ!」

 石畳の角が下駄の先に当って、軽く身体のバランスを崩した。さすがに転ぶなんてことはなかったが、つい立ち止まって足先を見る。衝撃だけで、痛みがあったわけではないが、素足というところが落ちつかない。

 突然顔の前に、す、とごく自然に手が伸ばされた。

 良く知っている、ジェイドのてのひら。

 それを握ったことは一度もないけれど、その指が手が、髪に触れる感触は知っている。思えば、触れ合ったのはそれくらいしかない。

 ――何故。

 何故あの時、ジェイドは抱きしめたのだろう。ジェイドがそんなことをする理由が判らない。あんなにも強く。

 呼吸するのが痛いくらいに。

「ほら、プラチナ様」

 まじまじと伸ばされた手を見詰めていたプラチナに、ジェイドが手を揺らして促す。それでも判らないプラチナの手を、ジェイドの手は強引に、それこそ奪うように掴んで歩き出した。

 先程とは、少し遅い速度で。

「こうすれば、迷子にならないでしょう?」

 繋がれた手に引かれて、からころと下駄を鳴らす。

 手は強くなく、けれど決して離れない強さで確かに繋がれている。プラチナが店先の商品に目を奪われて、歩みが緩くなっても、ジェイドは歩幅を合わせてプラチナの問いに答える。

 ジェイドがそんなことをする理由が判らない。

* * *

 部屋に戻った時もまだ祭は盛況で、窓の下の店先から漏れる光と、道を照らす色とりどりの提灯で、部屋にも淡く光が入っている。

 そのまま薄暗い部屋に入り、窓際の金魚鉢を覗くと、ゆらゆらと尾を振って泳いでいた。金魚はまだ眠ってはいないらしい。腹が減っているのか、と思い、座りこみ餌を指で摘んで落とす。

 金魚が餌に寄るのを見ながら、つがいを買えば良かったのかもしれないと、今更、気が付いた。

 明日また、金魚売りは来るだろうか。

 ふと見上げれば窓の向こうに丸い月が見える。

 外でジェイド共に祭を見ている時は、全く気が付かなかった。

 ふと、浴衣を脱ごうとして、帯の解き方が判らないことに気がついた。

 恐らく後ろの複雑な帯の形を解けば良いのは判ったが、ジェイドが苦労して随分と締めたから、強くきつく隙間もない上に、浴衣と帯の摩擦で帯を前に回す事も出来ない。

 仕方がないので、ゆるりと立ちあがってジェイドの部屋に向かう。

 もし、ジェイドが部屋に居なくても、おかしくはないと思った。

 寧ろ、それが当然の気がした。

 そうでないと、あの行動の理由が判らない。

 だが、考えを裏切って、ジェイドは部屋に居た。

 プラチナと同じく部屋の明かりは点さず、真っ直ぐと佇んで、やはり窓の向こうの月を見上げていたようだった。

 声を掛けるのは躊躇われたが、ジェイドの方が気が付いて振り返る。

――…邪魔をしたか?」

「いえ…ああ、帯ですね」

 ジェイドは正面に立ったまま、少しプラチナの方へ身体を倒し、背後へと腕を回して帯に触れた。プラチナの顔の横にジェイドの顔があって、頬に当たる髪がくすぐったい。

 端から見れば、抱き合っているかのような格好になった。

「プラチナ様」

「ん?」

 やがて帯が緩くなり、余り自覚していなかった圧迫感が薄れる。するりとジェイドの指に引かれて、帯が体から離れていく。

 浴衣はまだ、腰に縛る紐があって脱げないが、そこからは自分で出来そうだったので身体を離そうとする。

 だが、ジェイドの腕は背中にあって、離そうとしない。

 腕の力は次第に確かになり、いつかの夜のように強くプラチナを抱きしめる。

――…あなたに触れても、良いですか?」

 耳に直接そう言われて、びくりと身体が震えた。

 言われた意味が判らない。

 何故、プラチナに言うのかが、判らない。

 横にあるジェイドの顔を見ようとした、プラチナの仕草に応えたのか腕の力が緩み、ジェイドが体を起こす。

 困惑したプラチナの表情を見て、ジェイドは静かに微笑んでから、右の指先からてのひらへ、ゆっくりとプラチナの頬を包み込むように触れる。

 ジェイドの顔は月の光を受ける窓を背にしていて、逆光で暗い。

 良く見えないのに、ジェイドがプラチナを見詰めているのは判った。

 視線が痛かったのか。

 自然と目を閉じた。

 次に目を開けるまでの間、それは長かったのか短かったのかは、判らなかった。

「何故だ…?」

 口吻けの意味が判らないわけじゃない。

 ジェイドがそんなことをする理由が判らない。

 戯れなのか。

 …それとも。

 目が熱い。

「『王の石』のかけら…まだ残ってます?」

 頬にあてている指がそろりと動いて、顔に掛かる髪をそっと払った。

「…何故、だ…?」

 ジェイドの輪郭がぼやけて見える。

 もう目を開けていることは出来なくて、瞼を閉じた。

 その途端、目から零れたものが頬を伝い、それを拭う感触がする。

 見なくても判る。

 ジェイドの指だ。

 指の感触につられて瞼を開ければ、少し困ったように苦笑するジェイドの表情が間近にあった。

「傍に――…というのは、欲張り過ぎですか?」

 そう言って、ジェイドが広げたのは、色鮮やかな群青に蝶と花の模様の浴衣。

end.