朝早く、久しぶりに外の空気を感じながら、馬に最小限の荷物を括り付け、用意を整える。
今まで薄暗いところに慣れていた分、少し日光に対して目に痛みを感じた気がしたが、それも暫くすれば慣れた。
天気は嫌になるほど良い。空気はまだまだ冷たいが、陽が暖かい。
あんなことがあったのに、奈落は変わらないように見える。
夢の中の、出来事のように思えたが、それでも、ジェイドが『石』の力を持って奈落に齎した傷跡は、確かにあった。
宿の方には連絡が行っているらしく、必要なものは全て揃えてあるという。
問題なのは、ジェイドの体力だけだった。馬というものは、意外と体力を使う。急がせなければ良いだろうが、それだけ時間が掛かる。時間が掛かれば、やはり体力は消耗する。自分で思っているよりは体力は戻っていないだろうから、配分に気をつける必要があった。そもそも、リハビリの期間さえおかずに、馬に乗ること自体が無謀だが。
準備を確認して、ジェイドが馬に跨ろうかとした時、見送りに来たサフィルスが声を掛けてくる。
「…ジェイド」
呼びかけに首だけ振りかえれば、俯いて考えこんでいる。声を掛けたことを、後悔するかのように。
何か言い難いことなのは判ったが、いつまでたってもここに居る事になりそうで、身体ごと向き直り、サフィルスを短く急かす。
「用が無いなら行くぞ」
サフィルスは、その言葉に慌ててジェイドに視線を合わせると、力の無い、呟きに近い声でそっと言う。
「…本当は…本当は、黙っている約束だったんですけれど…」
そこで一度、息を吸って言葉を切る。視線が地面に向き、また、少しだけ迷っているようだったが、漸く決意したように、サフィルスは顔を上げた。
「モノクルのレンズを見立てたのは…、プラチナ様なんです」
息が、止まるかと思った。
頭を殴られたかのような衝撃を受け、くらりと眩暈がして、思わず馬の手綱を握る。
片手で額を押さえ、思考をなんとか正常に保とうと努力した。
聞き違いかとも思ったが、でなければサフィルスがこんなにも迷う必要はない。
――…そんなのは、ありえない。
ありえるはずが無い。プラチナが、そんなことをする理由が無い。
(……何の、為に?)
何が目的で?
愕然としているジェイドに、サフィルスは余裕が出来たのか、微苦笑をしてみせて、言葉を続ける。
「私がしたのは、お店に行ってフレームを見立てて、注文しただけなんです」
「…いつのことだ」
声が掠れるのを、震えるのを喉を押さえて何とか堪えながら、問い掛けた。その問いに、サフィルスは伏せ目がちになり、記憶を辿りながら答える。
「ずっと前…まだ継承戦争中に、プラチナ様から貴方に秘密で、レンズのお使いを頼まれていた方が居まして」
いつのことだろう。金銭的な管理をしていたが、そんな出費はしていないはずだ。まさか、無報酬ではあるまいし。
何年たっても、貴重品であることには変わりない。だからこそ、視力が合わなくても、そのまま使っていたというのに。
あのプラチナが自分に黙って誰かを使いに出せるとは、思っていなかった。
どうやって、彼は何を引き換えに、使いを出すことが出来たのだろう。
(――…まさか)
夜着やシーツの全てが、プラチナの病によるものではなくて、一部分がそうだとしたら。
ジェイドが考えているよりも、吐血による処分が少なかったら。最初に疑った通り、プラチナのテントに補充された新品を、少しずつ転売していたら。
可能かもしれない。
吐血で処分することが無ければ、大幅に減ることも無く、きっと、継承戦争の最後まで気付くことはなかっただろう。
ジェイド自身がすぐには気付かなかった程なのだから、勿論ロードも加担していたのだろう。多少の手数料を受け取って。
『ふーん…お前、本当に何も知らないんだ』
今更、自分の迂闊さと、本当にロードの言葉の意味を知る。
だが、この使いにやった兵士が、もし途中でその大金を持って消えたら、どうするつもりだったのか。転売のついでに、ロードに監視を頼んでいたのかもしれない。
「作られている場所がとても遠いところですし、レンズの精製にも時間が掛かって、帰って来たのはつい最近だったんです。それで、その方がレンズをどうしたら良いかと私を頼って来ましたので」
当のプラチナは居ないし、一応ジェイドは、『奈落王を暗殺した者を捕らえる際に、手傷を追わされて療養中で、面会謝絶』だったのだから、奈落王になったアレクよりも、ジェイドと親しいサフィルスに任せるのが、無難だったのだろう。
「けして安い買い物でもないのに、きちんとレンズの段階に分けた予備まであったんですよ」
真面目な、プラチナ様らしいですよね、とサフィルスはくすりと笑う。
…何も。
何も言えなかった。
喪ったものの、大きさを知って。
サフィルスはジェイドと視線を合わせて、静かに微笑みは湛えたまま、はっきりと言った。
「貴方、愛されてたんですね。――プラチナ様に」
* * *
体力のことを考えれば、真っ直ぐに目的地へ行くべきだとは思ったが。
そのまま、少し足を伸ばした。
月の映える夜。
ジェイドはその地に立ち、陣営の名残を感じる。
ぐるりと見渡して、視線を中天へ向ければ、冴え冴えとした光を静かに放つ、輝ける存在が見えた。冬空に相応しく、淡い月光が濃紺の闇に、月よりも何倍も大きな耀きを放つ輪を作り出している。
あの時ずっと感じていた、同朋の歌声は、いつから聴こえなくなっていたのだろう。
気が付いたら、ずっと、冷たい色の月のようなひとを見ていた。
歌が耳に入らないくらい、冷たい月を見ていた。
決して手に入らないそれを。
こうやって振り返るのは自分らしくない行為だと、ジェイドは内心笑った。しかし、心の何処かでは、かなり本気だった。
ほんの短い間だったのに、随分と長い時間離れていたような気がする。
冬の名残はまだそこにあって、そんなに離れていたわけではないことを伝えていたが、それでも遠い昔のことのように感じた。
ここに来れば、彼の記憶がより、鮮明になると思った。記憶力が悪い方ではないし、忘れようと思ったことも無いが、―――まいったな、と思い自嘲した。
……どれだけ美化しようとしても、美しい思い出は一つたりとも無い。
美化する必要の無い彼だけが、儚く思い出されるだけだ。
裏切って、殺すなら。
どうせ殺してしまうのなら。彼が熱に苦しむ時や、繊細な心が苛まれている夜に。
ずっと、抱きしめていれば良かった。
最期の瞬間も、抱きしめることは出来なかったのだから。
こうして…今も、最期の瞬間も、胸が痛むのが、同じなら。
少しでも優しい思い出があった方が、まだ、辛くないのかもしれない。
哀しみが強い所為なのか、
それとも、何処か壊れてしまったのか。
涙も流れない。
もう、容易く涙を流せる歳でも性格でもなかったが、せめてこういう時くらい泣くものだろうと、自分自身を嗤った。
泣くことが出来ないなら、嗤うしかなかった。
どうしてこんなにも。
――愛(かな)しいと、思うのだろう。
風が強く、頭上の雲は何度も月をちらりちらりと隠す。
風に流された邪魔な髪を手で払った際、ふと、視界の端に、白い小さな花が見えた。
…正しくは、切花。
地面に不自然に置かれているそれは、まだそんなには萎れていない。
切られて2日程度だろうと思う。
何故そんなところに、という思いと、遠い記憶が一瞬で交差して。
ああ。
(…ああ、そうだった…!)
結局、鳥の墓はここに作ったのだった。
あまりにもプラチナの手付きがぎこちなくて。
だから、ついつい手を貸してしまったのだった。
最後に一応建前で花を切って捧げると、プラチナは……
微笑んでいた。
綺麗に。
きっと、プラチナ自身でも判っていない、無意識の笑みが、胸に痛くて。
墓の記憶ごと、心の奥底に閉じ込めていたのかもしれなかった。
…誰が、その事を知っているだろう。
誰も知らない。
それなのに、誰が、花を捧げるだろう。
月が翳る。
その間だけ薄闇が周りを包む。
不意に、少し離れた背後で茂みを掻き分ける音が耳に入り、咄嗟に振り返り身構えた。獣か、または狂った天使か、と思ったが、それにしては気配の質が違う。なるべく気配を隠して、近づく気配の主が茂みから出てくるのを待った。
不意に雲が晴れて、途端に雲に遮られていた満月が頭上を支配し、氷の結晶による月暈がより一層輝いている。
幻想的な、見惚れるようなその世界に。
――そこに。
ありえない姿を見て。
「…ジェイド?」
ありえない、声を聞いた。
「――…プラ…チナ、…様…?」
幻かと思った。
この手で殺したはずの、ひと。
すらりと立つ、その凛とした姿も。
銀の長い髪が、月光を浴びて美しく輝く様も。風を受けて翻ると、羽根のように見える、白いマントも。
全て変わりなく、そのままで、そこに彼が居たのだから。
驚きのあまり息を吸うのを暫く忘れてしまって、その所為で言葉を発するのが遅れるくらい。自分の正気を疑った。
だがその幻は茂みから、いっそ無粋と思えるほどのがさがさという音を立てて出て来て、マントを軽く払いながらすたすたと近づいてくると、余りに呆然と立つジェイドを見て、怪しげに首を傾げて見せた。
とても。
…とても、プラチナらしい、仕草で。
プラチナらしい声音で、問い掛けてくる。
「何をしている、こんな所で?」
「プラチナ様…こそ…」
きちんと受け答え出来ていることが不思議だと、まるで他人のように思いながら言葉を返す。
逆に問われて、プラチナは少し乱れた髪を手で流しながら、
「俺は、サフィルスから連絡があったのに、お前がなかなか着かないから、迎えに来ただけだ。…といっても、心当たりがあるのは、ここぐらいしかなかったんだが…」
ここに居て良かった、と言って口元を僅かに綻ばせる。
「……別に、お前が何処に行こうと自由だが、怪我が完治するまでは、ここに――…俺の傍に居ても良かろう?」
自分を見詰め返す青の瞳と、その微かな笑みを見詰め、漸く少し冷静になりつつある頭で、下手をしたら空回りしそうになりながら、考える。
逃げていたら、どうなっていたのか。
プラチナがこうして、生きていることを知らないまま、どこかへ行っていたら。
――…きっと、彼がいないのなら、何処に居ても同じだったろう。
先が見えずに、毎日、少しづつ病んで、狂っていくと、思う。
救いも無く。
「――…プラチナ様は…身体の方は…?」
状況を整理しようとして、まず死んだと思っていたプラチナがジェイドの前に立っている、その現実から受け入れようとする。
大体、何がどうなったのか。何も知らない。全く、頭に来るほど何も知らないのだ、自分は。
たった一つ、アレクやサフィルスに騙されていたことを除いては。
「ん? 兄上から聞いてないか?」
ジェイドの声が弱くて聞き取りづらいのか、プラチナは少しジェイドとの距離を縮める。
手を伸ばせば、触れられる距離にまで近づいた、月光に照らされるプラチナを見て、まさか夢ではないだかろうかと、ふと不安になる。
月の光は、何もかもを幻想のように見せてしまう。
「俺は大丈夫だ。兄上と一緒に、『王の石』のかけらを飲んだから」
「え…?」
『王の石』とは、王冠から持ち出したあれのことだろう。あの石に、とてつもない力こそ感じてはいたが、まさか『飲む』ことがあるとは。
ジェイドの驚いた顔に同意するように薄く微笑んで、プラチナが頷く。
「あれには不老不死の力もあるそうだ」
「…不老不死…では、今は何も…?」
「ああ、前より丈夫になったくらいだ」
プラチナの返答に、ただ、安堵した。これでもう、彼は苦しまなくて良いと判って、ただ、脱力した。
そのまま、今までのアレクの言葉、サフィルスの言葉、全てを思い出しながら、漸く現在の、自分の置かれている状況を受け入れる。
ああもう、本当に。
馬鹿みたいに、簡単に騙されていた。
そうだった、アレクは一度も…――
「…あ、は…ははは…っ」
頭の中で今までの会話を思い出しながら、考えている間中ずっとこみ上げて来るものを堪えていたが、ついに耐えられなくなり笑い出す。
「――ジェイド?何を笑っているんだ?」
プラチナに怪しまれながら、それでも身体を曲げてひたすら笑う。
プラチナが『死んだ』とは、誰も一言も言っていない。
サフィルスは、『死ぬことになっても』とは言ったけれど、『遺言』とは、言っていない。
アレクも、ジェイドの問いに怒っただけで、口にしていない。
あのアレクが、どれだけ演技の練習をしたのか。こちらは騙された上に、あまつさえ感心すらしたというのに。いや、感心しているのは、今でもだが。
サフィルスも、なんだかんだと言いながら、それでも楽しんでいたに違いない。あの時の、困ったような、悲しいような、表情。今なら、あの表情の意味も判る。
…笑いを堪えていた表情だ。
仕返しというには少々酷く、復讐というには、余りにも幼稚な、ジェイド自身の罪悪感を利用した、最低最悪な行為。
だが、この安堵感はどれほどのものか。
喪ったと思っていたものが、今、こうして目の前にちゃんと、在る。
「あははっ…ははっ…痛っ」
余りに酷く笑っていた所為か、まだ完治はしていない傷から引き攣れた痛みが走った。
「無茶をするな、お前はまだ…」
プラチナが慌てて、体を支えるつもりか手を伸ばしてくる。
その手を断ろうとして、顔を上げプラチナの表情を見たとき。
不意に、それは訪れる。
あの時、したくても出来なかったことを。
もう、何も止めるものは無くて。
自分から手を伸ばし、プラチナの手を取り、力任せに引き寄せた。
「――っ!?」
とすんと腕と胸に感じる、確かな感触。
腕に触れた少し冷えたマントとは相対的に、胸に掛かる吐息は温かい。
ああやはり生きている、と実感した。
生きて、傍に居る。
その存在感を、腕の力を強くして何度も確認した。指先に触れる髪の感触も、変わらないままそこに在る。
「ジェイド…!」
慌てたように声を大きくして、腕から逃れようとするが、それを許さずさらに腕に力を込めた。その力にびくり、とプラチナの身体が跳ねる。
「ジェイ…ド…?」
腕の中のプラチナが緊張しているのが、腕から伝わってくる。
無理も無い。こんな風に抱いたことなど、一度も無かった。
それに、プラチナの中では、『ジェイドはプラチナのことを疎ましく思っている』のだから、ジェイドのこの行動に対する心構えなど無いだろう。
「ジェイド、痛…い…」
酷く戸惑っているようだった。常の彼では聞くことが出来ないような、弱い声音で訴えてくる。
それでも、腕の力を緩めずにそのまま抱きしめていると、強張った体が居心地が悪そうに、それでも大人しく腕の中に落ちついた。
暫く自分が満足するまで、力を込めたままプラチナを抱きしめ、髪を撫で、触れながら、
「――…良かった」
ただ、それだけを伝えた。
長々と言葉を綴るのは、言い訳のようで。他の感情のどれも今は失ったかのように、それだけが心を占めていた。
殺してしまわなくて良かった。
生きていてくれて良かった。
今はただ、こうして強引にでも腕に抱くことが出来た、そのことを喜ぶ。
「…すまない…俺は、お前に報いようとしたつもりだったのに…」
逆に傷つけていたんだな、とプラチナは力無く呟く。
「…そんなこと、ありませんよ」
プラチナの沈んだ表情にジェイドは微笑んでみせて、そっと冷えた指でプラチナの頬に掛かる髪を払う。
指先が触れたプラチナの頬は温かく、いつかの夜を思い出す。
指の冷たさに驚いたのか、びくりとプラチナの身体が反応した。
「前から思っていたんだがな、どうしてお前の手はそう、冷たいんだ」
嫌そうに眉を顰める表情に、やはりあの夜は耐えていたのだと知る。
堪えていたプラチナの心境を思うと、全て良い方向になったから良いものの、笑うところには相応しくないが、不謹慎にも、思わず口元が綻んだ。
「おや、プラチナ様はご存知ありませんか?手が冷たい人は心が温かいって、言うでしょう」
「――…お前の冗談は、笑えない」
プラチナは眉を顰めたままそう言い、顔を胸に預けてゆっくりと、背中に躊躇うように腕を回して来て。
そっと、か弱い力で抱き返してきた。
禁忌に触れるかのように、微かに震えながら。
ぎこちない抱擁を受け入れながら、その震える腕を、姿を、愛おしいと思った。
『Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Misereatur tui, ominipotens Deus, et, dimissis peccatis tuis, perducat te ad vitam aeternam.
Sicut erat in principio, et nunc et semper: et in saecula saeculorum. Amen.』
何から償えば良いのか、まだ判らないけれど。
あなたが許してくれるのなら、
――…傍に。
ただ、あなたの傍に。
いついかなる時も。
今も、臨終のその時まで。
end.