「…そろそろ時間か」

 懐中時計を取り出して、ジェイドは読んでいた本を閉じ、紅茶の残りを飲み干した。

 ここの所、毎日アレクがプラチナの休憩時間に訪れては、『一緒に昼寝をしよう』と言って強引に連れて行ってしまう。プラチナも、『兄弟は仲良くするもの』と いうアレクの言葉に素直に応じている為に、お陰で共に過ごす時間を取られてしまい、ジェイドは腹立たしい事この上ない。

 …アレクが、わざとそうしているのが判るから、余計に。

 通り掛かったメイドにテラスの片付けを頼むと、ため息を吐きながらジェイドはアレクの部屋へと向かった。

 アレクの部屋の前まで来た時、何故かいつに無く部屋の中が騒がしい気がした。ノックを数回繰り返したが、返事が無いので勝手に扉を開ける。途端に、何をしているかは判らないが、いつものメンバーが揃いも揃ってアレクのベッドを囲んでいるのが目に入った。

「プラチナ様、もうすぐお時間ですよ」

 何をしているんだと思いつつも、一向にジェイドに気付かない団体は、ジェイドの視界からプラチナの姿を阻む。

 仕方なく離れたところで声を掛けると、珍しく人垣がざぁっと開いた。

 …お陰でベッドの上のアレクの隣にいるものが、良く見えてしまった。

 目の前に現れたそれに、出来事を一瞬どころか、暫く理解出来ない。

 まじまじと見つめてみたが、見ているだけでは原因の解明には当然ならなくて。

 やむを得ず、気まずそうな顔をしているアレクに声を掛ける。

――…アレク様、それ、何の冗談です?」

「はは…ごめん、俺にも判んないんだ…」

 アレクの隣で、周囲の魔人たちを物珍しそうに見回しているプラチナは…見事に小さくなっていた。

 銀色の長い髪は変わらない。

 しかし、青年の姿などではなく…今はアレクよりも幼い、4、5歳の姿をしていた。あどけない表情をしている様は、記憶も何も無いようで、完全にただの幼児と化してしまっているようだった。

「本当に、プラチナ様なんですか?」

 きょろきょろと、子供らしい仕草で周囲の変化を見渡しているプラチナに、訝しげに、ジェイドが数歩近づいた時、大きな目を見張ったかと思うと、ジェイドを凝視したまま小さなプラチナはベッドの上で少しずつ後退った。

「ん?」

「あ…」

 その様子に、ロードとカロールが目聡く反応する。ジェイドは気付かずそのまま更に近づこうと、一歩踏み出し掛けた時、慌ててロードがジェイドの肩を掴んだ。

「ちょっと待てって!それ以上近づくな!」

「…は?何故です?」

 ジェイド以外の者は、ベッドの脇に陣取っているし、別に問題は無いように思えたが、ロードはちらちらとプラチナの様子を窺いながら、更に引き止めた。

「憶測だけどな…もしかしたら、それ以上近づくと、プラチナ泣き出すかも…」

「…泣き出す?」

「プラチナ様の様子が変です。とても貴方に怯えているようですが」

 カロールの言葉に、ジェイドは内心首を傾げる。今、初めて対面して何も酷い事などしていないのに、何故怯えられて泣かれるのだろう。

 第一、近づきもせずにプラチナの容態をどうやって知れというのだ。

 そう思い、不快なロードの手を払ってジェイドはまた一歩踏み出す。

 その様子に、二人の甲斐も無く、小さなプラチナの瞳は次第に潤んで。

 子供らしくなく必死に、嗚咽をまるで大きな声を出す事が罪かのように少し堪えながら、それでもとうとう我慢が出来ずに、火がついたように泣き出した…――

 サフィルスに宥められて漸く泣き止んだプラチナは、ジェイドの視線から逃れるようにアレクの背中に隠れている。一方ジェイドも、ベッドから離れてドア附近へと場所を移動していた。

「一体、どういうことですか?」

 不機嫌全開のジェイドの視線と言葉に、アレクも少々怯えながら、それでも答える。

「だからぁ、判んないんだって、本当に!」

「判らないって…何を言ってるんですか。一緒に寝てたんだから、アレク様が一番、誰よりも理解しているはずでしょう?」

「それは~…」

 うう~、と唸っているアレクを庇うように、サフィルスが「まあまあ」と間に入ってくる。

「プラチナと一緒に寝ていたアレク様に、このようなことは出来ませんよ。プラムさんの言霊でもないそうですし…」

「そうなのです~」

 場の雰囲気を崩すようなプラムの声を、ジェイドは半分遮るようにして周囲の面々を見ながら、問い掛ける。

「じゃあ、誰がこんな悪戯をするって言うんです?」

「大方、お前を嫌ってる誰かじゃねぇの?」

 ロードがにやりと笑って、ジェイドの胸に人差し指を突きつける。己の胸に聞け、と言わんばかりに。

「そうですね、プラチナ様が小さくなられても、何のメリットも無いですし…」

「…仕事が滞って、逆に苦労することなら、起こり得るがな」

「それや!」

 カロールとジルの言葉に、ぱちんと指を鳴らしルビイが反応する。

「アンタに対する嫌がらせや!仕事が滞って困るのは、アンタやし」

「そうですね、…それに、どうやらプラチナ様は貴方の事を怖がっているようです」

 カロールのあからさまに当てつけるような視線に、ジェイドはじろりと睨み返す。

 …どうやら継承戦争時代の事を、まだ根に持っているようだ。

 ひとつ、深いため息を吐き、口を開く。

「悪戯ねぇ…。第一、アプラサスでもないのに、そんな強い魔力を持った魔人なんて…――

「おやおや、見事に小さくなったねえ、プラチナ」

 鼻に掛かった幼い声が、ジェイドの後ろの開け放たれた扉から聞こえたかと思うと、ジェイドを押しのけてその人物はベッドに近寄り腰掛けた。怯えた様子のプラチナも、先程の事はすっかり忘れてしまったように微笑み、幼いたどたどしい呂律で、それでも立派に

「ちちうえ」

 とベリルに呼びかけた。それを聞いたベリルも笑顔になると、ぎゅっとプラチナを抱き締める。

「ん~、可愛いなあ。やっぱり魔法を掛けて良かったよ、うんうん。実はねプラチナ、君の為に面白い絵本を、たくさんあちこちから手に入れてきんだ」

「ほんと?」

 小さくなってもやはりプラチナ、『本』という響きには弱いらしい。ベリルもその様子に、にこりとよりいっそう微笑んで。

「ああ、本当だよ。それとね、君に似合う可愛い服も沢山用意したんだよ?だからね、父上のお部屋に行こうね~?」

「ん、いく」

 立ち上がったベリルの手に自分の手を重ねて、プラチナは周囲の人垣が見守る中、ベリルと共にアレクの部屋を立ち去って行く。

 突然やって来て、当り前のように小さなプラチナを連れて行くベリルに、全員咄嗟に掛ける言葉が見つからず暫し立ち尽くしていたが、ジェイドが慌てて追いかけ、声を掛けた。

「ちょっ…待って下さいよ、ベリル!」

 ベリルはジェイドを煩そうに振り返ると、プラチナを自分の後ろに隠す。

「何だい?折角の親子水入らずのところに、押しかけてきて」

「そういう問題じゃないでしょう!」

 ジェイドが声を強くすれば、ベリルの後ろのプラチナが怯える。それをベリルはよしよし、と頭を撫でたりしてあやしながら、ちらりとジェイドに視線を寄越した。

――…どうして魔法なんか掛けたのか、って訊きたいのかい?」

「当り前でしょう。プラチナ様は奈落王なんですから、いくらなんでも悪戯じゃ、事は済みませんよ」

 決してただの脅しではない言葉を、険呑な雰囲気と共にベリルに向ければ、当の本人は幼い姿ながらも想像もつかない程の長生きをしているその貫禄で、こともなげにさらりと流した。

「だって、僕の愛しい息子が、近いうちにどこかの輩に汚されそうな気がしてね…」

 意味ありげにちらり、とベリルはジェイドを見、ねえ?と小さなプラチナに微笑みながら首を傾げて見せる。小さなプラチナは意味が判らないという表情のまま、ベリルがしたように首を傾げ返した。

 …どうやら、小さなプラチナはベリルに懐いているらしい。

 ジェイドは顔を背けてため息を吐いた。悪夢でも見ているかのようだ。

「あ、プラチナは今君のこと、世界で一番怖くて嫌いなものになってるからね、近づかない方がいいよ。さっきみたいに泣き出されたら、困るだろう?」

 言われなくても、先程のことで重々判っている。

 一度泣き出したらなかなか泣き止まなくて、ロードの「だからやめろって言ったんだよ!」という言葉に心の底から理解していた。

 ロードは色町という町のシステム上、そこで生まれた子供や拾われてきた子供を数多く見慣れているはずだし、身近だったはずだ。カロールも、今まで子供の世話をしていたのだから、二人ともそれなりに敏感なのだろう。

 苦々しい気持ちで、優越の笑みを浮かべたベリルの顔を睨み返して。

「…別にいいですよ。子供は嫌いですしね。お世話はお父上とお坊ちゃんに、是非是非お願いしますよ」

* * *

 久しぶりの休憩時間に書庫の三階にある、温室のようになったテラスのソファー部分に、ジェイドは深く身を沈ませた。

 誰もが自由に使用していいこの部屋は、今は時間的にジェイド以外誰も居なくて、貸し切り状態になっている。

 やはり、最高責任者の不在は、何事に於いても辛い。

 だが、もっと面倒なのは政治的事情で、その不在を知られてはならないと言うことだ。

 体調が悪い、という今の表向きの理由も、本当はあまり使いたくは無かったのだが、使えるネタがそれくらいしかないのだから仕方が無い。

 あとはもう、ただ只管ジェイドは書類を片付ける合間に言葉と表情筋を酷使した。

 流石に疲れた、と実感する。暫くは一人になりたかった。

 酷く疲れた気がして、モノクルを外し目を閉じ瞼を腕で覆うようにする。

 ――…今日は馬鹿みたいに天気がいい、と思ったのは夢の中だったろうか。

 転寝をしていたらしい。

 気がついて懐中時計を取り出し、時間を確認する。どうやら一刻程眠っていた様だ。目が醒めてみれば、こんな眩しい所で、遮る影も無いのに無防備によく眠れたものだと思う。

 思っていた以上に、疲れていたということか。

(…多少の無理は、慣れているつもりだったんだがな…)

 弱くなったものだと思いながら、漸く緩々と身体を起した際に、背中合わせになったソファーの背もたれに引っ掛って光る、何かを目の端に捕らえる。

 銀の長い、まるで糸のような細い髪が一筋、光を受けていた。

 まさかと思いつつも、そのソファーを覗き込む。

 ――…プラチナが居る。

 初めて小さなプラチナを見た日以来だった。

 ソファーにあるクッションに埋もれるように寝転び、大きな絵本を一生懸命読んでいる。ジェイドの事には気付いていないのか、それともどうでもいい事になってしまったのか、絵本から目を離さない。時折、ページを捲る際に結っていない髪が挟まったり、視界を邪魔しているが、プラチナは面倒そうに払うだけだ。

 サフィルスはあんなに面倒を見ていた癖に、髪を結うのを忘れたのだろうか。それとも、プラチナ自身が気に入らなくて、結われた髪を解いてしまったのか。

 どちらにせよ、現在の彼には髪が邪魔なようだった。

「…失礼しますよ」

 そう声を掛けて、髪へと手を伸ばす。

 抵抗されるかと思ったが、プラチナは絵本に夢中なようで頷きも、振り返りもしない。暴れたり泣き出したりしないのなら、別にジェイドとしても文句は無かった。

 櫛の用意など無いので、仕方無く手櫛で髪を気遣いながら梳き、纏めていく。ジェイドが面倒をみていない間に、多少痛んでいる様だった。サフィルスに対する罵詈雑言を内心並べながら、リボンさえないのでやむを得ず、自分の袖の布を解いてそれで結う。見た目は良くないが、応急処置みたいなものだから、後でサフィ ルスが如何にかするだろう。

 気に入らなければ、彼自身が解いてしまうだろうし。

 そう思い、ジェイドは敢えてプラチナに声を掛けずにそのままテラスを出て行った。