「じぇいど」

 廊下を歩いていると、聞き慣れない幼い声に名を呼ばれた。

 振り返れば、自分とそう大きさも変わらないような、大きなウサギの縫いぐるみを抱えたプラチナがぽつんと立っている。相変わらず、髪は結われていない。

 …声を掛けられたのは、初めてだ。

 驚いて立ち止まると、ちょこちょこと小さなプラチナは追いついて来て、「ん」と小さく呟き右腕を伸ばして来る。その手に握られた物を見て、先日髪を結った時の布だと気が付いた。

 律儀にも返しに来たらしい。どうやら、あの状態でプラチナはちゃんとジェイドのことを認識していたようだ。

 …何故、以前のように泣き出さなかったのだろう。

 今だって、こんなに間近にいても、プラチナは何ともないようだった。

「…わざわざ、どうも。プラチナ様」

 不思議に思いつつも、身体を屈めてそれを受け取り、プラチナの様子が変わらないうちにそのまま立ち去ろうとする。

 数歩も歩かないうちに、ぐい、と裾を引かれる感触があった。立ち止まり、振り返るとやはりプラチナは小さい手で、しっかりとジェイドの服を握っていて。

「…まだ、何か御用ですか?」

 なかなか離す気配が無いのでそう問い掛けると、片手で抱いたウサギに力を込めながら、上目遣いに一生懸命、幼いながらも相変わらず偉そうな物言いで、短く言い放つ。

「かみをゆえ」

 一気にジェイドは脱力した。

 どうやら、ジェイドの仕事が髪を結うことだと思い込んでいるようだ。

「そんなのは、メイドにして貰って下さいよ…」

「や」

 即答。

 思わずジェイドの方が無言になる。

「や、って…プラチナ様…」

 散々甘やかされて、随分と我侭におなりあそばしたようだ。

(…これって、元に戻った時に影響無いだろうな…)

 頭痛のする頭を押さえて、ジェイドは小さなプラチナの目線に合わせて屈む。

「いいですか、プラチナ様。俺は仕事が沢山あって忙しいんです。そういうことは、メイドか、サフィルスにやらせて下さいよ」

「どうして?このあいだは、いそがしくなかったのか?」

「…そうですね。さ、お部屋に戻って下さい」

 判 りましたね、と言ってその場を離れようと歩き始めれば、プラチナは服の裾を掴んだまま付いて来る。流石にジェイドもプラチナが転ばないように歩幅を縮め、ゆっくりと歩く。それでもプラチナには早いらしく、離れないよう一生懸命付いて来て、高い場所にあるジェイドの顔を見上げながら問い掛ける。

「じぇいどは、いついそがしくなくなる?」

「ずっと、忙しいです」

 無碍も無い返答にも負けずに、プラチナは重ねて問う。

「ずっと?」

「ずっとですよ」

 プラチナは俯き無言で暫く考え込んでから、不意に顔を上げた。

「…じゃあ、おわるまでまつ」

――は?」

「まつから、はやくおわらせろ」

 思わず足を止めて、まじまじと小さなプラチナのあどけない表情を見つめる。

 その顔は、直向にジェイドを見上げていて。

 天井を仰いでため息を吐く。

――…仕方が無いですね…」

 早く終らせようと思い、現在の位置からプラチナの部屋との距離を考える。

「ここじゃ髪は結えませんから、俺の部屋に行きますよ」

 歩き出したジェイドの裾をまだ握っていたプラチナは、必死に追いつこうと小走りになってもまだ少々辛い。それでも文句も言わずにジェイドの歩幅について行こうとする。

 銀色の髪を舞わせながら。頬を赤くしながら。

 ジェイドはちらとその様子を振り返り、仕方が無い事尽くしだな、と思いながら、立ち止まり急にプラチナを抱き上げた。驚いた目をするプラチナに、とりあえず微笑んでみる。

「部屋まで少しですから、我慢して下さい」

 泣き出したらそのままサフィルスの部屋に連れて行こうと思っていたのに、プラチナは大人しくジェイドに抱かれている。別に何とも感じていないようだった。

 そのまま幸運にも誰にも会わずに部屋に着くと、窓際に椅子を置いてそれに座らせ、久しぶりに銀の細い髪を何度も丁寧に梳く。

 髪を結っている間、大人しいのはいいのだが、うとうととするのは小さくなっても変わらないらしい。いつものように結い終わって、プラチナの正面に回り、バランスを確かめたあと、不意に悪戯心が湧いて、半分寝ているようなプラチナの額を指先で軽く弾いた。

「…っ!」

 一気に覚醒し痛かったのか涙目になって睨んでくるプラチナに、ジェイドはくすくすと笑いながら。

「おや?プラチナ様はお礼も言って下さらないような、礼儀をご存知ない方なんですか?」

 からかうようにそう言えば、複雑そうな表情を見せながらも、椅子に立ち上がりジェイドの服を掴むと引き寄せるように力を入れる。

 その頼り無いような力に促されるまま、ジェイドはプラチナの方へ少し体を傾けた。

――…ありがとう」

 そう小さく言うと、突然プラチナは屈んだジェイドの頬に軽く唇を押し当てるだけのキスをする。

 思わず、ジェイドの体が暫くの間、固まった。

「…それ、誰に教えてもらったんです…?」

「ちちうえ」

(…あの、親ばか…)

 問えば予想通りの名前が返って来ることに頭痛を覚えながらも、ジェイドの様子を不思議そうに首を傾げて見ているプラチナを、抱き抱えた。

「サフィルス、ちゃんと面倒見ろよ」

 ノックの返事も聞かずに部屋の扉を開けて、ジェイドは中に居た同胞に言うと、手にしていた書類から顔をあげたサフィルスが驚きの表情を見せる。

「あ…!プラチナ、探して……あれ?え…!?」

 驚きつつも、少々戸惑っているような声に、ジェイドとしては、仕事もせずにこんな所に居るという事実がただ不快で、眉を顰め刺々しい声を返す。

「何だよ?」

「凄いですね、ジェイド。一体どうやったんです?プラチナ、皆さんに凄く懐いて下さっているんですが、何故か髪を触るのと、抱っこだけは誰にもさせてくれないんですよね…」

「そんな訳無いだろう」

 現に今、ジェイドはプラチナを抱いて連れてきたし、嫌がられてもいない。

「嘘じゃありませんよ。抱き締められるのも、あまりお好きではないようですしね。最初は良いんですけど、次第にご機嫌が悪くなるんです」

 ジルさんなんて、煙草の匂いが嫌だと言われたりしてますね、とサフィルスは言ってあれ?と首を傾げる。ジェイドは煙草を吸う筈だ。ジェイドが今、何も問題なく抱き続けている事が不思議だ。

「変ですねぇ…何かしました?」

「…別に、何も」

 疑わしげに無遠慮に見つめて来るのを、ジェイドは睨みつける。

 その視線に機嫌が悪いのを漸く察したのか、サフィルスはプラチナに声を掛ける。

「…さあ、プラチナ、アレク様がお探しですよ。玩具で遊びましょう」

 サフィルスがジェイドの腕からプラチナを抱き上げるが、身を捩りプラチナは飛び降りると、ちらりと二人の方を振り返ってから、プラチナはそのまま走り去ってしまった。

* * *

 プラチナが小さな姿になってから、仕事が立て込むことは良くあることだったが、とうとう覚悟していたような大仕事が、しかも緊急で割り込んで来た。

 書類が出来上がったのは、その仕事に手をつけてから二日目の早朝の事。ぎりぎりのラインで何とか修了することが出来た。もちろんその間寝るどころかまともな 休憩も取れていない。扉の前に待機していたメイドに書類を渡しその日の午前中は公務を休みにして、着替えるのももどかしくジェイドはベッドに倒れ込む。

 そのまま熟睡出来ると思っていたのだが、疲れすぎて逆に半分意識が醒めているような、不自然な眠りに陥る。それでも漸くとろとろと深い眠りに落ちそうになった時、突然身体に小さな刺激が起こった。

 …僅かに、体が揺れている。

(…違う…)

 揺さ振られている。

「じぇいど」

 幼い声。

 どうやって部屋に入り込んだのか、プラチナが一生懸命背伸びをし、身を乗り出してベッドに横たわるジェイドを起そうと身体を揺さ振っている。

「あさだぞ、じぇいど。おきろ」

「………何ですか……?」

 プラチナにとっては爽やかな朝かも知れないが、ジェイドにとっては漸くの睡眠時間だ。

 緩々と…瞳を開けて、掠れた声で問い掛けるのが精一杯だった。返事を待てずに、眠ってしまいそうなのを何とか堪える。

「じぇいど、かみをゆえ」

 相変わらずのプラチナの言葉に、即行で眠りに落ちそうになるが、額を押さえ、働かない頭を無理矢理動かして、何とか言葉を紡ぎ出す。

「…だから、それは…メイドにでも…」

「や!」

 いつもと同じ様に言えば、いつもと同じ様に短い言葉が返って来た。

 …何故、自分にはこうも我侭を言うのだろうか。

 それに、何故だか何度も結った髪を解く。気に入らないなら最初から結わなければいいのだが、そういう訳でもないらしく、毎回律儀にジェイドの仕事が忙しくないか、確認をしてから何度も強請りに来る。

 この小さいプラチナの言動は掴めない。

 いつものプラチナだったら、視線一つ、僅かな言葉に含まれる響き一つでプラチナ自身よりもプラチナのことを理解出来て、からかうことも可能だったのに。

「じぇいど」

 反応が返ってこなくなったジェイドを、また精一杯の力でプラチナが揺さ振り出す。

 何度もジェイドの名前を幼い声と言葉で繰り返して。

「じぇいど………だっ…こ」

 語尾の方は声が小さすぎて、もう殆ど寝てしまいそうなジェイドには聞き取れなかった。

 その後も暫く、プラチナは諦めずにジェイドを起そうとしていたのだが。

「…おれも、ねる」

 どうやっても一向に目が醒める気配の無いジェイドに、プラチナは考えを変えたのかベッドによじ登って来て、ごそごそと布団の中へと入り込む。

 大人しくしていてくれるのなら、もうどうでも良かった。

 半分押さえつけるような気持ちで、小さな身体を抱き寄せ、抱き締める。

 温かい、子供の柔らかい身体。

 深く息を吐いて、その存在を確かめた。

 腕に容易く収まったその存在は、先程から上手く寝付けなかったのが嘘のように、自然に心地良い深い眠りへと誘う。

 腕の中のプラチナも、暴れたりせず大人しくジェイドの胸に顔を埋めている。

 構われないのが嫌だったのだとしても、癇癪を起したり、立ち去ることも出来たのに、こうやって子供なりに譲歩してくれたのだと思う。

 このまま心地良く眠れる事に少し感謝して、プラチナと自分が寝てしまう前に、約束する。

――…起きたら…」

「…ん?」

「起きたら…髪を結って差し上げますよ……」

 髪や頭を撫でながら呟いた言葉に、目を閉じたままでもプラチナが喜んでいるのが伝わる。

 …そう言えば、まだ彼がちゃんとジェイドに向けて笑った所を見たことが無い。

 今、目を開ければ見ることが出来るのかも知れなかったが、到底今のジェイドには出来そうに無い。

 …また。

 またいつか、見せてくれたらいい、と思う。

「…やくそく、だぞ」

 小さく、幼い声がジェイドの耳に囁いてくる。

 残念ながら、この言葉に何と答えたのか、答えることが出来たのか、ジェイドにはもう判らなかった。

「ジェイド、寝てるところすみませんがプラチナ…――あれ?」

 ノックをしようとした、ジェイドの寝室の鍵が開いている。

 恐らくこの部屋には結界が張ってあるのだろうと、そう勝手に納得しサフィルスは遠慮無しに寝室にまでずかすかと入り込んで、驚きの余り思わず動きが止まった。瞬きを繰り返し、今現在自分が見ているものが、錯覚ではない事を確認する。

 穏やかな寝息が二つ。

 優しく腕に小さなプラチナを抱き込んで、ジェイドが眠っていた。

 無理矢理ではなく、二人とも幸せそうにぴったりとくっついて眠っている姿は、本当に微笑ましく、小さいプラチナとの初対面の時とは全然違う。

 間近で見つめても、一向に起きる気配の無い二人をくすくすと笑って、そっとサフィルスは呟く。

「…いつの間に、こんなに仲良くなっちゃったんでしょうか…?」

 とりあえずはお幸せに、とサフィルスは小さく囁くと、プラチナを探して騒ぐアレクには秘密にしておくことにして、部屋を静かに立ち去った。

 その日を境に、プラチナはジェイドにしか懐かなくなってしまった。

 ジェイドが傍に居ないと、落ち着かなくなり勝手に探しに行く。

 例えジェイドが長時間を費やす会議中でも、会議室の扉の前で行ったり来たりを繰り返す。

 仕方無く、ジェイドの執務室で邪魔をしないことを前提に、毎日すごすことになった。

 毎日、大人しく机の傍のソファーに座り、静かに勉強をしたり絵本を読みながら、ジェイドの仕事が終るのを待っている。

 その代わり、休憩時間になると待っていられないかのように、仕事をしている机を背伸びして覗き込む。早く終るようにか、『片付けるのを手伝う』と言い出したりもする。

 アレクが昼寝を誘いに来ても、ジェイドの腕の中から片時も離れようとしない。

 ――…はっきり言って、アレクは面白くなかった。

「ベリル、もしかして、魔法解けちゃったんじゃないの!?」

 ベリルに詰め寄れば、ベリルも首を傾げて。

「…おかしいなあ…?まだ小さいままなのに…どうしてだろう?」

 まあ、僕の魔法って大雑把だからねえ、と呟きつつも、石の力を使った魔法が上手く効力を発揮できない事に、ベリル自身納得がいかないのも事実で。

――…一番好きな人を、一番嫌いになる魔法だったんだけど、ね…」

 どうやら、プラチナの気持ちの前では効力は失われてしまったらしい。

 悔しいから、もう暫くこのままにすることにして、ベリルは旅に出る事にした。

 ――…どうせ彼らには、自分と同じで五年や十年なんて、あっという間なのだから。

end.