突然の事だった。会議中に必要だった書類の詳細を求められて、会議室内に入室した時。
ふら、と奈落王の身体が揺れる。
「プラチナ様っ…!」
咄嗟に無礼と判っていても、倒れていく王の身体を支える為に駆け寄った。
倒れた際に、俺の方へ伸ばしかけた手をぎゅっ、と握り締めるのが見えたのは見間違いか?
――…何かを、戒めるかのように。
…辛そうな表情だったのは、具合が悪かったからか?
「プラチナ様っ…!」
身体を支えて声を掛けるが、血の気の無い顔は瞳を固く閉ざしていて。顔に触れようとした俺の手を、カロールに止められる。
「…貴方が触れることは、なりません」
静かなカロールの言葉に、我に返って手を下ろす。
扉の外に待機していたジルに抱えられて運ばれていくプラチナ様を、ただ見送るしか出来なかった。
参謀として傍にいたころの俺ならともかく、今はこれが俺とあなたの正しい距離。
奈落王と、裏切って、それでも命を救われた堕天使の、距離。
…同情と、哀れみの、距離。
「やれやれ…今日の会議はここで終わり、か」
「いつになったら先に進めるのやら…こんなに身体の弱い王では、先が思いやられる」
「今現在、新しい後継者を作っていて、その中継ぎかも知れんぞ?」
「ああ…それなら、力だけが強い意味があるか」
「顔は綺麗だが…愛想も無いし」
「アレで媚を売るならまだ、ましだろうに」
「はは、それはいい。是非とも寝室で見せてもらいたいもんだ」
会議室に残された魔人どもがあざけるように笑いながら、次々に口にする言葉に苛々した。
してもいいなら、ここで大技使ってこの会議室ごと潰すことだって可能だ。
王とは言えど、実際の政治にはまだ、力が無く。
何度も人知れず、屈辱でその美しい唇を噛むあなたを知っている。
あなたが許可して下されば、今すぐにでも…こんな奴ら。
生きている価値も無い。俺にとって、あなた以外の誰もがそうだ。
あなたの邪魔になるのなら、あなたが望めば、どんな残酷な方法でだって、殺せる。
…そんなことで俺がここに居る理由が得られるのなら。
「――…どうせ、貴方たちもご本人の前では言えないでしょう?」
「…何だと!?」
「体の弱い奈落王の、その足元すら及ばないくせに…そういうのを、負け犬の遠吠え、って言うのご存知ですか?」
俺の言葉に、一斉に殺気だった眼光を寄越す。
そんなもの、何も感じない。
俺の感情を動かせられるのは、プラチナ様だけ。
俺の喜びも。悲しみも。痛みも。――…苦しみも。
「ああ、なんだ、ちゃんとご存知なんじゃないですか。良かった、こんなちゃちなイヤミが通じなかったらどうしようかと思いましたよ。…ああでも、これじゃイヤミにもなりませんか」
そう言うと、それだけで簡単に面白い程相手の怒りが増していく。
「それに。奈落王を、貴方がたなどの貧相な想像力で思いつくような、安い娼婦と一緒にしないで下さいね?こんな仮定は無駄ですが、もしそんな幸運があったとしても、実際目の前にしたら貴方がたのなんて、使いものになりませんよ」
まぁ、想像するだけは、貴方がたに残された自由でしょうけど。
――…本当なら、想像するだけでも殺したいくらいだが。
そんな気持ちを視線に込めて。それでもとびきりの笑顔で続けた。
「何やってるんですか?こんなところでそんなありえもしない無駄話している時間があるなら、貴方がたのところで停滞している書類の一つや二つ、こちらに回して頂けるでしょう?私も暇じゃないんです」
「この…堕天使風情が…!」
あなたの傍にいて、支えられたらと思うのに。
そんなのは自惚れか。
――…久しぶりに触れた身体は、かなり痩せていた。
無理をしているのだろう。
毎日、アレクが退室しても、さらに夜遅くまで執務室に灯りがついているのを、知っている。
永遠の命になっても、体力がついたわけじゃないのだから、身体自体は弱いのに。
「その堕天使風情より、仕事の能力が下じゃ、生きてたって良いこと無いんじゃないですか?可哀相に…。天使は同情が仕事ですから、同情して差し上げますよ。いくらでも、己の無能を嘆いて下さい」
――これが復讐だったら、もっと生き易かった。
復讐だったなら。俺はプラチナ様が望むように、傷ついたり苦しんだり死んだりして、満足させることが出来た。
同情とか。哀れみとか。そんなどうしようもないもので俺を縛るくらいなら。
今からでもいい、いっそ「死ね」と言われたい。
こうして、見ることの出来る距離で構わないと思っていた。
あなたが生きて、笑っている。その姿を見ることが出来るのなら。
そのたびに自分の犯した罪の大きさにとても心が痛むが、それでも至福だと思った。
自分で傷を広げる行為だと判ってはいたが。
馬鹿みたいに、幸せだと信じていた。
それでも、あなたが誰かと笑う所を見るのは…辛い。
あなたが俺が居ない所でそう笑っているという事も、俺が居ないから笑っているという事も。
あなたが、俺を見ていないことが。
…どうしようもなく、辛い。
もし、笑っているだけではなくて、抱き合っているところだったら?
そんな想像を馬鹿馬鹿しいと思いながらも、それでもその想像だけには、
どうしても耐えることが出来ない。
汚い仕事でもいい。
あなたが出来なくて、他の奴らでも不可能で、俺にしか出来ないようなこと。
何処かで野垂れ死ぬような、無様な死に方をするような。
どんな酷いことでもいい。酷ければ酷いほどいい。
――…その方が、あなたが、俺を必要としてくれると感じられる。
俺自身がどんな結果に終っても構わない。
それを望んでやまない自分がいる…。
――…俺に、何だっていい、あなたの傍で生きる理由を下さい、プラチナ様…
「ジェイド…!」
サフィルスが血相を変えてノックもせずに、勝手に部屋のドアを開けて入って来る。疲れて帰って来たから、鍵を掛けるのを忘れていた。ベッドで寛いでいる俺に勢い良く近づいて、襟首を掴み身体を起させられる。
「貴方、また…!苦情が来てますよ!!」
「あー…どれについてだ?」
数が多くてすぐには思い当たらない。
「どれもこれもです!どうして会議室内で魔法使うんですか!死人が出なかったから良かったものの…」
「向こうが先に剣を抜いてきたんだ。正当防衛だよ、正当防衛。俺が先にやられたんだ」
そう言って、肘から包帯を巻いた右腕を見せた。もちろんこれをつけた奴には、それ相応の仕返しをしたが。これを見てサフィルスが顔を顰めるが、それは別に俺を心配してという訳ではなくて。
「――…そうなるように、仕向けたんでしょう…?」
「…さぁな。どうも魔人は気が短くていけない」
「貴方を前にしたら、誰もが気が短くなります!」
サフィルスが手を離したから、勢い良く身体がベッドに沈む。サフィルスが顔を逸らして、声を絞り出すように告げた。
「謹慎だそうですよ。暫く仕事は部屋でしろと、アレク様が…」
「ふぅん?まあ、その方が俺も楽だしな」
「もう…!貴方って人は…。どうしてプラチナ様が大変な時に限って、こんな問題を起すんです!?プラチナ様の事をもっと考えて、行動して下さいよ…!」
情けない声を出して俺を責めるサフィルスに、人の気も知らないくせに、と怒鳴りそうになる。
考えてるさ。考えてるよ。いつもいつも、お前が考えるよりずっと。
毎日目が覚めてから、眠ってしまっても。
プラチナ様のこと以外、考えたことも無い…!
「…伝えることはもう、それで終わりか?サフィルス」
「ジェイド…!反省してるんですか、貴方は!」
俺の返事にサフィルスが声を強くする、その些細な事にも腹が立って。
好きにするがいいさ、お坊ちゃん。そうやってしたり顔で俺を叱ってればいい。
俺はお前には付き合えない。
「出て行けよ。俺はもう、疲れた」
「ジェイド…何をそんなに拗ねているかは判りませんけど、貴方を救ったプラチナ様の立場が悪くなるようなことだけは、やめて下さい。プラチナ様のお仕事に差し支えます」
「――…黙れ。さっさと消えろ」
「…ジェイド…」
「同じことを何度も言わせるなよ、サフィルス」
まだ言葉を重ねようとしていたサフィルスを黙らせて、寝返りを打ち視界から消した。
――…拗ねてる?
よりにもよって…その言葉を使うか。
気に入らない。何もかも。
アレクの傍で、プラチナ様の間近に居ることが出来るサフィルスも。
気に入らない。
(…こんな、俺自身すらも)