「…また…これもだ…」
手に持っていた書類の束を机の上に投げつけて、椅子の背に寄りかかり、背伸びをした。
部屋で仕事をするのは楽だ。
魔人どものあからさまな視線や雰囲気の中で仕事をするのは、それはもううんざりしていたし。何と言っても仕事の進み具合が違う。
天使と知れる前から、疎まれてはいたが。
(だからって…何でこうも面倒な書類ばかり、押し付けるんだか…)
この部屋で作業するには、資料が足りない。
書庫に赴いて資料を取ってくる必要があるが、資料の一冊あたりの重さのことを考えて、本当に憂鬱になってしまった。
さすがにメイドに頼むのは可哀想な気がする。
(サフィルスでも居れば、楽なんだがな…)
一応男だから、文句や情けない声を出しながらも、資料の二、三冊は運べるだろうに。
考えていても仕方が無い。ため息とともに立ち上がった。
* * *
「プラチナ、大丈夫?」
書庫に向かう途中、通りかかった部屋からアレクの声が聞こえて、思わず立ち止まってしまう。
先日、内装を破壊された会議室の代用として、使われている部屋だった。
さすがに会議中は部屋の前の廊下は立ち入り禁止にされていたが、現在は会議も終了しているらしく、守衛の姿も無い。
よく見れば、扉が少し開いていて、そこから声が漏れてきている。
プラチナ、と確かに聞いた。
…声が、聞けるかも知れない。
会議中や、謁見中、勅令などの奈落王としての言葉は多く耳にしてきたが、もう、随分前から声を聞いた記憶が無かった。
…以前は、毎日聞くことが出来た声。
「――…大丈夫だ」
久しぶりに聞いた声に、どきり、と心臓の鼓動が跳ねる。
力の入っていない、弱々しい声で平静を装って。
昔、彼が倒れるたびに何度も聞いたことのある声だった。
途端に懐かしくなる。
自分が必要とされていた、もう戻れない時間のことを考えてしまう。
「いくら俺でも、お前が嘘ついてることぐらいは判るぞ、プラチナ」
「兄上…」
「今日も、朝、ちゃんと食べなかっただろ?プラチナ、そんなんじゃ駄目だ。…今、サフィがラカの実を持って来てくれるから、せめてそれだけは食べてよ」
「…すまない…」
辛そうな、深いため息。
熱があると、時々あなたはそういうため息をついていた。
「サフィが来るまで、そこのソファーでちょっと横になってたら?俺、静かにしてるから」
微かな物音がして、暫く静寂が訪れる。
そっと、気遣うアレクの小さな声がした。
「…眠れない?じゃあ、今はこうしていてあげる。サフィがよくしてくれるんだ。何だか落ち着くし、気持ちいいよね」
衣擦れの音。
「ちゃんと起してあげるから、大丈夫だって」
少し前まで、確かにそこに居たのはアレクではなく、俺だったはずなのに。
自分から、粉々に壊して、必要など無い、と、捨てて。
そして今は無様にもその破片を必死に探して、繋ぎ合わせようとしている。
――…とっくに、その破片など存在しないのに。
探したって、失われたものは埋まらないのに。
…捨ててしまった方が早いのに、どうしても捨てる事が出来ない。
「――…プラチナは…どうして…、あいつを生かしたの?」
アレクがそっと囁く声が、聞きたくは無くても耳に入ってくる。
この場を去ることは出来なかった。
声が、聴きたい。
どんな、残酷な言葉でもいいから。
…あなたの、声が。
――…あなたの声、で。
呼んで欲しい。
一度だけで、構わないから…
あなたの、その声で。
――…あなたの、その声で…、俺の名前を呼んで欲しい…
…どんなに期待をしても、仕方が無いことは判っていたが、それでも望んでしまう。
俺に、微笑んでさえくれないあなたに。
捨てるなんて、逆だ。俺が、捨てられないように必死でしがみ付いている。
「見捨てても、きっと誰も…怒らなかったのに…。あいつは、それだけのことをお前にしてきたんだから。…あいつだって、多分その方が良かったんだ。生かしておく方が残酷だ、って皆言ってる」
そう言って、アレクは少し笑った。
「俺は…もっと残酷な方が、気が済むけど。でも…、プラチナ…どうして?」
…静かな、静かな沈黙の後。
「…理由など、無い」
短い返事だった。
あの時。
他の道を選べば、こんな馬鹿げたことにはならなかったのか。
* * *
たった一つの書類の作成に、かなりの時間を費やした。
資料を取りに行ったのはまだ日の高い時間だったのに、もう、外は暗闇に包まれている。
それを確認した途端に、強い疲労を感じてベッドの上に倒れこんだ。
仰向けのまま、カーテンを引いていない窓の向こうの闇に視線を移す。
――…月が、冷たい光で静かに無様な俺を、見下ろしていた。
あのひとを、冷たい月のようだと表現したのは、いつだったか。
その光すら耐える事が出来なくて、拒絶する為に瞳を固く閉じた。
『お一人では、どうせ何も出来ないでしょう?』
勝手なことをするなと、プラチナ様に咎められてそう言葉を返す。
こういう小さな諍いは、よくある事だった。
俺は俺の目的に添って、プラチナ様はプラチナ様の理想で。互いに受け入れられずに、少し言い合いをする事は、よくあった。
時々は、俺の判らない些細な事でさえも。
この時の原因は何だったか、もう忘れてしまったが…、そう、大した事ではなかったと思う。
プラチナ様は静かに俺を殺気だった目で睨む。いつもはそこで終るはずの他愛ないケンカ。
『…だが、それはお前でなくてもいいことだ』
声を押さえて、そんな言葉をプラチナ様が言ったのは、部下が揃ってから、少し経った時だった。
珍しい方向に話が流れたように思う。
『おやおや…嫌われたものですね、私も』
『――…別に俺に好かれたいと思ってないだろう、お前は…』
吐き捨てるように言って、顔を背けさっさとテントから出て行ってしまった。
その時のプラチナ様の表情は、一瞬しか見ることは出来なかったが、
――…それでも…
窓から吹いて来た冷たい風が全身を撫でていく感覚に、目が覚めた。
懐かしい記憶だった。
今よりは近くに居ることが出来た頃の記憶。
内容は相変わらず最低だったが。
…どうせ見るならもっと、夢でしか見られないようなものだったら良かったのに。
そう考えて、自分の思考に呆れる。
――…そんな幸せな夢は、見たことが無い。
目が冴えてしまい、窓を閉めるために身体を起して。
ふと。
何処かで嗅いだことのある香りに気が付く。
花のような、それでいて清涼感も伴う上品な香りは、簡単にその辺のメイドが付けられるような代物ではない。
自分の記憶の中でも、身に付けている人物は一人しか、知らない。
以前、面倒がる彼の髪を梳く際に、衣服に、何度となく付けた記憶がある。
(どこ…からだ?)
開いている窓の向こうから?
――…違う。
(俺から、だ…)
身動ぎすれば、自分の上着から、微かに香る気がする。
何故?いつから?
――…それとも、俺の頭がとうとう変になってしまったか。
驚きで、何も考えられない。
焦って頭が上手く働かない間に。
…夢の残滓のようなそれは、すぐに消えてしまった。