4月始め、桜が満開の校庭で、朝練のある自分より遅くに家を出たはずの弟の姿を見かけ、アレクは慌てた。
…あと、10分で始業式が始まる。
アレク自身はあと5分で、教室に辿り着ける自信がある。
しかしプラチナの歩みは本当に牛歩もいいところで、なおかつ教室には足が向いてなかった。
「プラチナぁ、どこ行くの!?」
「…兄上」
アレクの声にゆっくりと振り向き、返事をするプラチナの声は、もう完全に眠る3歩前という感じで。
「これから、始業式だよ!?」
「保健室で、寝ている。…終ったら、迎えにきてくれ」
「たまには出ろよ~!お前、ただでさえ出席ヤバイんだから!」
「…ねむい」
「しっかりしてよー!もうっ」
すでにふらふらしている状態の、プラチナの手を引っ張って、保健室まで連れて行った。
自分の遅刻は、覚悟して。
「失礼しまーす!センセイ…あれ?今日まだ来てないのかな~」
仕方がないので、勝手知ったる状態の保健室の奥、プラチナの指定席ならぬ指定ベッド(笑)にプラチナを誘導して、何とか座らせる。途端に、ぱたん、と倒れるようにして、プラチナは枕に頭を静める。それは、慣れた感じで計算し尽くされたように、ちょうど良く枕に収まって。
「うわわ、皺になるから上着は脱いでよー!」
靴を無理矢理脱がせていたアレクは、慌ててプラチナに言う。
「う…、脱いだ、ぞ」
もそもそと、身体を横にしたまま器用に学ランの上着を脱いで、アレクに差し出す。
「プラチナ、カバンは持っていくからね?上着は何時ものトコだよ?」
「…ん」
語尾にすー、という寝息付き。
あまりにも早いそれに、もはやアレクはため息をつくのみだ。
「髪は…も、いっか」
2人分のカバンを持って、保健室の入り口付近においてある、保健室使用者名簿を手繰る。
「ええっと。うーん…頭痛はこの間使っちゃったんだよなぁ…今日は…腹痛?んーと、貧血にするかなぁ…」
今更、何を理由にしても、もう周知の事なのだが、それでも一応貧血、と書いておいて、アレクは時計を見る。
「あと、2分!無理だぁっ!!」
直接講堂に行く事にして、アレクは走り出した。
* * *
『プラチナ様…』
誰かの呼ぶ声がして、プラチナの意識はほんの少しだけ浮上する。
『もうお昼ですよ、起きてください』
(…保健医の声はこんな低くなかったような…というか、俺の知る保険医は、女だったぞ…?)
疑問を意識する事で、よりいっそう、意識が浮上する。
「プラチナ様」
「………?………」
ゆるゆると目を開けた。途端に目に入る、日光の眩しさに顔をしかめる。
「おはようございます、プラチナ様」
「…誰だ」
低 い声は明るく、起き抜けのプラチナの耳に響く。プラチナは目を瞬いて、自分を間近で見下ろす人物を良く見ようとするが、その人物はプラチナの目が醒めたの を確認すると、すぐ後ろにあるカーテンを開けて、外からの陽光を少々薄暗かった保険室内へと入れたから、逆光で良く判らなかった。
(…見慣れないやつだな…まぁ、危害があるなら俺の寝ている間に何かしているか…しかし…)
「そんな目で見ないで下さいよ。新しい保険医です。ご気分は、いかがですか?貧血って書いてありましたけど…」
「……貧血?」
「ほら、これに」
持ち上げて見せた保健室利用者名簿に、ああ、とプラチナは納得した。兄が気を利かせて、病名を偽ってくれたのだ。
(それに合わせねばな…)
「大丈夫だ、もう起きられる」
「そうですか?ま、余り無理をしないで下さいよ、プラチナ様」
自 分から保険医が離れてやっと、プラチナは体を起こす。そうして人工的な灯りのもと、新しい保険医をようやくちゃんと見た。保険医は自分の机の周りをあちこ ちと触っている。きっと、自分の仕事のしやすいように移動しているのだろう。変わっているといえば、片目が悪いらしく、コンタクトではなくモノクルを使用 している。
…しかしどうも、自分の思う所の保険医に見えない。
白衣を上から着てはいるから、そう見えるだけで。
(外見で判断するのは、良くないな…。余り気にしないようにするか…)
靴を履き、立ち上がって傍にあったロッカーから上着を取り出して着る。時間を見ると、12時過ぎ。始業式もその後のHRも終了して、平常どおり授業が始まったあげく終りかけている時間だ。
(…まぁ、今日は大した授業もなかっただろうから、いいか…)
そう思いながら、保健室のドアの方へ歩き出した。保険医に礼を言って、退出しようとする。
「あ、ちょっと待って下さい。これ、飲んでいって下さいよ」
硝子の応接の机に置かれた、紙パックジュースを新しい保険医は指し示した。…オレンジ100%の。
「とりあえず、血液に一番近い飲み物ですからね。そこの冷蔵庫にコレ入ってたんで。賞味期限も大丈夫ですし。…本当は、毎日朝食しっかり食べてもらえれば、いいんですけど」
(…甘い飲み物は、苦手なんだがな…)
しかしアレクも親切心で行ったことなのだし、この保険医のこれもおそらくは親切心だ。
「…わかった」
合皮のソファーに座って、大人しくそれを手にする。
保険医はソファーの端に座り、少し間を置いて座っているプラチナをじっと笑顔で見つめてから、おもむろにぼそりと口を開いた。
「髪」
「ん?」
「…髪、触ってもいいですか?」
「何故だ?」
「リボン、取れそうなんで。ついでに、髪緩んでるし、結い直しましょうか?」
(ああ…髪もそのままに寝ていたか…)
既に保険医との間は詰まっていて、保険医はプラチナの髪に触れている。
「俺は、別に気にしない」
「それ飲み終るまでに、こちらも終りますから。約束します」
にこりと微笑んでみせる。別に拒否する理由もないので、したいようにさせる事にした。
「…好きにしろ」
保険医の方に背中を向けて、座り直す。
「はい」
実に嬉しそうに髪を解いて、恐らく私物であるだろう櫛で梳かし始める。
「…綺麗な髪ですね。何か、理由があってのばしてるんですか?」
「いや、別に理由は無い。怠惰だ。夏などは特に切りたくはなるが…兄上や周りが反対する」
「そうですか、じゃあ、私も反対に一票」
「?…何故だ」
「好みですから。長い方が」
「…わからんヤツだ」
「好きなんですよ。あなたの髪は特に」
小首をかしげるプラチナのうなじを見て、保険医は微笑む。それが向かいの鏡越しにプラチナの目には映って、何とは無しに居心地の悪い思いをした。目を逸らして話題を変える。
「…前任の、保険医はどうした?」
「産休です。臨時に、まぁ、1年ほどこちらにお世話になります」
「そうか。…よろしく頼む」
「…はい?」
「聞いているとは思うが、俺は、生まれつき、身体が丈夫ではない」
「はぁ、学園長から、少々…」
「だから、必然的に良くここに世話になる。自分でもなるべく気をつけてはいるが…」
「判りました」
「ああ」
調度紙パックの中身が切れた時、保険医の方も終ったらしく、立ち上がってプラチナの正面に回る。そしてじろじろとバランスを見ているようだったが、満足したのかにこりとまた笑って。
「終りましたよ。約束通りでしょう?」
「ああ、早かった」
立ち上がって礼を言おうとしたとき、チャイムの音がして、4時限目の授業の終了を伝えた。今日の授業はこれで終了する。これからは放課後になるから、兄のアレクと帰宅することになっていた。
「もう、そんな時間か」
「そういえば、鞄はどうしました?見当たりませんが」
「ああ、たぶん兄上が…」
そう言ったとき、保健室の扉がガラリと音を立てて開いた。アレクが元気良く、保健室に入ってくる。
「プラチナ~、起きてる?…っと、あ、起きてたね」
「ああ、兄上、迷惑をかけた」
「ホントだよー、もう。慣れっこになっちゃってるけどね」
「すまない。……誰だ?」
アレクの後ろに、顔を半分隠すような髪形をした人物を連れて居ることに気付いて、視線をその人物とアレクに交互に向ける。
「クラスの臨時の担任の、サフィルス先生だよ。ほら、本来の担任の先生、この間事故にあっちゃったから…」
「そういえば、そうか」
「初めまして、プラチナ様。アレク様の弟君ですね。理事長のご子息が2人もいらっしゃる教室の担任は、とても緊張します…。拙い所もあるかもしれませんが、頑張りますので、よろしくお願い致します」
穏やかにプラチナに話し掛け、頭を下げるサフィルスに、慣れた感じでプラチナも言葉を返す。
「こちらこそ、俺も、兄上も迷惑をかけると思うが、よろしく頼む」
「はい。よろこんで」
「サフィルスと私は、同じ大学を出てましてね。同期なんですよ」
突然の保険医の声に、プラチナとアレクは二人を交互に見た。
「すごいね、そう言う偶然ってあるんだ」
「ええ、私もこの学校に来て初めて、彼が私と同じで臨時でこの学校に来るって、知ったんですよ」
アレクの問いに、サフィルスがにこやかに答える。アレクの問いと同時に、プラチナも保険医に問い掛けていた。
「お前も教員免許を持っているのか?」
「ええ。まぁどちらかといえば、保険医の方が向いてるってだけで」
「そういうものなのか?」
「う~ん、いや、この不況、仕事があるなら何だっていいんですよ、あからさまに言っちゃうと。医療関係の方が給料いいんで病院関係が良かったんですが、今まで居たトコが医療ミスで騒ぎになっちゃって。夜勤も当直もキツイし、休みの日でも緊急で呼ばれるし…」
と暴露していく保険医に、サフィルスが何度か咳払いをする。
「もう!仮にも生徒の前で、そんなに夢の無い発言しないで下さいよ!」
「いや、だって仮にも理事長のご子息なんだし、学校の隅々、下々の待遇の事を考えてもらって、より良い学園生活をさせて貰えたら、それに越した事はないじゃないですか、坊ちゃん?」
「坊ちゃんて、言わないで下さいッ」
「だって本当のことじゃないですか」
サフィルスは完全に保険医のペースに巻き込まれ、からかわれている。それをプラチナが哀れに思っていると、アレクが上着のすそを引っ張ってきた。
「プラチナ、なんか取り込んでるみたいだし、俺お腹空いたし、帰ろうよ~」
「…そうだな」
アレクの顔が本当に可哀相なくらいに訴えていたので、プラチナは微笑んで頷いた。その様子を見て、アレクが喜びに満ちた笑顔を返す。プラチナの腕を取ると、さっさと歩き出した。
「それじゃあ先生達、さようなら」
「世話になったな」
サフィルスが気が付いた時には、ドアの閉まる音だけで、既に2人の姿は振り返ったそこには無く。
「えっ!?あ、アレク様、プラチナ様!?」
「あーあ。行っちゃいましたねぇ」
「そんな~…。プラチナ様にはまだ担任として言うことがあったのに…」
「どうせ大した事じゃ、ないでしょうに」
実に心のこもってない声を出して、保険医はサフィルスを見た。
そして一つ人の悪い、何かを企んでいるようなとびっきりの笑顔をして、サフィルスに問い掛ける。
「どうでした?初対面の感想は?」
「…見ての通りですよ。真っ直ぐな、お方で…」
「騙すのは気が引ける?」
「……っ、私、あなたのそういうところ、嫌いです」
「大いに結構。お前に好かれたら、夢見が悪くなる」
「なら、あなたのこと、物凄く好きですよ、私」
「…やめろ。鳥肌が立った」
実に寒そうに、保険医は顔を顰めてみせる。サフィルスは、取り敢えずは保険医を黙らせる事に成功したのに溜飲を下げて、尋ね返す。
「あなたは、どうでした?プラチナ様との、初対面は」
「…別に」
「そうですか?長い髪、好みでしょう?」
「…アレク様は懐っこいようだな」
「ええ。親切なお心をもっていらっしゃいます」
「騙しやすそうで、良かったな。お前の方は」
「なっ…!また…」
「あちらは、そうでもない。きっと、天真爛漫な兄上を守るように、育てられてるんだろうな」
「…どうかしましたか?」
「……名前も聞いてこなかった」
「おや。それはあなたにしては、珍しい。もしかして、逆を担当した方が良かったですか?今からでもトレード、構いませんよ?」
苦々しく呟く彼の横顔を見て、意地が悪そうに、サフィルスはクスクスと笑いながら、訊く。
「そんなこと、思っても無いくせに。……俺はガキは苦手なんだよ」
「あなたの秋波が判りませんよね、アレク様では。その点は良かった、と言うべきですか」
サフィルスの、いかにも嬉しそうな笑顔が癇に障る。それを殴ってやろうか、と思い見ながら、実に忌々しそうに呟いた。
「まぁ、いい。1年あるんだ。まだ始まったばかりだからな…」
* * *
高台に立つ白亜のレンガ作りの家。その規模は都心にあるとは思えないほどだ。門の壁には美観を損ねないように蔓薔薇が這っている。門で2人がインターフォンを押すと、メイドの格好をした美少女が駆けて来て、門を開けた。
「お帰りなさいませ☆プラチナ、アレク!」
「ロード、早かったね、部活はどうしたの?」
ロードに鞄を渡しながら、アレクが不思議そうに問い掛ける。幼い頃から一緒に育った仲だから、どちらにも遠慮は無い。
「自主休講、ってやつだな!今日くらいはゆっくりしたいしー」
「そういってお前は短い春休みの間も、何もしなかったじゃないか。兄上と遊びに行った位で」
「あ、はははは、さ、さすがプラチナ様!良く見てらっしゃる~vv」
「家の事だからな、当り前だ」
プラチナのそっけない言葉に、ロードはガクリと項垂れて。
「そこで『可愛いお前の事だからな』くらい、言えねぇのかよ~」
ロードのとんでもない言葉に間を置かず、すぐさまプラチナが返した。
「…気持ちが悪い」
「俺も、そんな事を言うプラチナは…ちょっと嫌かなぁ…」
アレクは社交的なプラチナを想像したらしく、頭を抱えている。
「なんだよなんだよ、2人してー!」
「それで、新しいセンセイはどうだった?」
「ん、担任の先生は優しそうだったよ」
昼食を口にしながら、アレクは笑顔で答える。ロードは家事一切は苦手だが配膳くらいは行えるので、2人の前に食事を並べていた。コレで彼らの密かなるボディガードでなければ、とっくにこの屋敷から暇を出されている事だろう。
「そっかー、まぁ、見かけ通りだよな。プラチナは?保険医に会ったんだろ?何かめちゃくちゃタラシ臭い先生だったよなー、…んっ!?プラチナ、大丈夫だったか!?」
「…何がだ?」
「…相変わらず、判ってないのね…」
「ま、無事な証拠だよ」
脱力したロードに、爽やかな笑顔でアレクが元気付ける。
「そうだよなっ!って、清らかな笑顔で、俺の言いたい事がわかるお前もなんかいやだーッ!!」
「ロード、うるさい…」
「プラチナ様、絶対他の人に気を許さないでねっ。小さい頃約束したじゃない、ロードをお嫁さんにしてくれるって!」
プラチナの苦情はロードの耳に届かず、食事中のプラチナの背後からひし、と抱きしめる。
「そんな約束だったか…?それよりロード、食事中なんだがな…」
「ロードを好きって言ってくれなきゃ、イヤ!離さないっ」
「うん?お前の事は好きだぞ」
自然なプラチナの答えに、ロードは思わず顔を覗き込むが、アレクが意地悪くそこで参加する。
「え、じゃあ俺は?」
「もちろん兄上の事も、同じくらい好きだ」
「え~~~~!それって兄弟愛じゃねーかッ!」
「当り前だ。それ以外に何がある」
「酷いわッ、プラチナ様、乙女の心を踏みにじるなんて…ッ」
よりいっそう、抱きつく力を込めたロードに、プラチナが閉口し始めたとき。
「ロードさん!どこですか、お掃除の途中でいつになっても帰ってこないで…!」
「うをぁッ!やべぇ!オバちゃんに見つかる前に、俺行くからー!じゃっ!」
あっというまに、身を翻して去ってゆく。
「どこが乙女の心なんだか…」
「だよなぁ…」
双子は同時にため息をついた。
「俺はこれから部活だけど、プラチナはどうするの?」
「俺は、図書館に本を返しに行く」
「そっか。カロールによろしく伝えといてね」
「ああ、判った」
そうして、スポーツバッグを肩にかけて、走り出そうとしたアレクは、「あ」と呟いて振り返った。
「たまには、剣道部にも顔出してあげないと、ルビイが可哀相だよ?助っ人のはずが、レギュラーみたいだってぼやいてた」
「そうか、それは悪かったな…帰りにでも、顔を出そう」
「うん、そうしてくれると、皆喜ぶよ」
アレクの笑顔に頷いて走っていく後姿を見送ると、日の当たる部屋で、あと少しで終る読みかけの本を手にし、暫く読書を始めた。