通常エリアのOMCエリア化――所謂バトルモードによるアバターへの当たり判定がラブマシーンによって全域に許可された事態は、ラブマシーン騒動後もなかなか解消されないらしい。

 広がるパステルカラーの空、風船のように膨らんで漂う雲。惑星を囲む輪のように張り巡らされたデジタル表示ベルトの鍵穴の存在に、OZの誇る高セキュリティが今は回復していることが窺える。だけど、その中身はまだ少しばかり混乱中だ。

 落書きの消えたネコ型中央タワー周辺で、虹色に彩られた仮想店舗の商品に挟まって身動きが取れなかったり、ひっくり返したゴミ箱が手や足から外れなくなっていたり、ベンチと観葉植物の隙間で動けなくなっていたり、池から出られなくなっていたり。様々なパターンでじたばたしているアバターがそこかしこにいるのが見えた。あちらこちらでバトルモード初心者アバターが『引っ掛かって』いる。酷く間抜けである意味シュール。

(…なんか、変な光景…)

 笑っていいのか呆れるべきか、判断が付かない。これはエリアマスターへのコールが鳴りやまないだろうと、健二に「帰って来るな」と言い切った佐久間を思い出した。OB達と色々OZ内を弄った責任を取らされている彼は、きっと今頃自分の発言を酷く後悔しているに違いない。

 今、目の前に広がる光景は、佳主馬に以前、同じように『引っ掛かって』いたネコタイプのアバターのこと、そしてそのプレイヤーである真紀のことを連想させる。三ヶ月前、GWの出来事が拉致られたり色々大変だったというのに物凄く昔のような気がするのは、きっと今回の事件の方がより身近で大きかったからだろう。

 そして真紀だけではなく同時に出会ったエリアマスター、【KK】のことも思い出した。彼もまたこのOZのどこかで、頻繁に鳴るコールの対処に苦労しているのかも知れない。OZには不慣れな真紀はともかく、【KK】は今回のこともちゃんと知っていると、おかしなことに佳主馬は確信している。【KK】はどんな状況だろうとどこにいようと、佳主馬をずっと見守ってくれているような気がするのだ。

 【KK】に出会った時、最初はまた勝手に盛り上がっているキング・カズマの熱狂的なファンかとアバター名を見て退いたけれど、彼はすぐに気持ちを切り替えたし仕事の手際も良かった。あの件についても彼がただの熱狂的なファンなら当然プレミア的な見返りを要求するだろうし、キング・カズマと関わったことを黙っていられるとは思わない。でも、そんなことはなかった。彼はとても良識のあるひとで、全てが終わってみれば【KK】の由来なんて全く気にならなくなっていた。

 あの時【KK】はキング・カズマだから助けてくれたのではなく、【カズマ】が頼ったから、助けてくれた。何度も無理難題を言う【カズマ】個人の為に友人まで巻き込んで長野まで来てくれて更には危険を冒してくれたり、佳主馬の一方的な信頼に応えてくれた彼はとても誠実な人間で、そこが限りなく好ましかったし、正直過去虐められた経験から少し人間不信的なものを奥底に抱えている佳主馬にとって、真紀とは違う、初めて認めることが出来た『他人』だった。

 そんな【KK】が今になっても【カズマ】に会いに来ないと言うことは、彼は約束が果たせなかったのだろうか。

(そんなの、別に気にしなくていいのに)

 何故だか、無性に【KK】と話したい。ラブマシーンのこと、栄のこと、――夏希の連れて来た、健二のこと。健二のことは数学コミュでも話題に出たのだ。もしかしたら【KK】だって知っているのかも、と思うと余計に話したくなった。

 アカウント情報は残してあるから、直接コールすればいいことは判っている。――でも。

 佳主馬も負けた時は外に向けて発散するよりは内に隠(こも)るタイプだから、触れて欲しくないという気持ちも判る。もし今呼び掛けたって、返事が返ってくるかも判らない。忙しくて気が付かないこともあるだろうし、もしかしたらもうバイトを辞めているかも知れなかった。

――一度だけ、)

 呼んでみよう。そう思ってキーボードに手を伸ばした時、コール音と共にポップアップウィンドウがノートパソコンの画面に現れた。

 【 佐久間 さんからビデオチャットの申請が来ています。許可しますか?  YES / NO 】

 出鼻を挫かれて、佳主馬はふう、と小さくため息を吐き出す。そうして気持ちを切り替えるとキーボードに置いていた指でYキーを押した。

 瞬時に開くスカイプを利用したビデオ画面には、相変わらずものが詰め込まれた狭い印象の部室を背景に、見慣れた佐久間の顔が映る。彼は気さくに片手をあげて軽く挨拶して来た。

『よー、キング。お疲れ』

「お疲れさま。あのさ、まだ通常エリアのバトルモードって解除されないの? 中央タワーのとこ、なんか凄い状態なんだけど」

『あー、あれなー。悪いけど今んとこ後回し。根本的な設定制御関係のシステムの方がいかれちまってるから、まだどうにもならないんだ。ビジネス・ショッピングエリア優先で復旧中なもんで、そういうとこ全然余裕なくって。OZ側も情報流出した責任取らないといけないし、常にパンク寸前を継続中ー』

 話している間にも作業中のパソコンから電子音が響くのに、「ああもう、やってるっつーの!」と佐久間が返した。相当キてそうだ。

「忙しそうだね」

『忙しい。死ぬ。みんなもう引っ掛かるだけじゃなくて、ショッピングエリアとかでぶつかっただけでHPゼロで行動不能とか、そういう動けないアバターで道が塞がったりとか、アバターによる交通渋滞でサーバーに負荷が掛かるとか些細なことがどんどんどんどん積もり積もってもうホント、死ぬ。OZも経験者を優先的に雇ってバイト増やしてるけど、忙しくて死ぬ』

「…家、帰れてる?」

『いやー、夏だしさすがに帰るでしょ。泊まり込んだのはラブマの時だけ。でもこうなると、家にもワークステーション欲しいなー』

 家のも結構弄ってんだけどなー、と言いながらぐぐ、と画面越しに背筋を伸ばしている佐久間の、ワーカホリック的な発言に少し呆れる。けれど佳主馬にもそういう傾向はあるので敢えて突っ込まない。

 その時ワールドクロックが午前十時を示して、ニュースと共に管理棟のゲートが開くとエリアマスターの制服に身を包んだアバターたちが一斉に出て来た。定期巡回の時間だ。大量のコールに個別に対応するのが困難な為に、定期的にエリアマスター達がこうやって各エリアを巡回して対応をすることになっている。OZの中央エリアが表示されているウィンドウの中、エリアマスター達があちこちで引っ掛かっているアバターのもとへと散って行くのが見えた。それを眺めながら佳主馬は口を開く。

「OZのバイトだけで夏が終わって良いの、佐久間さん」

『あー…それは言わない約束ですよキング。つか、海もスイカも花火も女の子も俺は諦めてないし』

 背伸びから姿勢を戻してメガネのブリッジを押さえながら言うちょっと疲れた感じの佐久間に、それで、と佳主馬は促す。

「用件はなに?」

『あ、そうそう。ちょっと健二とそのノートパソコン借りたいんだけど、今忙しい?』

「大丈夫。待ってて、呼んでくる」

『サンキュ。助かりまっス』

 佳主馬が納戸から出ると、各所を確認しているような大工の一人とすれ違った。被害の酷かったところと瓦の飛んだ屋根にビニールシートを張る作業は終わったのだろうか。屋敷のあちこちから修繕の音が響く。温泉の方は今、水質調査をしているはずだ。

 栄の誕生日会と同時に各所に連絡し必要な手続きを済ませて、出頭した健二と弔問客を見送った親戚総出で粗方片付けを済ませた今はもう素人に出来ることはないから、佳主馬も納戸で過ごしている。母の聖美が出産でこの屋敷に留まっているのは、健二の帰りが遅くなろうとも待つのにちょうど良い、と佳主馬は思っていた。たとえ夏希が途中、自分で企画したとか言う生徒会のキャンプの都合で健二を待てずに帰ろうとも(そういえば受験勉強はいいのだろうか)、彼がそのまま東京に戻るかもしれないなんてこと、少しも考えてなかった。

 その健二は今、危なっかしい手つきでの片付けの手伝いを終え、それでも途中親戚の誰かに捕まってはその才能を惜しみなくへらりと使ったり、鉢の壊れた朝顔を子供たちと一緒に植え替えたり、被害のあった畑の手入れを手伝ったりしてスローライフをまったり過ごしている。それも彼の父が帰宅するのに合わせての短い延長期間だけれど。

「健二さん」

 栄のように、庭で弱った朝顔の世話をしている健二に廊下から声を掛けた。傍にはハヤテが尻尾を振って待機している。恐らく散歩に連れて行けと強請っていたのだろう。何故だか彼には子供も動物も、大人までもが懐いてしまう。

「佳主馬くん。 どうかした?」

 立ち上がって柔らかい笑顔を向けてくる健二に、納戸を指しながら答える。

「佐久間さんが、用があるって」

「そうなんだ。わざわざありがとう」

 手を洗って来るよ、そう言って踵を返す彼と主人よろしく付いていくハヤテを見送って、佳主馬は納戸に引き返した。