「佐久間、お疲れ」

 麦茶を二人分持って現れた健二が、佳主馬の隣り、定位置に座って佐久間へと声を掛けると、佐久間も作業を中断して顔を上げる。

『おう、健二。おばさんから書類預かって来たぞー。アドレスと書類番号とパスはこれな』

 PCのモニタにコンソールウィンドウが開いてURLと、更に数行の英数字が表示される。まずはURLをダブルクリックしてブラウザを立ち上げるその手際はいつものもたつく彼とは違って、素早い。

「ありがとう、佐久間。忙しいのにごめん」

『戻って来たらなんか奢れ』

「わかったよ」

 苦笑を返す間にアクセスしたページが開く。見慣れたOZのロゴマークはいつものログイン画面にとてもよく似ていたけれど、少し様子が違った。佳主馬は健二を振り向いて問う。

「なにこれ?」

「アカウントの再申請だよ。もうそろそろ帰るからあの仮アカウント、使えなくなるし」

 使用期限も切れるしね、そう言いながら健二がOZのロゴマークをクリックすると、ポップアップウィンドウが表示され、パスワードと書類番号の入力を求められる。

 健二が入力する度にポップアップウィンドウの中、設問が切り替わっていく。現在お使いのPCのIPを登録しますか。いいえ、後で登録します。携帯のICCIDを入力して下さい…。

『健二のアカウント、キングに壊されたラブマともう分離出来ない状態になってたから、ラブマの形跡ごと綺麗に削除されたんだよ。で、OZの方から再申請書類が送られて来たってわけ』

「仮アカウントじゃ、権限がなにもなくて。メールも送受信出来なかったし、何より花札にも参加出来なかったしね。あの時見てるだけだなんて、本当にもどかしかったなあ」

 それは佳主馬とて同じだ。そうだね、と視線だけで同意すれば、その視線を受けた健二は同意するようににこ、と控えめに微笑んだ。彼のこういうところが好きだ。視線に気付くところ。視線に込められた気持ちすら気付いて掬うところ。気持ちを受け止めて柔らかく笑って返してくれるところ。

『新アカウントになったら、メルアドとか変わるの忘れんなよ』

「うん。 …ええと、今使ってる仮アカウントのID、はー…」

 たたた、たん。エンターキーを押す、彼の手を見てあの時を思い出した。記憶に鮮やかに焼き付いている。二度と消えない記憶だ。きっと、佳主馬はエンターキーを見てはこの夏を、健二を思い出すのだろう。変な記憶が住み着いてしまった。取り消せないものが佳主馬の中に出来てしまった。今まで誰にも興味を持たず、だから記憶するものを自分で選んで来た佳主馬にとって突然現れた健二は、穏やかなのに強烈な存在になってしまった。

 いつもと同じ夏になるはずだったのに、まったく、誰がこんな夏を想像しただろうか。

 【 基本情報を確認しました。現在のセキュリテイレベルは中です。セキュリティレベルを後で変更する場合は、マイページより行えます。詳しくはヘルプを参照して下さい。

 次はアバターの設定をします。なお、以前の組み合わせは使用出来ません 】

「うーん、やっぱり前には戻せないか…」

 かくりと力なく肩を落とす健二の姿に、さすがの佳主馬も水滴を纏った麦茶のグラスを手に取りながら、フォローを入れる。

「訂正と謝罪があったって、全国規模でメディアが大々的に取り上げたんだから、仕方ないよ」

『ご丁寧にお前の写真と並べてたしなー。コミュニティだけじゃなくリアルでトラブルになるかも知れないなら、使わせない方が無難、てことだろ』

「そうだよね。仕方ない、か」

 ふう、と深いため息を吐いて顔を上げた彼はふにゃりと笑うと、残念だな、と呟く。

「そうかー、もうあれは使えないんだ…」

 声に含まれた落胆の温度に、佳主馬は健二の表情をそっと覗った。

 考えてみれば、侘助と同じように健二にとってその思い入れのあるアバターを、健二自身が消す努力をしたことになるんだろう。仕方がないとは言え彼はどんな気持ちであの時、過ごしていたのか。目の前で崩壊していったその姿に、何を思ったのか。佳主馬はそれに少しも思い至らなかったことを今、悔やむ。

 佳主馬は自分の扱う【カズマ】を失うことを想像する。

 【カズマ】はOZの中での自分で、少林寺拳法を習うために作ったアバターで、そもそも発端は虐められた佳主馬に対して、師匠と仰ぐ祖父の万助が人間関係を円滑に生きていくための知恵を授けてくれた、その為にこの世に存在することとなった分身だ。その存在を失うのは、今までの佳主馬の努力も経験も、悔しさも喜びも全てなかったことになってしまうような気がして、胸が寒くなる。それは負けてしまうことよりも、もっと別の――

「…寂しい?」

「うん?…うん、そうだね。寂しいかな。付き合い長かったし、それに最後の記憶が強烈過ぎて、思い出すのがあの、怖い顔ばっかりなのがちょっと…残念かなって」

「僕はそれしか知らない」

 駆け込んで来た健二にパソコンを貸した時、ラブマシーンに奪われたアバター全てが、いやらしく笑っていた。ああいう笑い方には見覚えがある。人を、人間を嘲る笑い方。佳主馬がもっとも嫌う種類の、気持ち悪い顔だ。

「そうだっけ? ――ああ、そうか…」

 首を傾げて佳主馬を見た健二が、順を追って思い出したのかこくりと頷いて、それからまたうーん、と唸る。

「でも今からまた新しいアバターを考えるって、面倒かも」

「次はOMCに有利なアバターにしたら?」

 そしたら一緒にトレーニング出来るし。そう続ければぱちんと瞬きした健二の向こうで佐久間が『ええっ!? なにソレ、俺も俺も――ッ!!』と騒ぐが健二はスルーだ。

「佳主馬くんはやっぱりそういうの考えて作ったの?」

「そういう訳じゃないけど。身体能力の高そうなヤツを選んだだけ」

 少林寺を習うのに不都合のないアバターにしたくて、OZアカウントを取得する前に色々調べた。上手く出来ないのをアバターの所為にはしたくなかったから。インターネットには色々検証しているまとめサイトや書籍まで出ていて、その中でじっくり自分の好みに合うタイプを捜した。

「僕が使ってるウサギタイプは本物と同じで、後ろ足が強い設定になってる。殴るよりは蹴りの方がパワーが強くて、だから跳躍力と瞬発力が高いんだ。ただ、素早い分身軽だからパワー自体は基準値より低いけど、相手の弱点を突けばヒットにボーナス付くし、コンボ極(き)めればその分ボーナスでパワー不足なんかプラマイゼロだよ」

 後はアイテムアクセサリーで調節してるけどあんまり付けると素早さが下がるし、と続ければ、健二と佐久間の両方からおおー、と感嘆の声が上がった。しまった、すっかり忘れていたけれどこの二人はキング・カズマの熱狂的に近いファンだった。キラキラした視線で二人が見てくるのに、ちょっとたじろぐ。健二なんていつもは白いその頬を、今は珍しく子供の様に紅潮させている。健二の様子に鼻血が心配になって来た佳主馬は、ついティッシュの在処を目で探してしまう。備えておいて損はない。そんな佳主馬の投げ出していた手が突然、持ち上げられる。

 なにごとだ。咄嗟に隣りに居る健二を振り向いて、佳主馬は目を瞠った。

「恐れ入りますが相談に乗って頂けますでしょうかよろしくお願いします佳主馬くん!」

 正座して身を乗り出すような姿勢の健二の両手が、佳主馬の右手をぎゅっと握っている。

 状況を理解した途端佳主馬の頬が、かあ、と燃えた。

 夏希の手はこんなに強く掴まない。そっと宝物を手にする時のように、恐る恐る、でも柔らかく触れる、その仕草を知っている。礼儀正しい健二は子供や女の人にとても優しい上に少しも乱暴さがなく遠慮がちで、身重の聖美への対応なんてちょっとした英国的作法のようで、直美が「ちょっとあんた見習いなさいよ」とにやにやしながら佳主馬の脇を突くくらいだ。

 誰にでもそうなのだと思っていた健二が、こんな風に力強く少し乱暴に誰かの手を掴むだなんて、想像したことがなかった。健二の手が冷たいと感じるのは佳主馬の体温が急激に上がっているからで、汗ばんできた手を意識する。振り払いたいのにこの呪縛は一体なんだ。

 健二は佳主馬にとって、落ちて来た『あらわし』と同じだ。軌道を修正しようとしたって佳主馬の深いところに勝手に落ちて来て、佳主馬の焦りや悔しさ、頑なさも何もかもを吹き飛ばし、そうして二度と消えない跡を残している。温泉ではないけれど別の何かはこんこんと胸から湧き出して、とめどない。

『ちょ、おま、ズルいぞ健二!!』

 佳主馬の思考に突然割って入った佐久間の声に、はっ、と我に返って出来るだけさり気ない仕草で右手をそろそろと引き離す。そして片膝を立てた姿勢になり長い前髪できっと赤くなっているだろう顔を隠して、健二を促した。

「わかった、から。続き、さっさとしなよ」

「あ、うん」

 頼むからそういう、力の抜ける笑みを向けないで欲しい。文机に突っ伏したいのを何とか堪える。胸から湧き出て溢れるものが体中を満たして熱い。心臓が疼きながらポンプの役目を果たして体中に巡らせる、この熱よおさまれ、頼むからおさまってくれ。

 佳主馬がこころの中で呪文のように唱えている間、健二が画面に表示された『次へ』のボタンをクリックすると、ぴこん、と軽い電子音がしてアバターの設定画面が開いた。そこに表示された基本アバターを見た瞬間、二人とも動きを止める。

「え…」

 呟いたのは、多分同時。

 二人共が画面に見入っている状態に気付いた佐久間が、ぶーぶー訴えていた不満を止めて訊いて来た。

『なになに、どした?』

「あのリスが基本設定になってる。しかも『Exclusive』――僕と同じだ」

 あの黄色いリスのアバターが表示されている上から、赤いラインで表示された『Exclusive』の文字が点滅している。別にこのリスを使わなくてもいいけれど、その組み合わせを使えるのは健二だけ。そういうことだ。夏希も多分、あの吉祥のレアアイテムであるピアスを外せばアバターには同じように『Exclusive』と表示されるだろう。『Exclusive』はOZから認定されるのと、栄のように完全オリジナル、自分でデザインした有料登録アバターの、基本設定画面に表示される。有料登録の方は多数居ても、佳主馬や夏希、そして健二のようにOZから認定を受けているのはごく少数。名誉的なものでレア度が違う。

 ぶふッ、と画面の向こうで佐久間が噴き出した。

『ガチで!? お前、あのブサリスでOZに認定されてんのかよ!』

「ぶっ、ブサリスって、大体アレは佐久間がやっつけ仕事的に作ったんだろ!」

『いやー、さすが俺。ああいう時こそ光る才能が出るよな。今あのヒラメキはないわ』

 良い仕事したなー、と掻いてもない汗を拭う仕草をしている佐久間は、不服そうな顔をしている健二ににやにや笑い掛けながら頬杖を付く。

『別にいいじゃん、あのままで。そのアバターのお前って今じゃOZのヒーロー、っていうか魔法使い扱いだし』

 ヒーローは間違いなく伝説級になったキングだけどな、と佐久間が言うのに小さく違う、と呟いて否定する。それは夏希で、そして健二だ。佳主馬は最後、防御力ゼロのラブマシーンを叩いただけ。それでヒーローなんて有り得ない。

「OZの魔法使い、か…」

 アバターをやっつけ仕事で出来たリスにするかで迷っている、健二の横顔を見詰める。

 前に子守をさせられた時子供達と一緒に観る羽目になった、同じ響きのファンタジー童話が自然と頭に思い浮かぶ。

 悪い魔女を倒して英雄扱いのドロシーが、オズの国に残らず帰るために銀の靴の踵を3回鳴らして唱える呪文。

『おうちがいちばん』

 奇しくも、同じようなことを彼は言った。

 多分ここには祝福をする善い魔女が居て、でももう居ない。悪い魔女は潰れて消えて、彼は善い魔女のこころと呪文を受け取って、家へと帰っていく。

――そこには幸福があるの?)