いつかあるかもしれない話

 今駅です。もうすぐ帰ります。

 携帯に届いたメールを見て、俺は返事を打ちながら片手でパソコンを操作して、作業を保存する。メールがきちんと送信されたのを確認してから、ヘッドフォンを外して立ち上がった。開け放った窓の向こう、春の宵は空気が甘くて少し不埒だ。

 キッチンに移動して夕飯の支度の続きに取り掛かる。下ごしらえはすでに済んでいるから、後は仕上げるだけだ。

 自分が料理を当たり前にするようになるなんて、思っても見なかった。けれど今になっては出来て良かったと思う。これだけは料理が出来ないクセに「これからの男は料理も出来ないと」と五月蠅かった、理香さんと直美さんが正しかったと少しだけ、考えなくもない。妹が生まれてからの母さんの負担も大きく減らせたし、あのひとと一緒に住むことになった今は、分担出来る家事がひとつでも多い方がいいことを理解したからだ。

 あのひとの方こそ、あんなに不器用そうなのに、やってみたら料理も出来たのには驚いた。

 きっかけはあのひとの母親が長期出張で留守中に上田からの野菜と、師匠からの海産物を同時に送られた時で、まず親友に泣きついて、親友の母親からそりゃあもう怖々イカと魚の捌き方を教わって、その後万理子おばさんからOZ経由で色々と習ったそうだ。ネットがない世の中ってさぞかし不便だったんじゃないの、特に主婦。と、その恩恵を受けている俺は思う。何せ海上自衛隊のHPなんて、レシピのページが一番更新頻度が高いって話だし。

 あの寂しがりなひとも俺に随分慣れて遠慮も減ったし、俺も相変わらず面倒なのは変わらないけれど、目と耳を鍛え続けているのも功を奏して、人付き合いもそれなりにこなせるようになった。成長していけばこなれていく。適当に流せるものも増えていく。それでも見失ってはいけないことを、俺はあの夏、そして春からずっと、抱えている。

 料理を次々皿に盛り付け鍋の様子を見て、炊飯器の時間を確認。よし。使った調理道具の片付けをすませた時、玄関のドアが開く音がした。

 出迎えた先、相変わらずただいま、という言葉を照れたようにはにかんで言うこのひとはとても、可愛い。この表情を見ると、このひとの帰る場所が自分であることのしあわせを感じる。このひとが笑うと、俺も嬉しい。

 このひとのしあわせは確かに俺のしあわせだけど、このひとをしあわせにしたいのは俺だ。それが、俺のたったひとつのすべてのこと。

 手放さないために、出会った頃に比べて随分伸びた腕を伸ばした。

「お帰り」

 そうして俺は目の前に立つ春の匂いのする幸福を抱きしめ、そっとその頬へキスをした。

end.