子供の頃夏希に振り回されて通い慣れた裏山、湧いた温泉とは反対の方角に咲く、桜の根本まで引っ張って来た。ここはいつも日陰の所為で遅咲きなのを佳主馬は知っていて、健二が来たらこっそり見せようと思っていた場所だった。

 こんな事情で連れてくるとは全く思ってなかったけれど。

 辿り着いた頃には少し冷静な思考が戻って来ていた。自分も悪かったことは解っているのに、それでも口からはどうしても、非難の言葉が出てしまう。

「信じられない。酷い、健二さん」

「ご…ごめんね。本当にごめん」

「僕がたとえ忘れてたって、アカウント、削除されたのに連絡しないって普通に考えて酷いよね」

「あ…佳主馬くんの前で変更してたから、すっかり教えたつもりにな…っ、も、もしかして佳主馬くん…」

「したよ。【KK】に向かってコール、した」

「ごめんなさい!本当にごめんなさい佳主馬くん!!」

 直角に近い角度で頭を下げるのを視界の端に映しながら、全身を包む虚脱感に従って、佳主馬は健二の手を掴んだまま腰を下ろした。つられて健二も屈み込んで佳主馬の顔を窺おうとするのを許さず、曲げた膝に額を付けて顔を隠す。

「…健二さん、僕のこと嫌いなんでしょ。だからこういうことしても平気なんだ」

「ち、違うよ! 大好きだよ! 大好きで、大切だから、…空回っちゃうんだ」

(大好きだなんて、そんな簡単に言うなよ!)

 健二はいつもそうだ。

 頭にくる。本当に腹が立つ。そんな簡単な言葉以上だと思うこの状態を表す言葉が見つからない。

 ショックだった。酷いと思ったし、騙されたような裏切られたような気さえした。夏から気付いてて言わないって一体どういうことだ。この数ヶ月間の佳主馬のなんて滑稽なことか!悩んでいたことの全部が意味がないじゃないか。いや、確かに得たものもあったけれど、でもこれは本当に酷い。

 周囲が全く見えてなかった佳主馬の頭に、侘助の言葉が過ぎって、苛ついた余り思いっ切り地面を殴る。びくんと健二が隣でびくつこうが、今はそんなことを気遣ってられない。

(ああ、もう、もう――!!)

 ダメだ。もうダメだ。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、驚いているのか、一体今の自分がどうなって健二をどうしたいのか、全く判らないけれど。

 それでも、健二のことが嫌いになれない、っていうのはどうなんだ!

 自分を戒める最後のチャンス。健二のことをただの尊敬する年上の友人だと思える、もしくは嫌いになれる、最後のボーダーライン。

 それを自分から踏み越えようと、いや、今のショックで軽々と踏み越えるどころか突き抜けてしまった気がする。だって確かに怒っているのに。酷いと思っているはずなのに、掴んだ手を一向に離す気にはならない。それどころか、ショックで上がっていた心拍数は、今の状況にどんどん激しく強くなっている。

(ああもう、そうだよ、僕はあの時どこかやられちゃったんだ!)

 佳主馬にとって、健二は『あらわし』と同じ。軌道修正する間もなく勝手に落ちて来て、奥深く入り込んだ胸からこんこんとこの、好きだという感情をとめどなく湧き起こす存在。

 勝手に始まっていたこの恋は、佳主馬がどんなに踏み留まろうとしたところで引き返せるはずもなかった。コントロール出来るものじゃあなかった。尽きることのない感情が体の内側から頭の中まで溢れ出しそうなくらいに満ちて、おかしくなってしまったのだ。

 今、この瞬間健二が傍にいてくれるならしあわせで、だから嫌いになんかなれるはずがないのだ。今、この最悪な状況で「大好き」と言われて喜んでしまう。そもそも、健二を好きになって【KK】もずっと、こちらは純粋に友人としてだけれど気になっていたなんて、一体どこに健二を嫌う理由がある。池沢 佳主馬 はどうしたって小磯 健二を追い求めるように出来ている、そのことを嫌って程判らされただけ。

 どんなに足掻いたって迷ったって、結局佳主馬は健二のことが好きで好きでたまらない。

 どこにいようとどんな形だろうと、佳主馬は健二を好きになる。好きになってしまうのだ。

 健二の代わりなんて、どこにもいない。

 このひとだけだ。

「傷つけたね。…ごめん。ぼくはその辺が、ちょっと、下手って言うか…本当に不慣れで」

 だからいつも、間違うんだ。

 拗ねている佳主馬よりよほど意気消沈した声がしょんぼりと言うのに、もう行き着くところまで突き抜けてしまった感情のリミッターの限界が来ていた佳主馬は、本能が望むまま、掴んだ片手はそのまま健二へと自分の体を倒して抱きついた。

「うわぁっあああ!?」

 突然のことに完全に油断していた健二が、情けない悲鳴を上げる。佳主馬が倒した体を押しつけた拍子に、花びらの散る桜の根本へと倒れ込んだ健二の上へと上半身が重なった。

 そして佳主馬は残った手で拘束するように強く、抱きしめる。こつこつと骨が佳主馬のあちこちに触れた。薄くて硬い、けれどこれが健二の持つ体で、健二そのものだった。

 ずっと触れたかった。夏希のように当たり前に、健二に触れていたかった。

 成長期に入ってもまだ全然足りないから、包み込むようにとはいかない。しがみつくようにして健二の鎖骨付近へと額を擦り寄せる。鼻の先が触れた平たい胸から、真紀の香水よりももっと芳しくて、なんて表現すればいいのか判らない、知らない体温の匂いがする。健二の匂いだ。初めて知るその匂いは春の陽と相俟って、酔いそうなくらいとても甘く感じる。

 それは、佳主馬の内を満たす感情と同じ匂いだった。吸い込めば健二を想う時と同じように、胸の奥が疼く。そうしてかっかと佳主馬の頬を火照らせ、目の奥を熱くし、じんと芯から痺れそうになる。

「かず、ま、くん…?」

 重ねた胸の内側から、彼の弱々しい声が震えて伝わってくる。その骨越しの音を頬で受けながら、そっと佳主馬の様子を覗って問い掛けてくる健二に短く切り返す。

「だめ」

「えっ」

 返した声音の硬さに健二がひくりと体を揺らすけれど、佳主馬はいくら好きでも、いや好きだからこそこれだけは許さないと決めたのだから、強く続ける。

「許さないから」

「……取引先に言うみたいに言ってもダメ?」

「だめ。そんなことで許されるとでも思ってるの?」

 顔を上げて胸の上から睨むと、健二がうううと情けない顔で唸ってごめんなさいとへにょりと言った。健二を困らせているけれど、本当はもう八割近く許してしまっているけれど、でも、これは今後健二が佳主馬との繋がりを容易く切ってしまわないためにも、こころを鬼にしてやらなくてはならないこと。絆されてはだめだとわざと難しい顔のまま、体を持ち上げ横たわる健二に視線をかちりと合わせて言葉を継いだ。

「絶対に許さない。これからもう、何があったってあんたに遠慮なんかしない。連絡が取れなくなるとか二度と許さないから。また同じことしたら、何があろうと捜し出して捕まえる」

 健二の瞳を真上から見詰める。少しも逸らさず、そして健二にも逸らさせないよう、瞳に力を込めてまっすぐに貫き通す。

「健二さんがもし離れたがっても、僕はもう絶対、離さないから」

* * *

 いい加減掴んでいた手を解いたら、どぎつい真っ赤な跡が付いていてかなり焦った。物凄く痛かっただろうに、健二はやっぱり何も言わなかった。さっきはそういうところに腹が立ったのに、今はたまらなく切なくなれるのだから、全く都合のいいこころだと思う。

 健二がもたらすものは、いともあっけなく佳主馬自身のコントロールを失わせる。

 痛むだろうその跡を無言でそっと指の腹で撫でて、桜の木の下、二人並んで座り直した。

「……【KK】に直接会ってお礼を言いたいって、ずっと思ってたんだ」

 佳主馬が切り出した言葉に、健二はすぐさま首を振る。

「お礼なら、あの時言って貰ってるし。あの時だって佳主馬くんが頑張ってるのを見て、ぼくはすごく力を貰えたんだ」

「僕が言いたいんだ。戻ったら、佐久間さんと一緒にお礼を言わせて」

 いいでしょ。

 そう佳主馬が健二を見上げれば、くすぐったそうな顔をして健二が微笑み頷いた。

「…栄おばあちゃんだって、会いたがってた」

「え?」

 不思議そうに目を瞬かせる健二に、あの時、と続ける。

「誘拐されてた車から助けられて逃げた後、ここに辿り着いたんだ」

「ええっ、あそこから!? 佳主馬くん、凄く頑張ったんだね…!」

「真紀が陸上部じゃなかったら、ムリだったかも」

 どちらかというと佳主馬の方が体力の限界だったのだけれど、それはさすがに黙っておく。

 深く呼吸をした健二が、空を見上げて目を細めた。

「そうなんだ。じゃあ、ぼくがじゃんけんに勝ってバイトでここに来られたのは、栄おばあちゃんが引き寄せてくれたからなのかも知れないね」

 陣内で、最高に強い勝負運を持った人が陣内のために一番大切な、重要な役を揃えるために引いた、陣内に関わりのある最後で最高の切り札。

 一目で身内に受け入れるはずだ。栄には他の親戚たちにはない何かが判っていたのだろう。佳主馬にはそういうものは判らない。将来どれだけ成長して沢山の人間と関わり、経験を重ね人を見る目を養ってもどんなに注意していても、気づくかどうかも判らない。

 でも、たったひとつ、自分にとって大切なことは識っている。

 健二をけして、手放してはならない。

 ――それが佳主馬にとって最も重要なこと。

「ぼくは佳主馬くんに会いたいって、ずっと思ってたから」

 去年の夏と、同じ温度の言葉だった。

 今度はその言葉を正しく受け取って、佳主馬は健二を見詰めたまま、こくりと頷く。健二の表情は夏、納戸で見たのと同じ笑顔だったけれど、今は陽射しを浴びているからか、余計に目映い。

「…僕だって」

 息を吸う。甘いもので胸が満たされている。

 去年の春に撒かれた種が、夏からとめどなく溢れる感情で芽吹いてそうして今、甘い匂いを放ちながら咲き開く。更には周囲を包む春の空気が陽射しを浴びてなお、甘い。

 桜の下、健二が眩しくて、くらくらした。

「僕も、ずっと、ずっとあなたに会いたかった」