「毎回ホントに悪いんだけど、よろしくね、新一君」

 ご近所の芹田さんにそう頼まれて、新一はこくんと頷いた。

 新一は探偵を目指している。

 将来は父親の優作のように難解な謎を相手に、警察に協力を求められるような名探偵になるのが夢だが、まだ今のところはこうやって、ご近所のペット探しくらいしか活躍の場がない中学生だ。

 まあ、年齢的に父親抜きで凄惨な事件現場に呼ばれることもないし、そもそも実績がないのだから仕方がない。もちろん事件が起こらないのが一番だが、それとは別に、経験を積めるような事件現場に早く出会さないかと、日々日常での観察眼だけが磨かれていく。

 そして、新一は幼いときから異様に動物に好かれる体質だった。別に動物と会話が出来るだなんてメルヘンチックなことは言わないが、新一自身も動物は好きだからか、何となく意思の疎通らしきものが出来てしまう。

 なので、近所の猫や犬に適当に行方不明になったペットの件を頼んでおくと、誘導されたり、帰り道で探していたはずのペットと合流したり、何故かペット自身の家ではなく、新一の家の門の前で待ち構えていたりする。いや自分の家に帰れよ。

 そんな感じで、今更真新しくも難解でもないペット捜索の依頼は、いつものように終わるだろうと思っていたら。

「ハナちゃんだ」

 あれこそは捜索中の芹田ハナちゃんではないか。夕焼けに染まるその敷地の中にぽつんとハナちゃんが佇む姿を見て、思わず声が出る。

 今回もいつものように、大好きな溝脇さん家のボーダーコリー・コテツくんに会いに芹田さん家を脱走したんだろうと思ったのに、出会う猫たちの誘導に従っていれば、米花の中心街や住宅街からも微妙に外れた、少しうら寂しいところに建つ見るからに廃棄されているプレハブ施設まで連れて行かれた。

 別に怪我をしているようにも、元気が無いようにも見えない。新一の姿を見てあの柴犬特有のチャーミングな尻尾を振るところまで、いつもと同じだ。

 なんでこんな、今まで来たことがないような場所に居るんだろう。

 疑問に思いつつも、腕に抱えた猫と一緒にハナちゃんに近づいた。

「ハナちゃん、お母さんが心配してたぜ。帰ろう」

 ところがハナちゃんは新一の声にキュンと鼻を一度鳴らしてから、プレハブの方へと踵を返すと軽やかな足取りで走り去ってしまう。

「えっ、おい待てよ!」

 新一の制止の声も聞かず、プレハブの中までひょいと入り込んだハナちゃんの後ろ姿を見ながら、マジかよ、と口の端を引き攣らせた。もうすぐ夜だ。こんなところ、不気味過ぎて入りたくはない。ないが。

 何となく、行くべきのような気がした。

 新一は自分の直感を信じている。腕の中に抱えた猫をぎゅっと一度感謝のハグをして地面に降ろした後、敷地内へ一歩、ひとり踏み出した。

 入り口の引き戸は壊れていて隙間が空いており、少し押せば問題なく動くような状態だったので、そっと開いて先に進む。雑然とそれまで事務所だっただろう古びて埃の溜まった様子の机や棚、椅子が荒らされたのか散らかって倒されているのに足を取られないよう気を付けながら、雨漏りで撓んでみしりと音を立てる床を踏んでいく。ハナちゃんが先導するのに付いていけば、部屋の奥、腰までの高さの棚の向こうにまず、スニーカーが見えた。

――!? 人!? 事件か!?)

 人は靴無しでは歩けない。靴屋でないなら靴だけ放置されている可能性は少ないし、もし靴だけぽつんとそこにあるなら一気に事件性が高まる。

 死体かも知れない、と慌てて棚を回り込んだ、そこには。

 大人の男性が壁を背に、脚を投げ出して座り込んでいた。

 駆け寄って意識を確認する。呼吸は浅いがちゃんとある。鍛えられていることがよく分かる体の方をよく見れば、彼が自分で押さえた脇腹が気にかかり、屈んで顔を寄せれば血の臭いがした。怪我をしているのか。薄暗闇の中よく見れば服の上からでも血が溢れているらしく、床に所々、血痕が落ちてしまっている。

 ハナちゃんはこの男性に寄り添って体温を分け与え、その頬を時々舐めては完全に意識を失わせないようにしているようだった。

 指の先から全身黒ずくめの服装に黒のキャップまできっちりと深く被った、あからさまに怪しい格好。それに、体にフィットした服装では到底誤魔化しきれない立派な尾。

(見たところ、犬の獣人ぽいな…)

 耳はどうしているのだろう、キャップに無理矢理押し込んでいるのだろうか。そう思いながら顔を改めて覗き込んで、ハナちゃんへ視線を向ける。

「ハナちゃん、確かにこれはすっげーイケメンだけど、浮気はダメじゃないかなあ」

 ゴールデン・レトリーバーを連想させるアッシュ系ブロンド、そして張りのある褐色の肌。あいにくと目は閉じているが、顔のパーツの配置からしても察するに有り余る。これは紛うことなきイケメンだ。

 対してハナちゃんは、バカじゃないの? みたいな顔で新一を見てきた。動物は意外と表情が豊かだ。その冷たい視線を受け止めながら、新一は自分のデイバッグを漁って手当に必要なものを探る。時々犬は変なところに落ちて脱出出来なくなっていることもあるから、何かがあったときのために色々準備はしてきたのだ。

「手当てします、よー…」

 道具を出しながら脇を押さえ込んでいる手に触れる前に一応声を掛けると、うっすらと瞼を開いて彼は新一を見た。茫洋とした瞳は、けれど一瞬で覚醒し、眉間に皺を寄せると新一を睨み付けてくる。空気のとげとげしさにあからさまに警戒されているのが判る、が。

 新一と彼の間にハナちゃんがするりと入り込んできて、彼の頬を舐めた。

 彼はぱちんと瞬きをして、無言でハナちゃんを見る。ハナちゃんも見詰め返す。何をやってるんだ。よく判らないので自分は手当に必要なものを手早く取り出していれば、彼の警戒心が僅かに緩んだのが判ったので、もう一度向き直る。

「今から手当しようと思うんですけど、自分でしますか? それとも救急車?」
「悪いが…、救急車は、やめて欲しい」

 顔を上げずに、荒々しい呼吸の合間苦痛を堪えながら辛うじて意識を保っている男性が言う。

 言うと思った。少々緩んだとはいえ警戒心はまだあるうえ、なにより突然現れた新一を怪しんでもいるだろう。その頑なな態度に苦笑する。

 獣人は苦痛に強いし、治癒力も高い。救急車を呼べる状況ならとっくに自分で呼んでいるはずだ。そうしない訳は、想像しなくとも彼の怪しさあふれる格好で判る。

 彼という存在の謎は、日頃事件に出会したいと願う新一にとってはっきり言ってとても魅力的で、高揚してくるものが正直あった。だが、人命はなににもおいて優先される。今は彼を助けることが最優先事項だった。

「じゃ、どうするんです? もう夜だ、追っかけっこが始まる時間じゃないんですか?」

 夜は身体能力に優れた獣人たちの独壇場だ。おまけに血の匂いまでしている。これじゃあ居場所を自分から知らせているようなもの。

「とりあえず、応急処置になるけど手当しましょう。オレが触っても良いなら、だけど」

「…………」

 新一の問いには答えず男性は俯いて黙り込んだが、傍におとなしく控えていたハナちゃんがキュンと鼻を鳴らして注意を引くと、彼らはまたもや視線を交わし始めた。ふ、と、ようやくそこで思い当たった新一はへえ、と内心目を見張る。

(すごいな、初めて見た)

 獣人でも獣の特性が強く残っているタイプは、こうして自分の種族である動物と意志の疎通が出来るらしい。多分いま、普通の人間の新一には知覚できない周波数辺りでやり取りが行われているのだろう。特に犬は嗅覚、猫は聴覚に優れていると言うが。

 情報交換が終わったのか、やはり下を向いたまま彼が口を開く。

「……きみ。悪いけど、僕は今携帯を持っていないから、今から言う番号に電話を掛けてくれないか」

「わかりました」

「ただしコールは二回で切って。そしたら折り返しがくる」

(――ん?)

 そのやり取りに頭に過るものがあったけれど、彼が口早に数字を言い始めたので、慌てて番号を入力した。

 彼が新一の携帯で会話をしている間、手早く応急処置をする。傷口は相当酷いから、これはちゃんとした病院に早く行くべきだろう。

 手当の間、度々新一をいぶかしげに見詰めることがあって、何か用かと視線を合わせれば特に何もなく、ただじっとこちらを全身のすべての感覚を使いなにかを探すような、確証を得ようとしているような、そんな薄い透き通った色の瞳でこちらを見ていた。

 いや、薄い色だったのは、薄闇の中だからかも知れない。明るい場所ではまた、違う色になるのかも。

 それにしても、目を開いた彼をちゃんと正面から改めて見ると、実にモテそうな顔をしている。柔らかな甘さを持つタレ目の瞳は勝ち気そうな眉の印象を和らげているし、鼻筋も顔の輪郭もすっと通って、精悍な印象だ。体つきだって細身に見えるだけで、傍で判る感覚的にしっかり筋肉の厚みを感じるし、立ったら身長も高そうだし、これは確実にモテる。

 手当を終えた新一がまじまじと彼を観察していると、彼は新一の視線を汚れていない方の手で遮って、ふい、と顔を逸らした。おっと、不躾すぎたか。

「ゴメン」

 一応、謝っておく。気になったらつい観察しすぎてしまう癖が人を不快にするのは当然だった。獣人の場合、喧嘩の合図だと取られてもおかしくない。

 顔を逸らした先、運良く先日の雨水が溜まっていたゴミ箱を発見したので、それをひっくり返して床に落ちている血痕を流す。少しは匂いも薄れるだろう。

「……すまない、助かった」

 新一に携帯を返した後、力尽きたように立てた自分の膝に寄り掛かっていた獣人男性のキャップが頭から転がり落ちていった。途端に窮屈なところから解放された犬の耳がぴょんと出る。窮屈さから解放された耳がパタパタ動いては周囲の音を拾っているようだ。

 素晴らしい。動物好きには最高の演出だ。撫でたい。

 しかし通りすがりの成獣人男性の耳を撫でるのはどうかと新一自身も思うので、大人しく落ちたキャップを拾いに行く。

「ほら、後少しで迎えが来るんだろ。頑張って」

「…………」

 返事がない。ハナちゃん頼む、と視線を向けると、ハナちゃんは彼の脚と体の間にできた隙間にずぼっと顔を突っ込んで、下から顔を覗う。

「…大丈夫……すこし、……、」

 やっぱり嗅覚も優れてるのか。しんどそうなのは怪我だけじゃなく、見知らぬ犬と、見知らぬ人間と、見知らぬ場所で気が抜けないからだろう。早く迎えが来ると良いな、と思いながら近づきキャップを彼の頭に乗せたところで、彼は勢い良く跳ね起きた。

「えっ…?」

 想像より遥かに力強い動きに驚いて声を上げ、身を引こうとしたところで、突然腕をガッと掴まれる。驚きも合わさって思わず悲鳴を上げた。

「イッテェ! もう、なんだよ!?」

 やっぱりさっきのまじまじと見たのを怒ったのか。そもそも日も落ちたとはいえ、あからさまに怪しい空気を漂わせるこの人の顔を、あんなにしっかりと見て記憶して良かったのだろうか。もしかしなくてもヤバイかも知れない。緊張でドクンドクンと心臓が大きく脈打つ。

 掴まれた腕を引っ張られ、近付く顔を怖々と見返していれば。

「君、……まさか、オメガか!?」

 突然、突拍子もないことを言われた。

 オメガというのは、獣人達だけにある第二性別のひとつのはずだ。ダイナミクス、通称オメガバースというそれは、獣人達の生殖に重要な役割を持つ。

 もちろんただの人間である新一に第二性別は、ない。

「は!?」

 いきなりのことに反応が返せなかった。

 固まっている新一を掴まえる腕は怪我をしている割には強い力で、容易く体が触れ合う距離に引き寄せ、彼は動物の仕草で新一の首筋へ顔をずぼっと突っ込むと、あろうことかすんすん匂いを嗅ぎ出した。

「ぎゃあ! なにやってんだよ、やめろ!!」

「薄いが確かに…子供だからか? いや、どうして……耳がないからか? いやそもそも何故そんな姿に、耳はどうしたんだ!? 尻尾は!?」

 早口で言い募り血で汚れてない方の手で頭を撫でくり回され、体を強引に捻らされあるはずのない尻尾を確認される。その間も新一を掴まえる腕は放れない。

 いや、耳はどうしたって訊かれても、ドラえもんじゃあるまいし!

 がっちりと固く拘束されて動けない腕の中、ひたすら匂いを嗅がれている謎の状況で、せめてもの抵抗で相手の腕をぺちぺち叩いていると、ギターケースを背負った男性が足音を殺しながらも走り込んできたのと目が合った。

 しばらく互いに時が止まる。

「……え、何やってるんだ?」

「ボクの方が訊きたいです!! この人の知り合いの方なら、どうにかしてくれません!?」

 とにもかくにも助けを請う。意味が判らず呆然とこちらを見ていた無精ヒゲの男性は、ギターケースを降ろすと慌てて新一を掴む腕を引き剥がしにかかってきた。

「こら、正気に戻れ! 離してあげるんだ!」

 さすがに知り合いから止められて我に返ったのか、やっと新一を掴まえている腕の力が弱まる。その瞬間を逃さず新一は走り出した。暗闇なので色々その辺のものを蹴っ飛ばすが知ったことではない。

「それじゃ、ボクはこれで!! お大事に!!」

「あっ、待っ…」

 走り出した新一の背中に獣人男性の声が追い掛けてくる、が。もし思っている通りなら。新一は素早くハンドサインを出す。

「……っ!」

 ぐ、と彼がぴたりと動きを止めたのを視界の端に捉える。新一は自分の予想が当たっていたことに非常に満足して、にっこりと微笑んでから。

「Good boy!」

 それだけを告げてサッカーで鍛えた脚で、完全に日も落ちた中脱兎の如く全力疾走した。謎は好きだがこういう意味不明な状況は求めていない。それに万が一家まで来られたりしたら冗談じゃない。お互いの顔は見てしまったが、なかったことにしてしまおう。

 そのままハナちゃんを芹田さんの家まで送って帰宅し、疲労困憊で玄関に倒れ込む新一の頭上に、帰宅が遅いと容赦ない母親の怒りが落とされた。納得いかねー!

* * *