なんか変だ。

 なにかが絶対におかしい。

 部活も終わって帰宅途中の今現在、突然道の反対側からわざわざ垣根を越えて飛び出してきた犬に押し倒されのし掛かられている。それだけじゃない、べろんべろんに顔中舐め回されて唾液まみれだ。しかも一匹じゃない。何故だかそこら中の犬が次々集まってきて群がって、散歩中の犬なんか飼い主さんからリードを振りほどいてまで。

 数日前も部活帰りに公園のベンチで幼馴染と話していたら、どこからともなく寄ってきた猫が膝に乗ってきて、さらに乗ってきて、もっと乗ってきて、あっという間に身動きが完全に取れなくなるほどの大量の猫に体中張り付かれていた。そんなことが頻繁に続けば、さすがに疑問を抱く。

 確かに元々動物に好かれやすいとは言っても、さすがに最近のこれは異常だ。いくらなんでも今までこんなことはなかった。

 何かが起きている。ワンワンキャンキャンだけではなく、掠れて鼻に掛かった甲高い声でキュンキュンピスピス忙しなく鳴く犬たちに囲まれ齧り付きそうな勢いで舐められて、呼吸もし辛いしはっきり言って怖い。謝らなくても良いから飼い主さんたち犬を引き剥がすのもっと頑張ってくれ。それに犬たちの重みで体がごりごり押し付けられている、アスファルトが固くて後頭部が地味に痛い。

 身動きが取れないまま住宅街とはいえ道の真ん中、いつまでこのままなのか、車に轢かれたりしないか心配になって来たとき。

 犬たちの動きが一瞬止まり、一斉にどこかへ視線を向けたかと思うと、
「ウォンッ」

 唸るような低く、重い一吠えが辺り一帯に響いた。

 瞬間、キャンッ、キャイン!という幾つもの甲高い悲鳴が上がった後、犬たちが飛び退いてぱっと散り散りに散っていく。飼い主さん達を引き摺って、見事な散開だった。

 呼吸が楽になり軽くなった体を起こしたその、視線の先には。

「やあ、久しぶりだね。元気だったかい?」

 まだ日も明るい中、一ヶ月ほど前に見覚えのあるイケメンの獣人が新一の目の前に立っていた。

「……いまの、アンタがやったの?」

「そうだよ」

 あの時と違って至って普通の服装で太陽の光を浴びて、綺麗に手入れされたアッシュブロンドをキラッキラに輝かせて、眩しいほどのキラッキラの笑顔を向けてきている。

 軽薄そうに見えるが、それだけじゃない雰囲気がある。薄花桜色の瞳の奥に覗えるのは確かな実力に裏打ちされた自信から来る余裕だろう。だから精神も立ち方も安定していて、穏やかで居られる。

(そんな会えて嬉しいー、みたいな顔したって、お前の尻尾が1ミリたりとも揺れてないのは見えてるんだからな!)

 いくら動物好きでも、そんな笑顔くらいで新一は油断しない。じとりと胡乱げな視線を返すが、一向に気にも留めてない様子で微笑んだままだ。

 それにしても初めて目にしたが、一吠えで犬を蹴散らしてしまうとは。やっぱり獣人としてはかなり上位、『強い』存在なのだろう。動物たちはそれぞれのヒエラルキーで生きていて、それが抗うことなくあっという間に姿を消したということは、この獣人は逆らえない相手ということだ。

「サンキュー、助かったよ。アンタも元気そうで良かった」

 散々舐められた顔を拭いながら立ち上がる。肌と毛並みの艶といい、しっかりと両脚で立つその体の感じといい、どうやら怪我の経過は良好らしい。

「僕も君のお陰でね。僕の名前は安室 透。あの時は有り難う、助かったよ」

(ふんふん、安室 透)

 人好きのする笑顔でさらりと名乗った分、信憑性がものすごく低い。嘘だな、と新一は瞬時に判断したが、にっこりと母親譲りの花がほころぶ笑顔を返す。

「わざわざどうも。お礼はハナちゃんに言っておくな。オレは工藤 新一。それで? 今日は一体なんの用で来たんだ?」

 あれだけ執拗に匂いを嗅がれて覚えられたのだ、犬の獣人相手に匂いを隠せるとは思っていない。ただ、新一の口を封じるためならもっと早く来ていただろうし、白昼堂々来る必要もわざわざ偽名だろうと名乗る必要もないから、おそらく別の用件がある。地面に転がって汚れた服をあちこち叩きながら問い掛ければ、彼は笑みを深くして一歩、近付く。

「一応、先日のお礼に来たつもりだったけど。 今さっき、大変な目に遭ってるのを目撃したら、ね」

「………」

「それにどうも、君の様子じゃ今日が初めてって訳じゃない。そろそろ優秀な工藤くんのここは、」

 新一の頭を、髪に付いた砂を払う仕草で長い指がたどり、こめかみに一度、触れていく。

「可能性の高い答えを導き出そうとしているはずだ」

「……アンタが何かしたのかよ」

 一ヶ月前のあの日。

 まさかと思いつつも、安室に言われた言葉がここ数日頭の隅にあった。訝しみながら問い掛ければ、わざとらしく目を瞠った安室が軽い口調で返してくる。

「僕が? そんな魔法のようなことは出来ないし、何かしたとして、もう一ヶ月も経つ。大抵のものの効力は切れる頃合いだよ」

 そう言って彼は上体を屈め、身を引こうとする新一の首筋付近へと顔を近づけてきた。すん、と鼻を鳴らして。

「ああ…やっぱり。少し匂いがはっきりしてきたね。なるほど、フリージア…いや、ネロリかな。春の匂いだ」

 ちょっと今は犬臭いけど、と付け加えられて、かっと頬が熱くなる。好きで匂い付けされたんじゃない、と言い返そうとし、いやいやなに言い訳をしようと、と自分の心境に動揺して、いや、別に言い返しても良かったのでは、と戸惑って結局口をつぐむ。

 どうにも彼を前にすると、正常な、自分らしい判断がどういうものだったか、判らなくなってしまう。

「さあ、行こう」

「えっ、どこに?」

「まさかこの謎を放っておくつもりかい、探偵くん?」

 挑発するように口の端を撓らせて言う。まだ名実ともに世間にはまだ探偵と知れ渡っていないのにそう呼び掛けるとは、新一のことを含む周辺のことはもう調べ尽くしているという警告か、それとも子供の幼い夢だと揶揄うつもりか。どちらにせよ新一の中の負けず嫌いが喧嘩を売られていると見做した。

 背中を向け付いてこい、と身振りで言われるが、出会い方がアレなのもあって、生憎とそう簡単に信用出来るはずがない。新一の中では彼の正体をなんとなく推測していたとしても、だ。

「いや待てよ。どこでなにされるか判らない状態で、誰がアンタにひょいひょい付いていくんだよ」

 自分が不審者という自覚を持て。一歩も動かず腕を組んで相手を強く睨み付けて言えば、意外そうな顔で新一の顔を見詰め、ぱちんと瞬いた。

「…あれ、そうか。君には効かないのか…まだ」

 その呟きを訊いて、一気にざっと血の気が下がる音が聞こえた気がした。

(こ、怖――!!)

 今、目の前の獣人はただの人間には判らない、『何か』をしたのだ。犬や獣人には効いて、新一には『まだ』効かない。でもそのうち効くような、なにかを。

 冷や汗を感じながらじり、と半歩後退る。

「まだってなんだよ!?」

「気にしなくていいよ。効いてないんだから」

 爽やかな好青年の笑顔で誤魔化そうとしたって、無駄だ。

 獣人の世界怖い。ヒエラルキーがさせてしまうことなのか、それとも先日安室が口にしていて新一が気になっている、オメガバースとやらが成すことか。おそらくただの人間には効かない、強制的に発動する命令権があるのだ。

「やっぱり何かしてるんじゃねーか!本当は 一ヶ月前も何かしたんだろ!? 正直に言え!!」

「いやいや、本当にあの時になにかする余裕はなかったよ、さすがに」

「信用出来るか、バーロー!」

 叫んだ新一が身を翻して走り出そうとする、その腕をさすがの反射神経で掴んだ安室が止める。さすがにあの時の二の舞を回避したかったらしい。

「判った、わかったから。君が素直に付いてこないことは判ってたから、ちょっと誘導しようとしただけだ。獣人にとってはよくある習性だよ。気になる匂いを辿っていく感じの。本当にそれだけだから、落ち着いて」

 口元へ立てた指先を当てて、こちらの目を覗き込みながら僅かに首を傾げる仕草。新一より背が高いのに上目遣いとはどういうことだ。髪の色と同じ金色の耳だって懇願するように少し伏せられて、まったく、こっちが動物好きだという点を差し置いても絆されてしまう。ずるい。ただでさえ顔が良いのに。あと声も悪くない。

 別の意味で腹が立ってきて目を合わせず剥れたまま動きを止めれば、彼はほっと息を吐いて姿勢を正した。

「道しるべフェロモンかよ」

「そう。でも君は、フェロモンを感知する部分が僕たち獣人と同じようには発達していないから」

 そもそも、『道しるべフェロモン』を出す人間はいない。

 オメガバースを持つ獣人達はフェロモンを嗅覚で感知するという。人間では退化した鋤鼻器じょびきが正常に機能しているからだ。人間の場合、フェロモンを感知するとしたら脳になる。たとえ鼻からフェロモンを吸い込んだとしても、フェロモンの刺激を受ける嗅覚受容体はそれを匂いとしては感じない。視床下部に直接つながっており、大脳新皮質には届かないため、何かの匂いを感じたという意識を生じる事が無いまま、直接ホルモンなどに影響を与える。

「それに大体、工藤くんの方が僕たちに何かしてるんだよ、今。君は、自分の体に起こってることをちゃんと知るべきだ」

 思ってもみない言葉を告げられて、驚いて高い位置にある彼の顔をまじまじと見た。安室の光を通して透き通る青が、新一を静かに見ている。

「君、そのままで今後も無事で居られると、そう思ってるのか?」

「は?」

「今日は犬だったけど、明日は獣人かも知れない。獣人に群がられて、押し倒されて上に乗られて、何をされると思う? 獣人相手に力で勝てるとでも?」

 想像でぞわりと鳥肌が立つ。あの日、安室は新一をオメガではないかと疑った。新一もここ最近考えていた可能性の高いもの。オメガは生殖に適した体だが、それは唯一の弊害を持つことと同じ意味を持つ。人間の新一ですら知っているほど有名な、『ヤギの雄効果フェロモン』と同じ現象を引き起こす、性別のことだ。

(まさか、人間のオレが?)

 だが、まだ具体的な証拠が揃わないうちに、論を立てようとするのは大きな間違いだ。そんな短絡的な思考は新一の目指す探偵のすることではない。

 それでも不安は消せず、黙る新一のその酷い顔を見て僅かに苦笑した安室は、動揺を落ち着かせるように掴んでいた大きなてのひらで新一の体温の下がった手を包み、柔らかい響きの声で新一の耳を撫でた。

「大丈夫だ、怖がらなくていい。君も聞いたことがあるだろう、駅に近い獣人の研究所、そこで軽い検査を受けてもらうだけだから」

 残念だがどんなに優しく言われたって、どう聞いてもやっぱり全然、安心出来る要素がひとつもない。

* * *

「あー、ちょっとオメガ反応出てますねえ。ごく微弱ですが、オメガフェロモンの数値が出てる」

 新一は無言で顔を覆って天を仰いだ。

「あなたの何世代か前に、獣人の方が居るんでしょうね。まあ、ごく稀にですけど、あることなんですよ」

「あるんですか!?」

「ええ。でも人間だとそもそもバース適性がありませんから、反応が出ても結局意味がないので、多少動物に好かれるくらいで基本的に知らずに一生を終えますね。……終えるはずなんですが」

 そこで医者は新一を見た。傍らに控えている安室も新一を見て、新一は医者をただ真っ直ぐに見た。もう、最悪な情報は出されたから変に溜めずに一気に言って欲しい。

「でも工藤さんはちょっと色々、そういったホルモンの数値が若干高いですね。おそらく、父方だけじゃなく、母方のほうにも獣人が居るのかな。しかもこちらは比較的近そうだ」

「ええっ、そんなのどっちも聞いてない!」

「でしたら、帰ったらご両親に確認してみると良いでしょう」

 淡々とまだ若い医師が説明してくれる、その頭にあるのは丸っこい動物の耳だ。

 この世界にはどういう進化の過程があったのか、獣人が存在している。人間をベースに動物の一部の特徴を備えた人種で、動物の種類は様々だが基本的に一括りで『獣人』と呼ぶ。

 それぞれ動物の種族による文化・習慣の違いは当然あるが、基本的な違いは外見くらいなので、住む環境が特別分けられていることもなく、普通に共存している。新一の通う中学にだって、クラスの三分の一くらいは、獣人が居る。

 もちろん新一が生まれる以前から獣人は居るし、そもそも世界には確率こそ低いものの多くの異種交配、交雑によって生まれる動物がある。オスのロバとメスのウマの交雑種のラバ、オスライオンとメスのトラの混血であるライガー、シマウマと馬のハーフであるゼブロイドなど。

 しかしそうして生まれた動物たちは大抵身体的疾患を抱えているし、繁殖能力もなく、短命だ。

 通常の法則通りなら獣人にも起こり得ることだが、それらを回避することが出来るのが、獣人達だけにある第二性別ダイナミクス、オメガバースだ。それが、本来なら混ざり合えない染色体の壁を越えさせてしまう。だから種族の違う獣人同士だけでなく、人間との結婚も問題なく出来る。

 しかもその第二性別は生殖に特化しすぎている余り、産む能力を持つオメガの性質を何故か男性にも備えさせてしまう。獣人という人種はかつて絶滅の危機にでも瀕したのか。だからダイナミクスが突然変異的に発達したのだと言われたなら、理解出来なくもない。

 頭を抱える新一の傍らで、無言で控えていた安室が口を開く。

「実際彼はすでに、動物にはオメガとしてフェロモンを感知されているように見えましたが、今後獣人にもオメガと感知される可能性は?」

「う~ん…まだ微弱ですからねえ。将来、獣人が生殖の対象とするほどの明確なオメガに育つかは不明ですね」

 確かにもう濁されるよりははっきり言われた方が助かるが、ここまではっきり言われるのもさすがに狼狽する。ぎょっとして、二人のやりとりをただ呆然と見守るしかない。

「ですが現に、僕は彼の僅かなオメガフェロモンが判ります」

「そうなんですか? ――ちょっと失礼」

 安室の言葉に医師が反応して、おもむろに新一の首筋へと顔を寄せてきたのに、びくんと肩が跳ねた。

「私には判りませんが、あなたが嗅覚に優れた犬科の獣人とはいえ、それはあまりない傾向ですね……。定期的な経過観察と検査が必要かも知れません」

 安室の言葉に、医師がカルテに手早く何かを書き込みながら返答する。それを聞いて何かを考え込むように顔に手を当てていた安室が、顔を上げてさらに訊く。

「今後、彼が完全に獣人寄りになる可能性はありますか?」

「いやないだろ、尻尾と耳の生えるとこがねーよ!」

 そもそも無から有は生まれない。傍観していたが思わず突っ込む。質量保存の法則というものを忘れてはいけない。

「外見的特徴が人間と変わらなくても、獣人という人も今は居ますよ」

「居るのかよ!?」

 医師に対してまで思わず突っ込んでしまった。もはや新一の情緒はぐちゃぐちゃだ。

「ええ。でも人間にしては耳が良いとか、足が速いとか、そういう人間の平均値を超える能力を持ってはいても、獣人の本来の能力値的にはどうしても劣ってしまう感じですね。ですので結局先程のオメガ適性と同じく、日常生活ではあまり気にならない程度です」

 混乱が極まった新一に、医師は気分を害した様子もなく説明を続けてくれる。

「遙か昔に獣人が誕生してからこっち、色々交配して遺伝子的に進化したり逆に退化したりと、様々ありますからね。実際、獣人は過去のデータの方が身体能力の数値が高いですし、そして今と比べて遙かに短命です。変化は確実に起こってますよ」

 人間だって、生まれつき臓器の数が多かったり少なかったり、あるはずの内臓がなかったり、ないはずのものがあったり、反転していたりは実はよくある話なのだ。月経出血がある男性の話だって聞いたことがあるし、生理のたび子宮内膜症が肺に出来る症例も発見された。新一の体の中身がオメガ寄りになる可能性が高いのは、そこまで変なことでは……ないのかも、知れない……、…………。

「…………いや、やっぱり変だろ!?」

 顔を青くして声を上げる新一を宥めるように、安室が頭をよしよしと何度か撫でてきた。それから背中もゆっくりと、優しく動物の子供を撫でる仕草で。当たり前のように体に触れてくる彼の接触を、新一は拒めずされるがままだ。新一は母親の過剰なほどのスキンシップを受けて育てられたので、触られている方が落ち着くのが早い。

「工藤さんはどうでしょうね、……まあ、身体的に物凄くびっくりすることがあれば、限りなく低いが可能性はあるかも知れません」

「びっくり」

「命の危険があるくらいの有り得ないほどの高熱を出すとか、生命を脅かすほどの事故に遭うとか。獣人の方が生命力的には強いですから」

 生命の危機には人間の本能も身を守ろうとして、様々な身体的変化が起こることは話として聞いたことがある。可能性は限りなく低いだろうが、万が一にでもそんなことにはならないよう、気を付けて生活しなくては。

 次は両親を連れての再診の予約をして研究所を出たときには、もう日も暮れていつかのように辺りは真っ暗になっていた。それでもあの時と違って街中だけあって、周りは充分に明るい。

 玄関で立ち止まった安室が新一を振り返る。街灯の光を受けて、彼の色素の薄いアッシュブロンドが月のように淡く映えている。新一は診察代を借りるつもりだったが、結局押し切られ清算を安室に任せてしまった。有り難うございました、と頭を下げて礼を言う。

「帰ったらご両親によく説明して、今後はなるべく送迎してもらえるよう、頼んだ方が良い」

 また帰宅途中で犬に押し倒されたり囲まれたり、猫に次々乗られたりすることを思えば、新一だって頼めるなら頼みたいけども。

「無理だな」

 隣の阿笠博士に頼むしかないか、と考えながら上の空で返事をする。それが気に入らないのだろう、眉間に皺を寄せて安室が更に言う。

「もちろん毎日は難しいだろうが、君の為だよ」

「そう言われても、家にいないし」

「は!?」

(あ、しまった)

 うっかり言うつもりのないことまで言ってしまった。ちらりと安室の顔を確認すれば、予想通り眉を跳ね上げている。まずい。嘘はつけそうにない。おそるおそる口を開いた。

「先週から、海外に行ってる。今どこだっけ、イタリアだったかな」

「未成年、しかもまだ中学生の子供を置いて!?」

(そういう反応になるよなあ…)

 だから簡単に口にはできないのだ。なにより噂になって泥棒に入られても困る。帰宅したら空き巣と鉢合わせなんて冗談じゃない。

 安室は続けて何かを言いたそうに口を開いたが、ぐっと口を閉じると眉間を押さえながらひとつ、ため息を吐く。そして。

「……僕のことを非常に怪しんでいるだろうが、君のご両親と、話がしたい」

 今までの柔らかさのない、どちらかといえば素っ気なさが強い口調で言うのに、お、と新一は密かに反応する。出会った時の彼はどちらかといえばこのように無愛想感が強かった。こちらを警戒しているからかと思っていたが、どうも今日の彼は取り繕っている気がして、その所為で胡散臭さが増していた。

 どれだけ不審者だろうと診察代を立て替えてくれた彼には、新一の両親と会話する権利がある。なにより獣人の立場から説明してくれた方が、大抵のことには動じない両親に旅行を中断させるだけの説得力があるだろう。だが。

「いいぜ。でもさ、そろそろはっきりしておこうぜ、安室さん」

 そうしてハンドサインを素早く出す。目にした安室の耳がぴんと立って彼の全神経がこちらに集中するのが判った。彼がどんなに反応しないように気を付けていたって、骨の髄まで叩き込まれたコマンドはどうしても無視出来ない。

 『Follow me』、自分に付いてくるように指示するコマンドだ。――警察犬特有の。

 安室は咄嗟に取り繕うような素振りを見せたが、つい出てしまった反応はもう取り消せない。こっちだって、一方的にやられっぱなしではないのだ。ふふんと鼻を鳴らして新一の家に向かって歩き出すのに、安室が不承不承といった表情で付いてくる。

「……君は一体、それをどこで覚えてきたんだ」

「ご存知のように、オレは動物に好かれますので」

 歩きながら誰に聞かれても問題ないよう、言葉を隠しながら話す。

 父親が警察に協力するときに毎回付いていけば、警察犬と触れ合う機会も頻繁にある。子供の頃からの付き合いで、有名人の子供ということもあって、もしも、の場合に役立つように教えて貰った。もちろん悪用されてはいけないから簡単には教えて貰えないものだし、新一だって無闇矢鱈と乱用したりしない。使ったのは今回が初めてだ。

「まあ、獣人も同じ訓練を受けてるのは知らなかったけどさ」

「…そもそも、僕を『そう』だと思ったのは何故だ?」

 安室は肯定はしなかった。やはりそういうところはガードが堅い。新一が安室を何故警察所属だと思ったのか、それは。

「コール二回」

 そう言って安室を見る。挑発的に唇を撓らせて、口を開く。

「そんなことをさせるのは、『あそこ』しかないだろ」

 警察の中でもそんな取り決めがあるのは、公安くらいなもの。しかもコール二回は『応援要請』だったはずだ。

 安室はただ、新一をじっと見詰めていた。動揺も、焦りも、感情の動きを見せない静かな薄い彼の青が、夜の濃さで深くなる。

「だって、普通なら直接連絡を取った方が早い。いや、たぶん本来は、オレっていう第三者が間に居ても直接連絡するんだろうな。オレに知られようと、電話番号は変えれば良いんだし。それが出来なかったのは、安室さん、アンタが怪我をしていたその原因の所為だ。

 ひとつ、安室さんは怪我をしていることを誰にも知られずに助けを呼ぶ必要があった」

 歩きながら背後の安室に向かって親指を立てて見せてから、次に人差し指を立てる。

「ふたつ、助けを呼ぶ相手が安室さんからの連絡が来ていることを、周囲の人間に気付かれるのはまずい。みっつ、つまり、助けを呼ぶ相手は、通常は安室さんと繋がりがあると思われていない」

「もういい、やめるんだ」

 三本目の中指まで立てていた右手を強引に彼に掴まれた。そのまま足が止まる。新一の手を掴んだままの安室の目をじっと見詰めれば、彼もしばらく黙って新一の目を見詰め返す。

 揺るぎない信念を持つ、玲瓏な瞳の色をしている。やましいことがある人間は新一に見詰められると、何故かほぼ視線を逸らすものだ。

 確かに、幼馴染みの父親のように元警察関係者、という線も捨てられないが、ここまでの彼の様子を思い返しても、やはり正義感を忘れて闇に染まりきった悪党のようには感じられなかった。それなら新一は己の頭脳で立ち向かえる。

 少し沈黙が重いが、それに負けずにまっすぐに安室を見た。その視線を受けて、彼は俯くと深く、深くため息を吐く。

「工藤くん。君は本当に、怖いもの知らずだな」

 顔を上げたときには安室透の貌に戻って、柔らかい苦笑を見せてくる。

「僕と初めて会ったときもそうだ。普通、危険は避けるものだろう。一番の防犯は立ち向かうことじゃない、逃げることだよ」

 なんだか今にも説教が始まりそうな口調に、新一はとりあえずこれだけは、と慌てて反論した。

「でもさ、人が人を助けるのに、論理的な思考は存在しないだろ?」

 新一の言葉を聞いて、安室は視線を合わせたままぱちんとひとつ、瞬きをする。髪の毛と同じ色素の薄いその睫毛は街中の目映い光を弾いて、星が散るようだ。その様に魅入っていると、視界の端で彼の尻尾が僅かに揺れたように見えて、そちらに視線を向ける。――動いていない。

 気の所為か。

 そうして視線を戻せば、安室はふ、と詰めていた息をそっと吐いて力の抜けた笑みをしてみせた。掴んでいた手をそのまま繋いで、今度は安室が先に新一を引っ張って歩き出す。

「ところで工藤くん、今日の晩ごはんは?」

「へ?」

「そもそもご両親が旅行の間、食事はどうしてたんだい?」

「どうって、スーパーとかコンビニとか、インスタントとか冷食とか」

 あとは休みの日には、幼馴染みの蘭とか。安室の歩調の強引さに足を躓かせながら答える。それを聞いた安室がちらりと揶揄うような視線で新一を見る。

「食べてるだけマシか。でも運動もする育ち盛りがする食事じゃないだろうな」

 確信を持って言われた言葉に、カチンときて言い返す。ほぼ初対面に近い相手にそこまで言われる筋合いはない。

「オレのこと何にも知らないだろ」

「そうでもない」

 不快感を隠さず睨み付ける新一へ、彼は自分の鼻を指先で指し示してからキザったらしくウィンクひとつして。

「君は知らないかも知れないけど、食生活って体臭に出るんだよ」

 そう言った。

(……つまり? 獣人ほどの嗅覚があれば匂いから何を日常的に食べているかを察知して、どんな人物かを推測出来るってことか? 推理の時便利だな……ん?)

 いや、待てよ。と、心の中で呟く。

 たまに電車やバスでヘビースモーカーらしき男性の横に立った時、それはもう強烈な煙草の臭いがすることがある。つまり獣人には人間の体臭がそんな風に感じられるんじゃないか。人間って肉食だから臭いらしいしな、とのんきにそこまで考えて。

(さんざん、匂い嗅がれたな、そういえば)

 新一の思考は一時的に停止した。そして次の瞬間、ヒギェ、と今まで出したことのないような悲鳴が喉から出る。

「ちょ、離して、離れて!」

 よく考えなくても、体臭を指摘されるのはとてつもなく恥ずかしいことだった。しかもどういう食生活をしているかまで知られるなんて、丸裸にされたようないたたまれなさまで感じてしまう。推理に便利とか言ってすみませんでした、これではプライベートも何もない。世の獣人達は円満な社会生活のため、人間達の体臭について黙ってくれていることを痛感した。

「スーパーに寄って夕飯の材料を買っていこう。君が今摂るべき料理を作ってあげるよ。そうだな…」

「詳しく言うのやめろ、とにかく離れろ! 距離を取れ!!」

 その後、工藤邸で新一に食事をさせた後両親に電話を掛けさせた安室は、新一には本名や明確な所属を一切話さなかったくせに、両親にその身分をどうやって証明したのかは知らないが、すぐにでも帰国する約束と、この家に定期的に新一の様子を確認に来る許可を得ていた。安室は相手の警戒心を軽々と飛び超えてしまう男だと思う。

「ええ? 今度から様子を見に来る?」

 確かにあの時怪我の手当はしたが、そのお礼としてはもう充分にして貰った。新一とこれ以上の関係を続けていくのは彼にとっておそらく良くないことだ。本当はそんな暇もないだろう。それは安室も充分判っているはずなのに。

 新一が彼の仕事の役に立つような重要人物ではないことは明確で、だとしたら父親である優作か。それにしては今まで見てきた新一を利用して優作に近付こうとする『そういう』人物とは違う印象を感じた。もしかしたら心理的な巧妙な罠で、『今までとは違う』と思わせるのが狙いなのかも知れないが。

 新一は緑茶の入った湯飲みを両手で包むように持って、その水面を見詰める。用意された食事は彼の善意から出来ていた。そういう味だった。それを二人で食べた。

 顔を上げてことりと首を傾げ、向かいに座る安室に問い掛ける。

「なんでそこまでしてくれんの?」

 その問いに安室は、テーブルの上に組んだ両手を置いて、新一にたわやかに笑って返す。

「どうしてだと思う?」

「質問に質問で返すなよ」

 またはぐらかされた、と感じてムッとする。声だけはとても優しくて、こういうのに女の人はコロッと騙されるんだな、と新一はじとりとした目で相手を見た。

「別にさー、わざわざ来て食事まで作ってくれなくても。蘭も居るし…」

 自分だけ除け者にされたことが気に入らなくて、テーブルに頬杖を突いて顔を背けふてくされながらそう言えば、突然ガッと容赦ない力で頭を掴まれて、首筋に痛みが走るくらい強引に動かされ視線を強制的に合わされる。にっこりと安室は笑っていたが、その目は全く笑っていない。

「聞けば父子家庭のお子さんらしいじゃないか。その子に自分の世話までさせるのか? しかも受験生に? 君は何様だ?」

 見開いてこちらを凝視するその目は怖かった。蘭が食事を作ってくれるのは受験に向けての勉強を教えるそのお礼でもあったのだが、新一は大人しくごめんなさいと震える声で謝った。

(人間が訓練された犬には絶対、勝てないだけだからな!)

 これはあくまで危機回避、戦略的撤退である。

* * *