ある日の早朝、降谷が安室としてポアロの開店準備に取り掛かっていた時、梓が出勤してきたのと同時に上の方から表現しがたい叫び声が聞こえた。何事だ。あまりにも聞いたことのない声に驚いて、二人とも咄嗟に身構えて顔を見合わせる。それからバタバタ、バタタ、ドカン、と騒々しい音が続いて、事件でも起こったか、と安室は上階、毛利家へと走り出した。

 あの家には今、降谷の大切な仔猫が居候しているのだ。

「おはようございます、何事ですか!?」

 階段を二段飛ばしで駆け上がり、ノックもそこそこに毛利家のドアを開け放って乗り込めば。

 リビングの食卓では1カ所派手に食器がひっくり返り床にトーストが落ちていて、それから点々と落ちている子供服とメガネ。それを辿った先には、小五郞の部屋の入り口で中の様子を窺っている小五郞と蘭が居た。なにをしているのか。

「あ、安室さん! おはようございます、ちょうど良かった!」

 振り返った時は困ったような顔をしていた蘭が安室を見た瞬間、顔色を僅かに明るくする。小五郞はまだパジャマ姿のまま寝ぼけ眼で、面倒くさそうに頭を掻きながら唸っている。

「どうしたんです? 先程の声はいったい…?」

 とりあえず緊急事態ではなさそうだ。その点は安心して努めて穏やかに問い掛ける。

「実は、お父さんが寝ぼけてさっき、食事中のコナンくんの尻尾を踏んだんです…。それでコナンくん、叫んで猫になっちゃって。お父さんの部屋に逃げて行っちゃったんですけど……あんな感じで」

 部屋を覗いて見ると、ベッドと壁の隙間に限界まで小さくなった毛玉の塊が、こちらも低い声で唸って威嚇しているのが見えた。耳は倒れて毛が逆立ち、こちらを見ている目だけぎらぎらと目立って、某国民的アニメの真っ黒いアレみたいになっている。

「ああー…」

「尻尾、骨折してないか心配で…確認したいんですけど、ものすごく怒ってて近寄らせてくれなくて…」

「今はダメですね。痛みで気が立ってますし、警戒心がかなり上がってると思います」

 そっと部屋のドアを閉めてからそう告げると、意気消沈した様子でやっぱり…と呟いた蘭がきっと眦を上げて小五郞へ怒り出す。

「もー! お父さん、コナンくんまだ小さいんだから気を付けてよね!」

「仕方ねえだろ、尻尾が床に伸びてる生活なんざしたことねえんだよ!」

「まあまあ、尻尾があるのが当たり前なので、子供は獣人の姿の時、特に尻尾の扱いが雑になりがちですから」

 喧嘩になりそうな二人を上げた両手を振って抑える。酷い時は車のドアに挟むことだって獣人の子供にはありがちな事故だ。

「でも、今日は多分学校には行けないと思います。気が立っている間は獣人の姿になりませんし…」

「そうですよね。お父さんは今日は依頼でいないので、私も学校を休むことにします。様子を見て病院に行こうかと」

「いえ、僕がちょくちょく様子を見に来ますから、蘭さんは学校に行って下さい。獣人の姿に戻っていたら、病院に連れて行きます」

 骨折しているかどうかは判らないが獣人は人間よりも多少は頑丈だし、特に猫科は治癒力が高い種族だ。大抵のことは寝て治す。蘭が休むほどの緊急性はないだろうと告げれば、蘭と小五郞は獣人の安室が言うなら、と少し安堵したようだった。

 ランチのピークが過ぎた頃、降谷がランチボックスに詰めたハムサンドを持ってコナンの様子を見に行けば、コナンは猫の姿のまま、狭いところからは出てきて自分の畳んだ布団の上で丸くなって眠っていた。平和そのものの姿にふ、と息を吐く。大丈夫だろうと判断していても、やはりこの目で確かめるまでは不安だった。

 夕飯用に多めのテイクアウトをポアロに注文することで安室を借りる許可をマスターに得て、小五郞は安室に合鍵を預けた後、仕事に出掛けていった。基本的にマスターも梓も気の良い人物だし、獣人の仔猫であるコナンのことを可愛がっているから、協力的で助かる。

 新一の頃からあらゆる動物を虜にする恐ろしい才能を持っていると思っていたが、コナンになってそのつやつやの猫耳、そのしなやかな尻尾、甘えた前足に可愛い鳴き声で人間を魅了しまくって、猫奴隷を従える王様の如く愛される存在として君臨しているのだった。元々愛され体質だったのが、どうやら猫になって顕著になったようだ。

 事件現場でも、この子が誰かの上着の裾でも掴んでにゃあんと鳴けばほとんどの人間はでろでろになって膝を付く。事件の情報なんてダダ漏れだ。もちろん対人間相手なのだから、オメガの性質は一切使っていない。思い切り獣人ライフを満喫しているように見える。この子本当に困っているんだろうか。降谷は顎に手をやりしばらく考え込んでしまった。

 とりあえず、尻尾の様子を改めてまず目視だけで確認してみるが、特に変な方向に曲がってはいない。尻尾の先に軽く触れてみても降谷の指先をくすぐるようにさわさわ動くし、耳に触れてみても熱も出していないようだ。呼吸も正常。これなら打撲傷くらいだろう。だが、彼が受けるべき検査が他にもある。

 リビングに畳まれて置いてあった子供の服とスニーカーを紙袋にまとめ、眠ってほかほかのくにゃくにゃになっている仔猫をパーカーの懐に抱えて、降谷は施錠をすませると毛利家を出た。

「あら、連れてきたのね」

 哀の帰宅時間と合わせて阿笠邸へ赴けば、やはり門の所で鉢合わせた。安室が抱えている膨らんだ腹を見て、髪の色より更に明るい色をした狐の耳と尻尾がふさりと揺れる。途中で購入した明美お墨付きの手土産を掲げてみせれば、合格だったのか嬉しそうに頷かれて家の中へと招かれた。工藤邸から向けられている鋭い視線は無視する。

「突然休んだからどうしたのかと思ってたけど、今日一日戻らなかったの?」

「ここに来る前に研究所で治療とオメガの検査を受けてきたんですが、それでも戻りませんでしたね。尻尾を踏まれたのが相当ショックだったみたいです」

 言われた言葉が気に入らなかったのだろう、パーカーの中の毛玉が尻尾で降谷の腹を打つが、くすぐったいばかりだ。

「ああ…工藤くんはそういう無作法にはあまり慣れていないものね」

 小五郞は優作とは正反対と言ってもいい。新一自身もそこまで繊細ではないのだが、今回は腹に据えかねたという所か。以前降谷が怒らせたときも、本名を教えるまで狭い安室の部屋を逃げ回って何かを壊しそうで、危なくて手に負えなかった。テロ行為に屈したなど、降谷の唯一の汚点である。

「起きてはおるんじゃろ?」

「はい。ただ拗ねていますね」

 コーヒーを淹れてくれた阿笠が安室のパーカーの膨らんだ部分を見て言うのに、ジッパーを下げて顔を出させると、そのままソファへ転がして出す。優雅にソファへと降り立った仔猫の姿の新一はぐぐっと背伸びをしたあと、テーブルの上のコーヒーに興味を引かれてふんふん鼻を動かした。そうして降谷の横に置かれていた着替えの入った紙袋の取っ手を咥えるとソファを降り、ずるずる引き摺って階段の方へと歩き出す。阿笠邸の一階は壁がない造りなので、地下で着替えてくるのだろう。ドアは付き添っていった阿笠が開けてくれるはずだ。

「それで? なにか訊きたくて来たんでしょ?」

 新一達を見送る降谷に向かって、自分で淹れた紅茶に口を付けながら哀が声を掛ける。そうして小さな指先がそれでも女性らしい仕草で、テーブルの上に置かれている手土産の、上品で華やかなパッケージに包まれたスティックショコラへと伸びた。

「ええ。彼が元の姿に戻った時、獣人なのかどうかを知りたくて」

 色とりどりのパッケージを迷いながら楽しんで選んでいる哀の回答を待つ。哀は選ぶ手を止めずに少しだけ沈黙したが、すぐに口を開いた。

「オメガにはなるでしょうけど、人間の形に戻ると思うわ。単純に質量保存の法則の観点からの話よ。今の耳や尻尾は、彼が縮んだ分の骨だとかを使っているんじゃないかしら。だから彼本来の身体に戻った時には、獣人らしい外見特徴は得られないはず」

「……なるほど」

「でも、あなたにとってはそれだけで充分なんじゃないの? 彼がオメガであるなら。……ねえ、」

 彼女の小さな指が、ひとつのショコラを選ぶ。箱から出して、ピンクの四角の表面を流れる繊細な綾にひとつ、小さなため息を吐いた。哀はショコラの表面に施されたデコレーションの美しさを満悦の表情で見詰めてから、顔近くまで持ち上げるとちらりと降谷へ視線を寄越す。

「獲物を定めて牙を隠してこつこつ我慢強く育てて来たんでしょ、人間に従順な犬のフリした狼さん?」

 ふさりと哀の尻尾が優雅に揺れる。同じ犬科の獣人には誤魔化せない、日頃は隠している種族を言葉にされて、降谷はうっそりと唇を撓らせた。

 降谷が己の種族を隠すのは、絶滅したとされる動物の獣人達は国から護られると同時に国を護る職業に就いていて、一発でその素性が判明してしまうからだ。

 新一は推理以外は大抵のことが大雑把で、降谷を一度犬だと思ったら犬種までは知ろうとしない。彼にとって動物が好きなことに変わりがなくて、可愛がることは当然だからだ。それで降谷の職業を探り当ててしまうところは、さすがの名探偵というところか。

 初めて会った時のことは、今でも度々思い出す。

 暗闇に、星が咲いたのかと思った。

 最後に会った時よりもっと幼い顔をして、躊躇わず降谷の傷へと触れてきた。ただそこに居るだけで輝いているかのような子供に、神経を鈍らせる毒を盛られて朦朧としていた意識が瞬時に覚醒し、息を呑んだ。

 陶器を思わせる白い肌、濡れたように艶やかな黒髪、そして好奇心で満ちた、きらきらと鮮やかに輝く青い瞳。

 宝石を取り巻く睫毛のカーブ、すっと通った鼻筋、花片のような形の唇。細心の注意を払って、精緻なる神の彫刻で作られたかのような美貌。

 本当にこんなにも綺麗な人間がいるのかと、光が放たれているかのような存在に目を奪われて、治療中何度盗み見ただろう。そうして彼もそのうつくしい夜明けの青を煌めかせてこちらを見てくるものだから、眩しくて思わず彼の視界を遮ってしまった。神経を冒している毒が瞳孔を開かせて、少しの光でも眩しく感じているのだろうと思い込もうとしていた。あの薄暗い中で。

 真実を見抜く素晴らしい観察眼と洞察力、そして明晰な頭脳を持っていて、正義感もあり、若さゆえの傲慢さも持ち無茶もする。清潔な香りのする、うつくしくも危なっかしい少年のことを、降谷はふとした折に何度も心に描く。

 今では誰も傷付けまいと、たった一人で孤独とプレッシャーを抱え込んでいる、愛おしい降谷の特別な猫。

 降谷の正式な種族を盗聴しているだろう赤井に聞かれてしまったが、保護された景光がとっくに話している可能性もある。大抵の場合、情報提供は保護の交換条件だから仕方がない。

 降谷は自分のコーヒーカップへ手を伸ばしながら、言う。

「命は救われたその時から、相手ものになってしまう。あなたもそうでしょう?」

 世話になっている阿笠、そして辛くて絶望に満ちていた哀を何度も支え、守り、立ち上がらせ道を開いた工藤 新一。姉の安全が約束されているのなら、この二人のことを哀はどうやってでも守り、力になろうとするだろう。己の命を擲ってでも。

 言わんとしたことが伝わったのだろう、哀は黙ってショコラを食べ始めた。美味しい、と思わずこぼれた小さな呟きを聞きながら降谷もコーヒーを一口飲む。

「でも、残念だな。それだと、彼はアルファフェロモンの匂いが判りませんよね?」

「今は子供の体だし、当然判らないわね。人間に戻っても、鋤鼻器は退化してしまっているし……」

 そこで言葉を止めた哀は、胡乱な視線を降谷に投げてくる。

「ねえ、ちょっとあなた。変なことを考えてはいないでしょうね?」

「変なこと? さあ、それはどうでしょう?」

「……もし工藤くんに何かしたら、ただじゃおかないわよ」

 警戒心と威嚇が込められた低く硬い声で告げられるのに、降谷は軽く肩を竦めて見せた。

 黒ずくめの組織が不老不死を願ってAPTX4869を作っていたように、人間を獣人に変える薬に手を出している可能性がないとは言い切れない。獣人はその見た目から人間にも歪んだ思考の愛好家はかなり居るし、オメガの場合は誘拐され不当に売買される。その市場に黒ずくめの組織が入り込んでいると見て良いだろう。

 そして、降谷はその能力を持って黒ずくめの組織の内部を探れる。現状それが唯一出来る立場にあって、そしてもし本当にそんな薬があったとして、果たして降谷がその薬を手に入れずにいられるか。

「彼の体は細胞レベルで傷付いているのよ…! もうこれ以上あの体に無茶をさせたら、本当に死んでしまうわ!」

 悲鳴に近い声を上げる哀に降谷は何も言わない。もちろん、新一が死ぬようなことを降谷がするはずもない。だが。

「……僕はただ、彼に見付けて欲しいだけです」

 二次性徴を迎えた獣人にならなければ、人間の嗅覚受容体ではダイナミクスによるフェロモンは判らない。そして二次性徴を迎えると、『オメガは発情期を迎えて項が噛めるようになる』のだ。

 降谷が言わずに暗に示したことに、冴え渡る頭脳を持つ哀はすぐに思い当たったのだろう。

「あなただけが獣人の中で彼の匂いに反応したのって…まさか……」

 驚愕の視線を向けてくる哀へ、淡い笑みだけを返す。

 阿笠の家には日光を遮る壁がない。まだ昼の名残のある光が部屋中に射し込んで、降谷の青みがかったアッシュブロンドがきらきらとプリズムのように反射する。温かい空気を含んで膨らむ獣の尻尾を、肯定の意味を込めてゆるりとソファの上で揺らした。

end.