「じゃあ安室くん、後は頼んだ!」

「はい毛利先生、お任せ下さい!」

 蘭が部活で合宿のある日、夕方からいつも通っている飲み屋に行きたいとソワソワし始めた小五郞の様子に目敏く反応した、つい先日の事件で突然自称弟子になったポアロのバイト店員の安室は、自分がコナンの世話をする、と快く請け負ってしまった。慣れてるしね、と密かに付け加えられた言葉に、そりゃあそうだろうよ、とコナンは引きつった笑いをしつつ内心でだけ返す。

 コナンに泊まりの用意をさせた小五郞は、蘭に連絡しておけよ、とだけ言って事務所の鍵を閉め足取り軽く去って行った。それを暗いテナントビルの階段で、わざとらしいほどの春風のように爽やかな笑顔で見送った安室がそのまま、無言でコナンを見る。ただ傍に佇んでいるだけなのに空気がピンと張り詰めて冷や汗が背中を伝っていき、コナンの尻尾はくるりと巻いて脚の間に挟まった。自然と目を逸らし顔が俯く。

「さて。――僕は、本当に気を付けてくれって言わなかったかな、」

 ポアロで働いている安室とは少し違う、少し低めの聞き慣れた厳しい声音が新一の上から落ちてくる、そのずしりとした重さに耐えきれず猫の耳がぺしょんとへたれた。それでも容赦なく、コナンの頬は安室の大きな褐色のてのひらに包まれて上げさせられて。

「新一くん?」

 いつものように、ぎゅうと頬を引っ張られる。

 キラッキラした微笑みが暴力的なまでに目に眩しいが、頬はめちゃくちゃ痛い。嘘は絶対に許さない、という気迫をかっぴらいたその目から強く感じて、小さな体がぷるぷると震えた。大型犬怖い。ものすごく怖い。今なら一吠えで逃げ散った犬たちの気持ちが分かる。脚の間の尻尾を両手で握り、なんとか声を出す。

「あはは…はは……、ご、ごめんなさぁい……」

 姿がどんなに変わっても、この獣人の鼻だけは絶対誤魔化せない。

 とりあえず頬を解放された後、安室と交代しながら蘭との通話を切ったスマホを上着のポケットへしまって顔を上げると、目の前に安室の褐色のてのひらが差し出されていた。

「……スマホ?」

 コナンのスマホがまだ必要だったかと思って首を傾げれば、ぱちんと安室は瞬きをして、くすりと小さく苦笑を返す。新一の頃に見慣れた、仕方がないなあ、とでも言うような。

「違うよ。全く君は…」

 呆れたように言って、きょとんと安室を見詰めているコナンの手を掬って繋ぐと、歩き出す。ふふ、と安室が機嫌良く笑って、尻尾がゆらりと揺れた。ふわふわしたものがコナンの小さな背中をくすぐっていって、繋いだ手はしっとりともの柔らかで、なんだか気持ちがふわふわ落ち着かなくなって変になってしまう。新一の頃だって手なんか繋いで歩いたことはない。匂いだって散々嗅がれたし接触も多かったのに、今更、手を繋いだくらいで。

 安室の指がコナンのいとけない手の甲をするりと撫でる。その仕草に呼ばれてちらりと上の方にある安室へと視線を向ければ、目尻を甘く撓ませてこちらを見ていた。

「その状態の君はずるいな。何でも許してしまいそうになる」

「……うそつき」

 絶対にそんなことはない。安室が情にほだされて目的を見失うことなんてあるはずがないのだ。そうやって口を巧く使って、こちらの口を滑らせようとしているんだろうと強い眼差しを向けたが、安室は気にした様子もなくコナンの小さな歩調に合わせてゆっくりと歩いていた。

 そうして辿り着いた、新一の家からもそう遠くない新築アパートの、安室の部屋に通された途端。

 突然、無言で腹部に腕を回されたかと思うと軽々と持ち上げられ、勝手に脱がされた靴を狭い三和土にぽいぽい投げ捨てられた後、ベッドの置いてある畳の部屋へとまるでぬいぐるみかのように運ばれる。あまりの扱いの酷さに尻尾でびたんびたんと安室の背中を叩くが、そこまで長くない距離なのですぐに畳の上に降ろされ、奪われたメガネもテーブルの上に放られた。

 自然と正座になって座ったコナンの真正面に、安室も武道を嗜んだ者らしいピンとした姿勢で綺麗に正座してから、さあ、と硬い声で促す。

「部下からの報告は聞いているけれど、洗い浚いすべてを話すんだ」

 現役警察官による、事情聴取の始まりである。

 トロピカルランドでの事件の後毒薬を飲まされ小さくなった新一は、なんとか自力で辿り着いた自宅の隣に住む阿笠博士の協力を得られたが、意識があったのはそこまでだった。体が根底から変化していたのだからそれも当然で、それから新一として意識を取り戻したのは一ヶ月後。その間のことを阿笠に聞けば、完全に仔猫になっていたという。証拠の動画も見せられたら信じるしかない。

 その間に両親にも連絡済みで色々対応された後だったが、安室には連絡出来ずにいた。元々彼が一方的に新一の前に顔を出していて、新一達は連絡先を知らされていなかったからだ。

 新一の両親である優作と有希子は阿笠から説明を受けたとき、黒ずくめの組織が徹底的に探りに来るだろうことを予見し、帰国したタイミングで黒ずくめの組織に囚われてしまう可能性があったため、帰国するのは今ではない、と判断した。

 阿笠によって新一を猫の姿のままロスへと移動させ保護しようとも考えたが、そこで獣人の人権と保護に関する国際条約が阻む。獣人のオメガは誘拐され不法に売買されることが国際的な問題として上げられていて、国外へ移動する際、パスポートの他に環境省や外務省等複数の許可証が必要になるからだ。新一のこの状態をどのように説明すれば許可を得られるか。しかも子供の頃から度々世話をしているとはいえ、血縁ではない阿笠では申請出来ない、というところで躓いてしまった為、阿笠の家で厳重に保護されていたのだった。

 そうして、新一の生存本能は現状に対して拒絶するのではなく適応を選び、無事に獣人の仔猫として意識を取り戻した。どうやら猫になっている間に体の使い方を覚えたらしく、尻尾や耳に対して特には違和感を感じてないし、体が小さくなって非力になったのは色々と不都合があるが、大人では難しい隙間に入り込んだり身体能力が上がったのは正直便利だと思う。おかげさまで阿笠博士の作った発明品を最大限に使いこなすことが出来るし、なによりどんなに怪しまれても工藤 新一だとは思われない。

 それからは強引に毛利家に身を寄せ、様々な事件に関わって、灰原 哀という相棒を手に入れた。FBIに協力し赤井 秀一の死を偽装し変装させ自宅へ匿うことになったとき、そういえば安室は元気だろうか、と思いを馳せていれば、まさか小五郞が参加した同級生のウェディング・イブの会場で再会するとは。その時驚きで叫ばないようにするだけで必死だった。安室の表に出さない怒りはその時からひしひしと肌で感じてはいたが。

 話を聞いている間、安室の眉間の皺が徐々に深くなっていたが、新一が話し終えると、彼は額に手の甲を当てて目をきつく閉じ、項垂れて深く、長くため息を吐いた。

(え、動かないんだけど。……もしかして泣いてる?)

 驚いて慌てて安室に近寄ると、その膝へ手を置き下から覗き込む。

「安室さんごめんな、もしかして心配した?」

 小さくなった指で額に置かれたてのひらへと触れた瞬間、安室にぎゅっと抱き込まれる。新一の後頭部と背中に力を込めて、息が苦しいほどぎゅうぎゅうに。彼が新一本来の体と違って頼りないだろう、小さなコナンの肩へ顔を埋めてくるのに、精一杯腕を伸ばして包み込み、よしよしと頭や背中を撫でてやった。

「心配したに決まってる…! こんなことにならないように、僕が今までどれだけ気を遣ってきたか! それをきみは自分から首を突っ込んで…!!」

「うん、ごめんな」

「君が助かったのは、オメガの因子を持ってたからだ。オメガは生殖に特化した性別だから、獣人の中でも生存本能が特に強い。そうじゃなかったら、今頃君は死んでたかも知れないんだぞ!!」

「うん。その辺は聞いてる」

 哀にそう言われた。あなたはきっとオメガになるわ。いつもの淡々とした口調で検査結果を告げられて、そうだろうな、と苦笑を返すしかなかった。本来なら助からない命が、ほとんどゼロに等しいごく僅かな可能性を引き寄せて助かったのなら、オメガになろうが獣人になろうがそれは些細なことだ。

 相変わらず綺麗な色をした髪だった。今は部屋に入り込む夕陽の光を受けて、艶のあるとろけそうな甘い色をしている。その手入れされた髪の一筋一筋を大切に、丁寧に撫でた。

 抱きしめていた腕のひとつが新一の肩を掴み、そのまま腕を伝っていって、安室の頭を撫でていた小さくなったてのひらまで辿り着く。安室は新一の小枝のような指を摘まんで、爪の表面をなぞる。手を解放してそれから足のくるぶしも。

「こんな…、こんなにも細くて脆い、小さな体になって…」

 新一が撫でれば撫でるほど、抱きしめる腕が縋るようなものになっていく。心配してくれるほど彼の内側に入り込めているのなら、やはり新一との触れ合いがなくなって、不安定になっていたのか。素直に悪いことをしたな、と思う。新一が居なくなっていたとしても彼はけして自分では探せないし、たとえ心配していたとしても外見に変化を起こしてはいけない。常に『普段通り』を演出しなくてはならないのは、苦しかっただろう。

 彼は右手を動かし、新一のまるい後頭部の形を確かめるかのように、てのひら全体で慈しむ仕草で包み込む。その小ささを改めて確かめるかのように。

 それから安室は腕の力を抜いて、けれど離さないまま、自分の膝の上に座り込む形になった新一と正面から見詰め合う。そして両手の親指で新一の頬骨の辺りを辿ってぽつりと呟いたその表情は、苦笑と呆れと、諦めの複雑に混ざり合ったものだった。

「それでもきみは……謎を追うのをやめないんだな」

「オレは探偵だからな。謎の気配には食らい付いて、けして離さないんだぜ」

 いっ、と牙を見せてから、にひ、と笑ってみせると、安室もつられるようにぎこちなく微笑んだ。

「まったく、君って子は…僕と初めて出会ったときと同じ色の瞳だ。星を閉じ込めたみたいにきらきらしてる」

 眩しげに目を細めた安室が瞼を閉じ、こつりと額が合わさって。

 新一が猫の仕草で頬ずりしてやると、安室の尻尾が珍しく素直にはたはたと揺れた。

「それにしてもなんで赤井を自宅に住まわせてるんだ。仕事で忙殺されてる間に、縄張りを横取りされてた僕の気持ちが分かる?」

「わー、本当に安室さんに隠し事出来なぁい」

 せっかく沖矢 昴という変装をしているのに。一応FBIの科学班が開発している、対獣人用の消臭剤や体臭を変えるフレグランスとかを使っているのに。もちろん新一の鼻は完全に騙されて赤井の匂いは判らない。それなのに安室の鼻を前にすると形無しである。

「クッソあいつ絶対煙草遠慮なく吸いまくって壁紙とか汚染してる。退去時に天井含む壁紙総張り替えさせてやるからな」

 虚空を睨み付け喉の奥で唸っている彼を宥めて、その感情をむき出しにする珍しい姿に問い掛ける。

「どうして赤井さんのこと、そんなに嫌ってるんだよ?」

「元々ソリが合わないが、なによりヒロを返さないからだ」

 腕を組んで非常に不服そうな表情で吐き捨てるように言う。それに首を傾げて見せれば、安室はため息を吐いて荒立った感情を落ち着かせてから、話を続ける。

「君も会っただろう、僕と初めて会った時に来た、ギターケースを背負った無精ヒゲの男のことだよ。僕と同じように黒ずくめの組織で潜入捜査していたんだ。君に会った後しばらくして黒ずくめの組織に潜入捜査官だとバレたとき、なりゆきでFBIが保護したんだが、要請しても返さないし本人もまだ潜入中の僕のことを慮って帰ってこようとしない」

 ふむふむ、なるほど、と新一は内心納得した。あだ名で呼ぶほどの関係なら、獣人の性質的にもなおさら辛いだろう。仲間を奪われた安室の気が立たないわけがないし、噛み付かれないだけマシだ。

「だから、部下のミスで赤井が取るものも取り敢えず黒ずくめの組織から尻尾を巻いて抜けた際、置き去りにした恋人をこちらが保護している」

「まさか…」

「会わせてない」

「子供の喧嘩かよ! 大人げねーな!!」

 なるべく安室を刺激しないように、と大人しく話を聞いていたが、やはり言わずにはいられなかった。赤井だってさすがに心配しているだろうに。

「そこは会わせてやれよ!」

「いや、実際当人自身が赤井よりも妹の方に会いたがっているんだ。だけど、妹は姉が黒ずくめの組織に殺されたと思っていて、自殺を図った」

「んっ」

 どこかで聞いた話に、余計なことを口走らないよう慌てて口を噤む。その様子を安室が見逃すはずもなく。

「と、見せかけて、実は逃亡しているんじゃないかという話なんだが、新一くん」

 ずい、と顔を更に近づけてきてその薄花桜色をした瞳を合わせ、更に言葉を重ねる。

「シェリーこと宮野 志保、知ってるよね?」

 無言でそろりと顔を動かし目を逸らした。それを頭を掴まれて強引に正面に戻される。新一の時より力は加減されていたけれど、やっぱり無理をされて首筋が痛い。

 そうして凄味のある笑顔が迫ってきて、安室は聞こえていないとは言わせないと、一言一句、丁寧に区切って言う。

「知っ・て・る・よね?」

「……知ってる……」

 目の前に居るのは確かに獣人の形をしているのに、すぐにも大型犬の姿になって噛み付きそうな感覚に、新一は観念して苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。だから大型犬怖いんだって。牙も大きいし、力は強いし、爪だって頑丈だ。

 だが、そもそも獣人達も人間達ももっと猫に感謝したらいいと思う。もし猫が犬と同じ大きさだった場合、犬は猫に勝てない。盾になってくれる犬なしで人間が勝てるはずもない。その有利性を進化の過程で犬に譲ってやったわけだ。猫は外敵に襲われ難い、という身体的アドバンテージを捨てて、愛されるべく小さなまま人間と共存する道を選んだのだから、もっと大切に扱って愛でるべきである。もうそろそろアイスコーヒーとか出てきても良いはずだ。

 新一だけが一方的に根掘り葉掘り情報を抜かれて、いいようにてのひらで転がされる今の状況に段々腹が立ってきて、尻尾がぱしんぱしんと畳の表面を叩き始める。それを見た安室が新一の背中へ腕を回して宥めるためか尻尾の付け根辺りを軽く撫でたが、その手も尻尾で叩いてやった。セクハラだ。膝から飛び降り離れてぎろりと睨んでやれば、両手を掲げ安室はもう触らない、という意思表示をして見せた。

「後で宮野 明美の今現在の写真を渡すから、会えるように取り計らって欲しい」

 ここで知ったことか、と言えたら良かったが、生憎と新一は相棒である哀が、どれほど姉に会いたがっていたかを知っている。死んでいると今まで思っていたのだ、生きていると知ればそれはもう喜ぶだろう。哀のためにはここは頷くべきだとは思う。だが。

 ここにきて、安室は未だに本名すら新一に告げていない。新一が黒ずくめの組織に関わってしまったし、それに警察関係者であることは既に判明しているから、先程の話でも潜入捜査官であることは隠さなかったが、でもまだ、謎の方が多い。そんな安室は哀のことを知ったら、裏切るのではないだろうか。

 訝しむ視線で安室をじろじろ眺めていれば、視線の意味を悟ったのだろう、安室が一度咳払いをする。

「妹に会わないと協力しない、と言われてるんだ。妹のことも、協力さえして貰えれば今更黒ずくめの組織に売ったりはしない。嘘を重ねれば必ずほころびが出来る。そのほころびで僕の素性を怪しまれるわけにはいかないからね」

 そう言いきってこちらを安心させようと微笑む安室をじっとりと見詰めた後、新一はふにゃあと一鳴き、欠伸をして。するりと一瞬で猫へ姿を変えた。

「えっ、新一くん!?」

 そのまま狭い部屋のあちこちを素早く移動し、カーテンをよじ登りカーテンレールを走るとエアコンの上から遠くへ飛び降りて、大きな体では手を伸ばしても掴みにくいテーブルと椅子の隙間に隠れたり、最終的には冷蔵庫の上まで跳び上がったり食器棚の上で丸まったり、猫の体を掴もうとする大きな手からのらりくらり逃げて翻弄してやった。安室は思ったように新一が捕まらないのが新鮮だったようで、目を瞠ってこちらをまじまじを見詰めている。いくら安室が優れていても、人の形をしていて犬科である限り猫には勝てないのだ。たかだか体が大きいくらいで甘く見ないで欲しい。

「わかった、新一くん、判ったから。ちゃんと話をしたいから、降りてきて一緒にご飯を食べよう。久しぶりだし君の好物ばかり用意したんだよ。レモンパイもアイスコーヒーもあるんだ。だから、ねえ」

 素敵な燕尾服の可愛いハチワレくん、降りておいで。

 垂れた目尻を撓ませ、ポアロにやってくるJKにそんな顔を見せれば大変なことになりそうなとろけた貌をして、甘ったるい声で新一へと手を伸ばしてくるのを、前足で押さえ付ける。安室が動きを止めた新一の猫の形を改めて見て、手袋も靴下も履いてる!と感激の声を上げた。そうだろう、こうして新一の猫の姿を見て喜ばない人間はいなかった。ふふんと鼻を鳴らす。

 力はなくとも猫の前足に押さえ付けられて、逆らえる人間はそういない。現に安室もまるで姫君の手を取る王子のように、新一の前足を恭しく握ったまま動きを止めてただ見詰めているのに、本名を名乗るのならな、という意味を込めて新一は、にゃあ、と鳴いてやった。

end.