ぱん、と布を叩く音を立てて、エプロンを広げた。

黒く丈の長いエプロンを腰に巻きつけて、横で結ぶ。

うむ、準備かんりょー。ではいざ。

「今日はジャガイモとニンジンをお願いするよ」

「おう、任しとけ!」

ルークの世話係兼護衛になって二ヶ月ほど経った。

初日の挨拶からちょっとずつ打ち解けてくれたルークは、今では有難いことに普通に接してくれるようになった。行くところがないし、結局ここが一番落ち着くのは仕方が無いことだから、クビにならなくて本当に良かった、と思う。

ガイと二人で、と言われていたけれど、まあ、その、役割分担ということで、俺が世話をすることは余り無く、主に護衛を務めている。

たまにガイが居ない時や、ルークがわざわざ指名してくることがあるから、ほんの手伝いみたいなことをするけれど、はっきり言って手際のいいお坊ちゃんに俺の手は必要ない。それはルークも判っていて期待していないのか細やかな作業はさせないし、それでもたどたどしいなりにやればご苦労、とそっけなく、けれど満更でもなさそうに労ってくれるから、俺はルークが大好きだった。

俺たちはそこそこ、仲良くやれてると思う。

何より寛大だなあと思うのは、俺に敬語を要求してこないことだ。最初の失敗から俺は極力気をつけようとしたけど、ルークは珍しかったのか何なのかは判らないが、俺の敬語を嫌がったので結局普通に、ガイに話すみたいに会話している。

このことには、ガイもさすがにびっくりしていたけれど。

後で知ったことだけど、何とルークは俺が休暇で留守にしている間、周囲にそれとなく俺の髪のことだとかを訊いて確認していたらしい。めちゃくちゃ怪しかったんだろうなあ。

お坊ちゃまが使用人に興味を持たれるなんて珍しい、貴方何をしたのと興味津々のメイド数人にガイみたいに囲まれて、勿論何もしてないと答えたのだけれど信じて貰えなくて困った。

ルークお坊ちゃんは只今剣術稽古中で、ということはもちろんヴァン師匠が来ているから顔を出すわけには絶対いけなくて(だってなんか見透かされそう)、剣術稽古が終わるまで暇な俺は、屋敷の掃除なんかして高価なものを壊してしまったら、と想像するだけで恐ろしいから、こんな日はこうして裏方の他の仕事をすることにしている。

白光騎士団を含むファブレ家使用人たちの賄いは、それなりに大変だ。

バケツに山と盛られたジャガイモとニンジンの皮を、勝手口の外にある休憩スペースで気持ちのいい空の下椅子に座って剥き始める。昼に間に合わせるために手を休める暇もない。

しかし『クッキンガー』の称号を侮ることなかれ。

薄過ぎもせず厚過ぎもしない、絶妙な皮剥きをしかも素早くこなす様を見ながら自分に感心する。

この屋敷でこんなことを《あの》俺がすることがあるなんて、本当に思わなかった。

何も知らなかった頃、どうせ部屋でだらだらと退屈だ何だと過ごしているくらいだったら、いっそこれくらいのことをすればよかったのに。記憶を失って帰って来たことを疎ましく思うなら、いっそそれくらいの扱いで居てくれて構わなかったのに、とすら思う。そうしたらきっと、我侭なんかに育たなかったしその方が、ずっと人の役に立っただろう。――ヴァン師匠の言った『英雄』よりも。

不意に落ち込みそうになる思考を頭を振って打ち消した。

こういう考え方が、卑屈、って言われるのかな。って、もう言ってくれる人はいないけどさ。

勝手口の対角線上の中心に居るだろう、ルークと師匠のことを思ってふう、と思わず深いため息が出た。

邪魔した方がいいのかな、と本当は思った。

いつも迷う。――この世界では本来なら存在しない自分が、変えてもいいことかどうか。そして変えられるのかどうか。こんな些細なことは関係ないだろうと思いながら、それでも髪を切ることも出来ない。自分の起こした何かが、この世界の均衡を崩すんじゃないかと思ったら、本当は誰かと関わることだって――怖い。

ああでも。

その時が来たら――来てしまったら、俺は自分のしたいようにしか、出来ない。

これは昔から、何も知らなかった頃から、変わらない俺の性格だから。

だから覚悟を決めないといけない。

自分の意思で世界を変えることを。

――たとえそれが独りでも。

* * *

皮剥きは無事に間に合って、配膳係にジャガイモとニンジン渡した後俺はずっと椅子に座っていた体を思い切り背伸びすることで解す。

あんたに任せると早くて助かるよ、と馴染みに言われて嬉しくなった。

感謝されるって良いことだよな、と思いながら、朝から変わらずいい天気で、青い空には太陽の光を透かしながらそれを反射する譜石が見えるのを、目を細めて見る。

こんな日は、俺も体を動かしたくなる。

さてルーク坊ちゃんの剣術稽古は終わったかな、と裏口から屋敷の中へ入って、中庭が見える渡り廊下を僅かに進んだ辺りで、足を止めた。

視線のかなり先、茂みを挟んだ中庭の様子が良く見える場所で、ガイが一人佇んでいた。

光射す庭を見詰める真っ直ぐな背中は、何もかもを拒むかのように、ぴりぴりとした印象を受ける。

俺にとってガイは頼れる存在で甘えても許してくれる優しさを持っていて、けれど目も当てられないくらいの譜業偏執狂という、無邪気な部分があって。

だから、こんな風に『ルーク』を見ていた時期もあったのだと、まざまざと目にすることは酷く切ない。

ここで声を掛けるのは、多分いけないことなんだろうけど。

――…ガイ」

びくり、と肩を震わせたガイが勢いよく振り返るのを、なるべく怪しまれないようにと気をつけながら、それでも笑って手を上げて挨拶をした。

「あ――…ああ、あんたか。そっちの方は終わったのか?」

「うん、今終わったとこ。今日はクリームシチューだぜ」

「そうか」

ぎこちない表情で会話をするガイに近づいて、中庭からは見通しが悪くなるように、茂みを意識しながら傍らに立つ。

茂みの隙間から遠くに見えるのは、片手で一撃を受けている、懐かしい師匠の背中だ。

響く剣戟の音。細い体の子供はヴァン師匠の前ではとても小さく見える。

しかしその師匠も記憶よりはまだ、何と言うか若いというか……ああ、もしかして師匠ってまだ10代なのか?

――えっ、いやいやいやちょっと待て、10代?そりゃヴァン師匠にも子供の頃とかあったんだろうけど!

な、なんか見てみたい、かも。ああダメだ。でも気になる。あー、あのヒゲっていつから生やしてるんだろう。正面から見たことがないから判らないけど、今もうすでに生えてんのかなあ?ヒゲ。

俺がそんなことを考えている隣で、ガイの腕が僅かに震えたような気がしてちらりと目だけで確認すれば、俯いたガイの硬く握り締めた拳の色がなくなっていて、堪らずにそっとその肩に触れる。

びくりと反応したガイは、咄嗟に俺の手を払って身を引いた。

「……あ……」

「ああごめん、驚かせたか?具合が悪そうだな」

酷い顔色してるぞ、と言えばガイは酷く戸惑った表情を一瞬だけ見せた後、すぐに精一杯の笑顔を向けて、何でもないようなフリをする。

「…そうか?俺は何ともないぜ。光の加減でそう見えたのかもな」

「ならいいんだけど。何かあるなら、言えよ?」

少しだけ幼い表情に微笑んで見せ、目線を合わせるように顔を覗きこんで視線を合わせる。

こちらの真意を探ろうとするように、ただじっと見詰めてくる青い綺麗な瞳は、全然変わらない。

ガイは、ガイだ。

「…出来るだけ、力になれたらって思ってるんだぜ、これでも」

あんまり役に立たないかもしれないけどな、と苦笑するけれど、ガイは信じられないものでも見ているような視線で俺を見ている。

――ああ、いきなり過ぎたかな。

折角ここにいるのだから、せめてガイとルークが仲良くなるのに協力は出来ないか。それはここでガイと初めてあった日から、共に働くようになってずっと考えていることだった。

何だかんだ言って、絶対『アッシュ』はガイのこと友達だって思ってたし、ガイだって本当は、復讐がなかったら『アッシュ』と友達になれてたはずだ。

あの頃、ガイは俺を見捨てなかった。そのことは今でも本当に嬉しくて感謝している。だけど時間が立つに連れて、『アッシュ』と仲良くしてくれた方がもっと嬉しいことに気がついた。

――俺は、返さなくちゃいけないんだから。

全部、返したかった。それを今、叶えたい。

これは『アッシュ』に対する償いでもあるし、俺を見捨てないでくれたガイを出来れば助けられたらと思う、俺自身の願いでもある。

暫く俺たちは時間が止まったように見詰め合っていたけれど。

「そこで何をしている」

幼いながらも低く不機嫌そうな声に振り向けば、中庭からこちらへと歩み寄るルークの姿があった。手には木刀を持ったままだけど、稽古の途中でこんなところに居る訳がないから、俺がここから稽古を見るのはいつものことだし、きっと終わった時に遮っていたヴァン師匠が立ち去ったことで、ここにいる俺たちにルークが気付いたんだろう。

「おー、もう稽古終わったのか?じゃあ片付けしとくから、お前は先にシャワー浴びて来いよ、ルーク」

そしたら昼食な、と手にしている木刀を受け取ってルークと一緒に中庭へ歩き出そうとすると、ガイが後ろから声を掛けて来る。

「じゃあ、俺はヴァン様をお見送りしてくるよ」

「ああ、判った。そのまま飯に行っていいぞ」

「サンキュ」

軽く互いに手を上げて別れ、ルークに向き直るとじ、とこちらを無言で見ていた。

こちらの身長が高いせいもあるからだとは思うけど、半ば睨むようなそれは普段のよりも責められているような気がする。

何だろう。別にガイと変な遣り取りはしてないつもりだ。何か可笑しかっただろうか。

余りに真っ直ぐに寄越される視線に、居心地の悪さを感じながら首を傾げて仕草だけで問い掛けると。

「…その格好はなんだ」

「何って…これ?エプロンだよ、ただの」

そういえば、見られるのは初めてだったかな。

外すのを忘れていた、腰に巻きつけている長い布の端を掴んで僅かに広げて見せる。

ジャガイモとニンジンの皮剥いてたんだ、と言えば幼い顔の眉間に皺が寄った。

小さい頃からそんなんじゃ、将来どうなっているんだろうと、心配になる。

なあ、眉間に皺寄せた国王様って、あんまりだろ。

思わず手を伸ばして眉間の皺を伸ばしてやりたくなるが、ルーク的には余計なお世話だろうなあ。そもそもそんなことをしたらこの木刀で殴られそうだ。

「何故お前がそんなことをしている。お前の仕事は俺の護衛だろう」

「そういうなよ。料理ってやってみたら結構楽しいぞ?お前は几帳面だから、かなり拘って美味しいのが出来そうだ」

生憎と、一度も『アッシュ』の料理を食べたことがないから、判らないけれど。

そう思いながら告げた俺の言葉に、ルークはきょとんとした。

わあ、珍しく子供らしい顔だ!

大きく目を瞠って、不思議そうな顔で一つに纏めた髪を揺らしながら、俺を見上げてくる。

多分、ルークの中で料理をするのは料理長だけだと思ってたんじゃないだろうか。

ナタリアも母上もしないから、きっと身近に料理が出来る人間がいるとは思ってなかったに違いない。(俺もそうだったし)

「……お前、料理が出来るのか?」

「おう、これでも一般的な料理なら、ピザとか親子丼とかから始まって、パフェとかのデザートまで行けるぞー」

貴族の食卓には上らないメニューを言ってみる。存在くらいしか知らないだろう、または知ってても言えないだろうメニューに、やはりというかルークは反応した。

そうだよなー、お前俺と違って本とか読むもんな。どんな食べ物か知りたくても、『そんな食べ物、どこで覚えてきたの』とか母上に言われるかと思ったら、言えないよな。簡単に外に出られるわけじゃないし、出ても視察とかで護衛が付くだろうし。

「……今度お前が食べたいもの、作ろっか?」

伊達にナタリアの料理の特訓に付き合ったりしてない。お互いに失敗作を交換して食べて処理しあった仲だ。

彼の好みはやっぱりというか俺と似通っていて、だから覚え易かった。

「お前、俺と一緒でチキンが好きで、ニンジンが嫌いなんだよなー」

見上げるルークの頭をくしゃりと撫でて、俺は片づけをするために機嫌よく鼻歌なんかを口遊みながら中庭へと向かう。その後をルークが追って来た。

「何で、知ってる!」

ヒミツにしていたんだろう、顔が赤い。

ルークは体面を気にするというか、格好つけるから、好きなものも嫌いなものも表面に判るように出そうとはしないのに、それを一緒に食事をしない俺が知っているのは確かに変なんだろうけど。

「俺がお前だからだよ」

俺の笑いながらの返事に、ルークは戸惑ったように動きを止めて、黙って俺を見詰めてくる。世話係になった時から時々言うこの言葉に、ルークはいつも困ったような、どうしていいか判らなくて途方に暮れたような表情で俺を見る。

俺を見るその碧の瞳は揺れていて、けれどけして逸らされずに、何かを堪えているようでもあった。

答えを探すように。

――本当に俺を信じてもいいのか、その証拠を探すように。

「何してんだ、早くシャワー浴びて来いよ」

ルークに苦笑してそう言えば、彼はまた眉間に皺を寄せ、ぱっと踵を返して屋敷の中へ走って入っていった。

* * *

シャワーを浴びて来たルークの髪の水分をタオルで拭う。

「痛い」

「…っと、悪い、ごめんな」

咄嗟に手を離してルークの顔を覗き込めば、ぐしゃぐしゃになった髪の向こうで、碧の瞳が怒っていた。

ガイにして貰えば良かったなあと思う。

ガイのやり方は柔らかくて気持ちが良かったことを思い出して、同じようにしているつもりでも俺は自分の髪を拭くのも下手だから、こういうことは本当に慣れないなあと痛感する。

「全くお前は……剣や刃物を持たせればそれなりに使うくせに、他のことはどうしようもなく不器用だな」

ため息交じりではあるけれど、それなりというのは彼にしては最大の褒め言葉だということは、この二ヶ月で学んだ。

不器用と言われたことよりも褒められたことが嬉しくて、出来るだけ痛くならないように気をつけながら髪を拭う。

ある程度乾いたのを確認して、今度は香油を馴染ませた櫛でなるべく丁寧に梳かして整えていると、ぽつりとルークが呟くのが聞こえて、俺は思わず手を止めた。

「…お前は」

「うん?」

「まだ、俺の前で歌うのは、嫌か」

ルークの背後に立っているから表情は判らない。

椅子に座ったルークの前には鏡は無くて、だからどうやっても彼が今どんな顔をしているかなんて判らないのだけど。

……え、もしかしてお前。

それで俺に良くしてくれてたのか?

そういえば、最初に会った時、もう一度と言われて断ったっけ。

ルークはその時不躾に悪かった、と言っていたけれど、あれは単に謝る言葉じゃなくて――本当に、いきなり見ず知らずの他人から言われて歌えるわけないと感じた、ルークのこころからの謝罪だったのだろうか。

だとしたらなんか。ものすごく。

ルークは、――優しい。と、思った。

ああ、そうだ、そんなの判ってたじゃないか。

だって、俺の誇りなのだ。彼から生まれたことが、俺は――

「嫌なら、別に、」

歌わなくても…、と彼らしくなくごにょごにょと口の中で言うものだから。

俺は、なにを言うべきかとか言ったらいいかとか、そういうことはすっかり頭から抜け落ちて、ただ胸に込み上げてくる感情のまま衝動的に目の前の小さな背中を抱き締めた。

――なっ…!?な、な、なに、を!」

酷く慌てた様子で暴れだす、ルークを解放すれば振り返ったその顔はいつも以上に真っ赤だ。

でも別に怒ってるわけでもなさそうだった。

ああ、そういえば前も、同じように嬉しくて嬉しくてティアに抱きついた時、皆から何か言われたような…?

あれ、俺なんかマズイことした、ん、だな?

だからルークはこんな反応なのか?

「いきなり何をする!」

「えーと、思わず?ごめんな、ルーク」

「思わずって、お前なっ」

「だってなんか、ルークの言葉聞いたら気持ちが止まらなかったんだ」

「……っ」

素直に告げたら、驚いたのか一瞬呆然とした。それから我に返ったルークは何かを言おうとして、けれど何も言葉が出てこないようで、視線を彷徨わせながら考えていたみたいだけど、最終的に。

「もういい!――……俺が寝てる時だったら、恥ずかしくないだろう」

それって、午後の昼寝の時間のことを言ってるのかな。夜は傍にいないから、多分そうだろうと考えて頷く。

「う…うん、判った」

俺の返事に、まだ顔は赤いまま、よし、とルークは頷いて、椅子から立ち上がるとドアの方へ歩いていく。

ドアが小さな音を立てて閉まる、それを見送りながら。

――ああ、どうしよう。

なんか。

すごく、うれしい。